黒木西城

黒木西城を目指して尾根を登り頂上を目指しますが堀切などの遺構がない。

おかしいなあ、確かにこの山のはずなんだが。しかし、どうも違う。結局、一山間違えておりました。せっかく登った山を降りるのは面倒なので尾根筋を歩いて、ひたすら隣の山を目指します。

大土塁
大土塁

ようやくたどりつくと郭の間を堀切があるのを発見。郭をずっと歩いていくと大堀切と大土塁がありました。写真が堀切から見た大土塁ですが、よく分かりませんね。ぜひ、現地で見てください。行くのは大変ですが

黒木西城は黒木氏の居城という説、秋山氏が本城である秋山城を奪われた時の城説、松永久秀が秋山城攻略のために築いた陣城説などがあります。

かぎろひ

ひんがしの野に かぎろひの立つ見えて
   かへり見すれば月かたぶきぬ

かぎろひの丘
かぎろひの丘

御存じ、万葉集に出てくる柿本人麻呂の和歌です。歌を詠んだ場所が阿騎野で、この写真の場所(かぎろひの丘)ではないかと言われています。昔から阿騎野では薬狩りが行われ、草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行した時に詠みました。「かぎろひ」とは東の空に見える明け方の光のことです。

阿騎野は飛鳥から多武峰を超えた所でしたので行きやすかったのでしょうね。柿本人麻呂は歌聖と言われる割には生涯についてよく分かっておらず梅原猛が「水底の歌-柿本人麻呂論」で刑死によって沈められたという大胆な説を出しています。昔、読んだなあ。「隠された十字架 法隆寺論」も面白かったなあ。

宇陀五津城

山城で案内板などがある所はほんの一握り。地元の人に聞いても知らないケースがほとんどです。そこでひたすら城の記録を検索し、先人が登った場所などを探します。あとは「近畿の城郭」などに縄張図などが掲載されていますので、これでどういう山かを把握して現地に向かいます。

宇陀五津城
宇陀五津城

宇陀五津城は五津(いつつ)という場所にあるお城です。採石場の隣という記録があったので、この山だろうと藪を突っ切って尾根にたどりつき頂上を目指しましたが平削地があるばかりで空堀などが見つかりません。おかしいなと麓まで降りて採石場の反対側の山へ。ピンポン!こちらに宇陀五津城がありました。主郭を中心に二重の空堀に囲まれ、技巧的な城になっています。二重の空堀は見事ですねえ。誰が造った城なのか皆目わかっていません。

Zoomを使って取引先とオンライン商談する際の注意点やポイント

コロナ禍の影響で大学の講義はオンラインになり、経営相談もオンラインで行うことが日常になりました。ツールとしてMicrosoft Teamsなどいくつかありますが、よく使われているのがZoomです。

営業でも取引先がオンラインにしてくれという要望からZoomで商談することも増えました。オンライン商談する時のポイントについてAll About・企業のIT活用にガイド記事を書きました。えひ、ご覧ください。

→ Zoomを使って取引先とオンライン商談する際の注意点やポイント

御体塚

織田信長より先に天下をとった三好長慶ですが後継者の息子に先立たれるなど晩年は不遇でした。

御体塚
御体塚

三好長慶は永禄7年(1564年)に42歳で亡くなりました。この年、美濃では斎藤龍興を諫めるため竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取り斎藤龍興を半年ほど追い出す事件がありました。織田信長は桶狭間の戦いに勝利し、徳川家康と同盟することで東側の脅威をなくし、本格的に美濃攻めをしていた頃です。

■御体塚
三好長慶は飯森山城で亡くなり、遺骸は郭に塚を作って仮埋葬されました。これが御体塚ですが、郭はハイキングコースから微妙にはずれていますので誰もおりません(笑)。その後、八尾にある真観寺に墓は移されます。

■三好義継が家督を継ぐ
三好長慶の後は甥が継ぐことになり、これが三好義継です。松永久秀や三好三人衆がバックアップしますが、家督を継いだのが15歳ぐらいですので内紛が発生。しかも織田信長の上洛もあって、三好家はしっちゃかめっちゃかになります。最後は追放された足利義昭を若江城で匿ったため織田軍に攻められて25歳で討死しました。この三好義継の墓も八尾の真観寺にあります。

