天平時代のコロナ特別休暇願い

奈良博三昧には天平宝字2(758)年に書かれた休暇届もありました。万昆嶋主が勤務先の写経所に提出したものです。

万昆嶋主解
万昆嶋主解

なんでも親戚(父親の姉妹?)が重病になり、起きることができない状態となったため、看病をしていたが病状が回復しなかったので、さらに4ケ日の休暇を願い出たものです。他に看病する人がいないとも書かれています。

天平時代は天然痘が大流行し、藤原四兄弟が次々に亡くなった時期です。新羅に派遣されていた遣新羅遣から全国に拡がったのが原因のようです。重病の原因が天然痘なら、万昆嶋主が提出したのは今でいうコロナ特別休暇願いですね。

いまと同じようにパンデミックによる社会不安が起きます。ワクチンなどの有効策がないため聖武天皇が考えたのが全国に国分寺を建てて、金光明最勝王経による疫病バリアをはりめぐらせることでした。バリアの中心となるのが奈良の大仏になります。

紫微中台

国立博物館で奈良博三昧をやっていて、展示されている古文書を見ていると紫微中台の文字が!!

紫微中台
紫微中台

紫微中台だ~あ!

紫微中台って何か分かりますか。よみは「しびのちゅうだい」です。

もともとは臣下出身から初の皇后となった光明皇后のために作られた皇后宮職があり、これを唐風の名前に改めて発足させます。横文字のデジタル庁みたいなものですね。

■紫微中台
律令制度にない新設の官職(令外官)で聖武天皇と光明子の娘である孝謙天皇を補佐するために749年に設置されました。トップになったのが藤原仲麻呂、そうです恵美押勝です。権限を握ったこともあり、橘諸兄、吉備真備、道鏡などオールスターとの政変になります。仲麻呂の後ろだてだった光明皇太后が760年に亡くなると、紫微中台も廃止されます。

■藤原仲麻呂の乱
そして起きるのが藤原仲麻呂の乱。平城京を脱して息子が国司をしている越前を目指す藤原仲麻呂ですが立ちはだかるのが吉備真備です。吉備真備は70歳と高齢でしたが唐で軍略などを学んでおり、仲麻呂の先回りして三関を閉め、琵琶湖の西側に追い込みます。現在の近江高島あたりにあった三尾城あたりで仲麻呂は最後を遂げます。

10年ちょっとの紫微中台の文字が古文書に残っているんですねえ!

平城京 南門

平城京南門が・出来上がりました。
「なんと、りっぱな平城京」で覚えた平城京遷都は710年。藤原京から移り、長岡京に遷都するまで70年ほどの都でした。

平城京南門
平城京 南門

大極殿正殿と朱雀門が出来上がっているので、南門を含めた3つが縦に並んで見られるようになります。計画によると築地回廊、東西楼(南門の東と西にあった建物)、内庭広場も随時、復原整備されるんですね。

■幕末からの保存活動
遷都後の平城京はだんだん廃れ、長い間をかけて田んぼなどになっていました。江戸時代末期に藤堂藩の飛地が古市にあり、古市奉行所に勤めていた北浦定政が自ら考案した測量車を使って奈良盆地をくまなく調査。地図の上に平城京を復元します。これが「平城宮大内裏跡坪割之図」。平城京は碁盤の目のように区画されていましたが、水田のあぜ道などや古い地名を調べて比定していきます。

ペリーの黒船来航などで騒然としたいた時に、こんなフィールドワークをやっていたんですね。明治になってから関野貞が大極殿の基壇を見つけ、棚田嘉十郎によって奈良大極殿保存会が設立され、保存運動がすすみ、現在の平城旧跡歴史公園が誕生します。