戒重城・戒重陣屋

戒重城

太平記には後醍醐天皇が吉野へ移る時に馳せ参じた大和武士の-人に三輪西阿と記録されています。また開住西阿と呼ばれることもあり、三輪や開住は西阿が住んでいた地名で、法名が西阿だったようです。 

西阿は宗像神社の神主を代々務めている高階氏ではないかといわれ、玉井入道西阿という人物が1341年7月3日に62才で陣没したという記載があり、7月2日には主城だった戒重城が落城し、3日には赤尾城や外鎌山城が落城していることからこの時に西阿は討ち死にした模様です。 

【戒重城】 
桜井の近くに戒重という土地があり、ここに戒重城がありました。現在の春日神社一帯にあった模様です。西阿が築いた城の内、最も西に位置した平城で城の周りをが竹薮に囲まれていたことから竹城とも呼ばれていたようです。7月2日夜の戒重城落城の際、兵たちは東の外鎌城へと逃れました。 

【戒重陣屋】 
江戸時代、戒重城の跡地に造られたのが戒重陣屋です。織田長益(有楽斎)が所領のうち四男長政に一万石を分知しましたが、これが戒重藩で居城を戒重陣屋としました。五男尚長が一万石をもらって起こしたのが柳本藩で黒岩砦を取り込んで作ったのが柳本陣屋です。 

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