島津義弘陣跡(関ヶ原)

島津
関ヶ原シリーズ第7回は島津義弘陣跡です。
「島津の退き口」 敵前突破という前代未聞の撤退を行った島津義弘の陣跡です。
戦国時代の九州といえば大友、島津、鍋島の三国志状態でしたが島津義弘は兄の島津義久とともに九州中を席巻。ところが秀吉の九州征伐で敗退してしまいます。負けたあとは秀吉に従い、文禄の役や慶長の役にも参加し、泗川の戦いでは明・朝鮮の大軍を寡兵で破り、武名をあげました。島津義弘は親豊臣派ですが、兄・義久は反豊臣派。家臣団も分裂していて義弘に本国の島津軍を動かす決定権がありませんでした。やむなく300の兵で関ヶ原に参加せざるをえません。
■関ヶ原の戦い
もともと義弘は家康側につく予定でしたが、亀寿という女性が豊臣方への人質として伏見におり、養父が義久という関係から亀寿の命を第一に考えて西軍につかざるをえなくなります。ただ出陣した限りは戦うつもりでした。島津軍は西軍の作戦上、二番手でしたが一番手が負けた時には全体の勝敗も決まっていて、なんともしようがなかったようです。
■島津の退き口
そこで島津の退き口となりますが、敵味方を識別するようなものは捨てて、乱戦のなかで撤退し壮絶な戦いとなりました。殿(しんがり)をつとめたのが甥の島津豊久で、戦死してしまいます。
島津義久は伊勢街道を抜け、伊勢の国を鈴鹿山脈沿いに逃げますが、この時、水口岡山城主で同じ西軍だった長束正家が道案内を派遣しています。信楽からなんとか大坂へたどりつき、人質を救出して船で九州へ向かいますが、ここで黒田官兵衛の水軍と海戦になってしまい、まさに踏んだり蹴ったり。現在の日向市にようやたどり着き、陸路を佐土原城へ、ここは関ヶ原に戦死した島津豊久が城主でした。ここから山間の道に入り薩摩にたどり着きます。
■後日談
この「島津の退き口」から50年ほど経った頃、薩摩の若者が長い距離を歩いて、島津の退き口を生き延びた武将・中馬大蔵のもとへ話を聞きに行きます。居住まいをただした武将は若者たちを前に「関ヶ原ともうすは・・・」と言ったきり、涙を流し続けて絶句した逸話が残っています。

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