3Dフードプリンターで食事を

J-Motto「がんばる企業応援コラム」に「3Dフードプリンターで食事を」が掲載されました。

「ティファニーで朝食を」をなぞったタイトルにしたのですが伝わらなかったかなあ(笑)。電子レンジの普及で食事を作るという概念が大きく変わりました。3Dフードプリンターが一家に一台導入されると、電子レンジ以上のインパクトがありライフスタイルが大幅に変わっていくでしょう。

→ 3Dフードプリンターで食事を

野崎城

野崎観音の裏手の山にあるのが野崎城。4つの郭で構成されていますが見晴台として郭が残っています。

野崎城
野崎城

■兵を動かすには東高野街道しかなかった
野崎城の目の前を通るのが東高野街道。今は大阪平野ですが江戸時代に大和川の付け替えが行われるまで深野池(ふこのいけ)が大坂の東側に拡がっており、京都から大坂へ大軍を異動するには山沿いにある東高野街道を南下して柏原あたりから平野へ抜けるしかありませんでした。大坂の陣でも家康、秀忠はこの東高野街道を通っています。

四条畷の合戦の舞台でもあり、野崎城のあった場所には幕府側が陣取って楠木正行軍を攻めたようです。

■飯盛山城の出城に
飯盛山城が整備されてからは出城になったようです。飯森山の東側(奈良)には田原城があり、西側(大坂)の深野池の中には三箇城がありました。3つの城が支城になっていました。三好長慶は信長以前に畿内のキリシタン信仰を認めたため三箇城や田原城周辺はキリシタンの里となりました。

飯盛山城の急階段

大阪は赤信号が点灯しているので自転車で行ける山城へ

飯盛山城
飯森山城

野崎観音から飯盛山城を登ってきました。元気なシニアの団体が3組ほど登っていました。城跡について石垣などを堪能。

以前、ファイティング・コンサルタンツ研究会で野崎観音から登った時に遅れて参加したメンバーが四条畷神社から登って大変だっという話を聞いていたので、帰りは四条畷神社に降りるコースを選択。

なるほど途中に傾斜45度ほどの階段が続いたところがあり、これを登るのは大変ですねえ。しかもすれ違いも難しいほど狭い階段でした。ただ眺望はすばらしく京都から神戸まで270度見渡せます。

信仰をつらぬいた内藤如安

信仰を捨てず海外追放されマニラで亡くなった戦国武将といえば高山右近が有名ですが、もう一人います。それが内藤如安(ジョアン)。

内藤如安
内藤如安

丹波・八木城で生まれました。守護代だった内藤家の名跡を継いだのが松永久秀の弟である松永長頼(内藤宗勝)で、この息子が内藤如安です。松永久秀が仕えた三好長慶がキリスト教に寛容でしたので高山右近のお父さんなどがキリシタンとなります。如安のお父さんである内藤宗勝も同じころキリシタンになったようです。信長のキリシタン保護はこの後の話になります。

足利義昭が織田信長と袂を分かちますが内藤如安は守護代という立場から義昭側に立ちます。足利義昭が挙兵した槙島城の戦いにも参加しましたが織田信長に負け、足利義昭が鞆に移る時に一緒についていっています。

信長が亡くなってからは小西行長に仕えています。ところが関ケ原の合戦で小西行長が破れたため、最終的に加賀の前田家に高山右近ともどもやっかいになります。徳川家康のキリシタン追放令で高山右近と共にマニラに追放され、現地で亡くなりました。

八木城・屋敷群

丹後の守護代だったのが内藤氏。八木城の麓にあるのが屋敷群で削平地がたくさん残っていて現地の説明には屋敷群とありました。守護代屋敷は山の上にあったようです。

八木城 北屋敷群
八木城 北屋敷群

■守護代
室町幕府では守護は都に在住することが基本でしたので、領国の経営は守護代にまかせていました。現地を握っている守護代の力が強くなり戦国時代には越後の長尾氏(上杉謙信)、越前の朝倉氏や出雲の尼子氏などが守護代から戦国大名になりました。織田信長は守護代の家来からスタートしています。

戦国時代の内藤氏は三好長慶と組んでおり、松永久秀とともに波多野を攻めますが。逆に攻められて八木城は落城。城主が討死してしまいます。この時、松永久秀の弟長頼が残兵をまとめて八木城を奪回。三好長慶から丹波を預けられることになり内藤氏の名跡を継ぎ内藤宗勝と称します。