戦国時代がはじまった鈎の陣

鈎の陣
”応仁の乱”の発端は銀閣寺を造営した足利義政の後継者問題。
奥さんの日野富子との間に子供がいなかったので、弟でお坊さんになっていた足利義視を後継者に任命してさっさと引退、銀閣寺などを造営します。ところが日野富子との間に息子(足利義尚)が生まれてしまいます。
■応仁の乱が勃発
我が子を次期将軍にしたいという日野富子の思いから全国の守護や管領などが両派に分かれて応仁の乱が勃発してしまいます。船岡山城が戦場になったのもこの時です。将軍の権威が落ち、守護や守護代(守護の家来)が力をもつことで戦国時代に突入してしまいました。
■鈎(まがり)の陣
結局は足利義尚が第9代将軍となりますが、応仁の乱後の幕府運営はなかなか大変。近江守護・六角氏が将軍近臣の所領を押領するなどしていたため、足利義尚自身が六角氏討伐に乗り出します。この時、現在の栗東市に陣を構え六角氏に対峙しました。地名から”鈎(まがり)の陣”と呼ばれます。
ところが六角氏に味方した甲賀衆が山間部でゲリラ戦を展開し戦闘は膠着状態に陥ります。実はこれが忍び(忍者)が全国に知られるきっかけとなり、伊賀、甲賀といえば忍者の里と言われるようになります。足利義尚は鈎の陣中で死んでしまい、六角討伐は中断となってしまいます。
さて鈎の陣ですが、今の永正寺あたりで土塁などが残っています。草津線で草津駅から一駅目の手原駅に着く手前で右手に見えます。ここから戦国時代がはじまったんですねえ。

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