大坂か大阪か

秀吉や秀忠、家光が造ったのは大阪城ではなく大坂城です。坂の字が違い、戦国時代は大坂が使われていました。

大坂
大坂

幕末、浜松歌国という狂言作者が「摂陽落穂集」に「坂」は土に反(かえ)るいう意味なので「阪」を使おうと提唱しています。これで急激に代わったわけではなく江戸時代頃から大阪の字が使われてボチボチと変わっていったようです。

もともとは上町台地に小坂という坂があり、一帯を小坂と呼んでいました。石山本願寺を造った時に蓮如が大坂にしようと言い出してから大坂になったようです。最初は上町大地一帯を指していましたが、やがて摂津、和泉、河内全体をさすようになっていきます。

松阪牛で有名な松阪でも同じで、蒲生氏郷が城下町を作った頃は松坂でした。明治になり大阪が変えたのにあわせて松坂になったそうです。

興福寺・国宝館

奈良で仕事だったので、帰りに興福寺・国宝館へ寄ってきました。コロナ禍の影響もあり入場者は5名ほど。係員の方が多いですねえ。

興福寺・国宝館
興福寺・国宝館

国宝館での楽しみは天燈鬼。頭の上の燈籠を上目づかいににらんでいる姿がユーモラスでいいですねえ。

もう一つが仏頭で東金堂本尊だったものです。元々は天智天皇や藤原鎌足の陰謀で蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれます。自害したのが自分が造った山田寺(飛鳥)で、この山田寺の本尊でした。

鎌倉時代に東金堂を再建する時に興福寺の僧兵が山田寺から無理やり押し入り本尊を強奪してきます。時は流れて堂が焼けた時に焼け残った仏頭が本尊台座にほうりこまれ、昭和になってから発見されます。蘇我倉山田石川麻呂の無念がしのばれる仏頭です。

東向き商店街、餅飯殿センター街ともに、まあまあ観光客が増えていました。

佃煮 発祥の地

佃煮の発祥には諸説あるんですが、もともとは漁に出る時の保存食でした。悪天候時や船内食として小魚や貝を塩や醤油で煮詰めたものを持参していました。

田蓑神社
田蓑神社

後に江戸の佃島へ移ってから住吉神社へ奉納したのが佃煮の元となったという説がありますが、住吉神社は佃にあった田蓑神社(住吉明神)を分霊したものです。それなら佃時代から田蓑神社に奉納していただろうということで、ここが佃煮発祥の地という説もあります。

田蓑神社は神功皇后が三韓からの帰途に佃に上陸し、漁師が白魚を献上したという伝説が残っていますが、古代、住吉大社の領地だったようです。境内には東照宮もありました。

大和田城

佃近くには城跡があり、仕事が終わってから行ってきました。

大和田城
大和田城

平城ですが、何も残っていません。もともとは石山本願寺の砦があったようですが、織田信長が石山本願寺が落ちた後に拠点にしたようです。神崎川近くで交通の要衝でした。

大和田城は太田牛一の「信長公記」に出てきます。出てくるのは荒木村重の裏切りの時で、安部二右衛門という武将が城主をつとめていて信長側でしたが父と祖父が反対し、荒木軍につき、天守に立て篭もったとの記載があります。大和田城には天守がある大きな城だったようです。何とか取り戻したようです。大坂夏の陣頃までは城があったようです。

城跡は何も残っていず説明版が大阪市立大和田小学校前にありました。

佃島 発祥の地

お仕事で阪神電車・千船駅へ。千船駅は神崎川と左門殿川に囲まれた佃にあります。そうそう佃煮で有名な東京の佃島の故郷がここ佃ってご存知ですか。

千船駅
千船駅

徳川家康が兵庫にある多田神社へ参詣します。多田神社は摂津源氏発祥の地ですから、源氏を名乗る家康としては参詣しないわけにはいきません。この時に佃村の漁師たちが船を出して川を渡したことから徳川家と縁ができました。

将軍家に献魚の役を命じられ、漁師の一部は江戸に行くことになります。また、どこで漁をしてもよいという特権を与えられ、隅田川下流の干潟を造成し、できたのが今の佃島です。

新型コロナウイルス感染症の影響および金融支援の利用状況について

三重県中小企業診断協会・研究会「新型コロナウイルス感染症の影響および金融支援の利用状況について」で保証協会の実情についてお話いただきました。会場はアスト津です。

三重県中小企業診断協会
三重県中小企業診断協会

コロナで金融支援も大幅に変更・リスケしていても融資申込には対応(必ずしも出ませんが)・利子、保証料ゼロの融資(経営者保証は必要)が今までと全然、違うそうです。ただ第二波の申込では、第一波で借りたところは返済原資がないと、なかなか難しくなるようです。

一方で銀行は優良企業に無利子で3年間借りませんかと営業しており、1.6%の金利が利子補給されるのと100%保証なので、これで保証の利用も増えています。