奥州藤原氏終焉を見つめた平泉館(柳之御所)

平泉館(柳之御所)
初代、藤原清衡が作ったのが平泉館(ひらいずみのたち)で3代秀衡が再整備しました。源頼朝が大軍で平泉を攻めてきた時、4代泰衡が自ら平泉館に火を放ち炎上しました。後世、柳之御所と呼ばれるようになります。
■平泉館をめぐる空堀
発掘によって会議や接待などに使った2つの大きな建物と厩などの附属建物や庭園が見つかっています。平泉館は奥州藤原氏の政庁でした。また平行する2本の空堀が見つかっています。
2本の空堀は時期が異なり、併存していないようで、3代秀衡の頃は平泉館を囲む形で幅10メートル、深さ4メートルの空堀が巡っていました。この秀衡時代の空堀の一部が復元されています。こうなると中世城郭ですね。空堀は延長すると500メートルもあったそうで3ケ所で橋がかかっていました。
■奥州藤原氏の終焉
藤原秀衡は京都、鎌倉とも距離をとった局外中立でしたが、源頼朝にとって奥州は源頼義、源義家以来の源氏にとって遺恨のある土地ですから、ぶつかるのは必定。そこで藤原秀衡は流浪していた源義経を平泉に招き入れ、17万騎の武士団をまかせることにしましたが、義経が平泉入りして9ヶ月に死去。
このチャンスを逃さず源頼朝は自ら軍を率いて平泉に進軍。4代泰衡は義経を討ち取り、首を差し出しますが、頼朝の目的は違っていますので奥州藤原氏は滅びることになります。この歴史の舞台がこの平泉館でした。

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