嶽山城 応仁の乱の舞台

嶽山城
「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中公文庫)が28万部を超え、固い歴史書では珍しくベストセラーになっています。いいな~あ、ウチのバグ本も売れないかなあ(笑)。
京都からの視点ではなく、興福寺の僧である経覚と尋尊が奈良を中心に応仁の乱について日記を記載しており、”奈良から見た応仁の乱”になっており、なかなか面白い内容です。
■嶽山城
さて応仁の乱というと京都が戦場というイメージがありますが、そんなことはなく河内も大和も皆、戦場になりました。河内で戦場になったのは若江城、高屋城、そして嶽山城です。
富田林にある嶽山城では”嶽山城の戦い”が行われ、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し2年以上も幕府軍と戦いました。畠山義就は負けて嶽山城は落城するのですが、畠山義就は紀伊や吉野に逃れ、やがて上洛して畠山政長の追い落しをはかり、これが応仁の乱へとつながっていきます。
嶽山城はもともと楠木正成が作った楠木七城の一つといわれています。現在、城の跡地は「かんぽの宿富田林」となり、城跡などは残っていません。テニスコートの奥の方に碑が建っていて、碑の先に広い平坦地がありました。郭の跡のようですね。

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