柳生陣屋跡

柳生陣屋跡
柳生但馬守、柳生十兵衛といえば徳川将軍の剣道指南役で、柳生新陰流で有名です。
”新”という名前がついているので、もともとは陰流がありました。伊勢の五ヶ所浦出身の愛洲移香斎が編み出した流派です。柳生石舟斎(但馬守)が戦国時代の人を殺す剣法ではなく、人を活かす活人剣として発展させ、また無刀取りでも有名となりました。
柳生石舟斎は筒井氏に敗れ、柳生城などが落城し筒井順慶に従うことになりますが、やがて筒井を追い出して大和を支配した松永久秀の配下となります。ところが勢力を盛り返していた筒井純慶と松永久秀が辰市城でぶつかり松永久秀は敗退します。この時、柳生は久秀側で戦います。のちに筒井とは和睦しますが柳生の里に逼塞することになります。逼塞している時に新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい新陰流の奥意を極めることになります。自身も鍛錬していた家康との縁ができ、将軍指南役になっていきます。
柳生城のすぐ近くの丘の上にできたのが柳生陣屋。柳生石舟斎の子である柳生宗矩が築きました。ここが柳生藩の政庁となります。横は川が流れ、高台にあり城にはもってこいの立地でした。

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