国宝・松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていた場所

堀尾吉晴陣
先日行った、備中高松城シリーズです。(笑)
秀吉の本陣がある石井山のすぐ前に小高い岡があり、ここに陣を構えていたのが堀尾吉晴。今は神社になっていますが、神社の裏側にまわると堀切が残っていました。
秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣が堀尾吉晴。今度、天守が国宝となる松江城を造ったことでも有名です。備中高松城の水攻めをしたていた頃は38歳の壮年でした。秀吉の信任も厚く、備中高松城城主の清水宗治が自決した時は検死役を務めています。
備中高松城の戦いが終わり、中国大返しの時の山崎の戦いでは明智光秀軍に対して先手の鉄砲頭として参加し手柄をたてます。九州征伐や小田原征伐にも従軍。小田原征伐の後、関東に移封された徳川家康の旧領・浜松城主12万石に封じれます。秀吉が亡くなった後は徳川家康と結び、関ヶ原の戦いでは東軍側に参加。
やがて松江24万石に封じられ、尼子氏の本拠地だった月山富田城に入りますが、山城だったので平地である松江に松江城を造ります。この時に築城年を記した「祈祷札」が天守につけられました。築城の年代を証明する大事な札でしたが、1937年以降に所在不明となったため松江市が懸賞金500万円をかけて探したところ松江神社にあるのを発見。これが決め手となって国宝の申請をします。札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。
松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていたのが、この場所です。

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