親殿城

「奈良中世城郭事典」(戎光祥出版)を呼んでいると片岡城近くに親殿城が掲載されていました。

親殿城
親殿城

芦田池のすぐ近くにある親殿神社境内が城跡になっています。親殿神社は片岡道春が文明年間(1469〜87)に春日若宮社を勧請し、親殿と名づけ崇敬したのが始まりのようです。若宮おん祭りで流鏑馬を奉納するのが大和武士の誇りでしたので、若宮を勧請したのでしょう。この時に城郭にしたのか、もともと城郭だったところを神社にしたのか、よく分かっていません。

親殿神社は高台にあり東側がよく見えます。神社は土塁に囲まれ、入口には堀切があり、参道は土橋だったようです。桜井にある谷城(若櫻神社)に似ていますね。片岡氏は
河内からの侵入に備えるために七郷山城、送迎山(ひるめやま)城、雲門寺城を築いていたようで最終的に居城を片岡城に移しました。片岡城は松永久秀に攻められて落城し、松永方になりました。松永久秀が信長を裏切った時、明智光秀や筒井順慶らに片岡城を攻められましたので、その時に造られた陣城の可能性もあります。

最期の溜池 芦田池

達磨寺近くにあるのが芦田池。どこにでもある、ふつうの池なんですが、これが、ああ~た!日本最古の溜池と言われています。

芦田池
芦田池

推古天皇15年(607年)、教科書で習った小野妹子を遣隋使として派遣した年です。同じ年、厩戸王の進言で大和の国に高市池、藤原池、肩岡池、菅原池を造りました。この肩岡池が芦田池と言われています。葦が茂っていたことから葦田池と言われていました。柿本人麻呂の歌に「あすからは 若菜つまむと 片岡の あしたの原は けふぞやくめる」が残っています。

ただ異説もあり、近鉄・大阪線の関屋駅近くにある簱尾池・分川池ではないかとも言われています。現在も農業用水として使われており太子講を作り、毎年、初穂を法隆寺に奉納しています。

他の3つの池ですが菅原池は現在の蛙股池のようです。近鉄・菖蒲池駅近くにあり、大和文華館横にある池です。

高市池は天香具山付近にあったと伝わる埴安池(はにやすのいけ)。藤原池は島庄遺跡の発掘調査で見つかった方形池ではと言われています。どちらも池は無くなりましたが、こちらも諸説あります。

達磨寺

片岡というのは古い地名で聖徳太子の片岡飢人伝説が伝わっています。聖徳太子が片岡山にさしかかると、飢えと寒さで息も絶え絶えの人が倒れていました。太子は持参していた弁当と飲み物を与え、紫の衣を脱ぎ、着せかけました。翌日、亡くなったことを聞き、墓を建てさせます。数日して太子が「あの飢人は、きっと聖人にちがいない」と言い出したので、念のため墓を開いたところ、遺骸はなく、紫の衣だけが、丁寧に畳まれて柩の上に置かれていました。

達磨
達磨

■達磨寺の創建
飢人は達磨大師の化身だったという伝説です。この墓の上に鎌倉時代、建てられたのが達磨寺の発端になります。境内には、達磨大使が座っていた石が残っていて、ここで太子と問答したそうです。ほんまかいなあ。大体、キリストの昇天みたいですがな。日本書紀や古事記を編纂していた時代、中国に景教(キリスト教)が伝来していたので、この影響があったのでしょう。大体、馬屋の前で生まれましたしね。

伝説も多いので日本史の教科書から聖徳太子をなくす話が話題になっていましたが、今は厩戸王(聖徳太子)という表記になっています。大陸外交に力をいれていたため大和で最初に使節を迎える斑鳩に宮を建てることになります。

雪丸

雪丸
雪丸

達磨寺には雪丸のお墓があります。雪丸というのは聖徳太子の飼犬で、白くて、とっても賢かったそうです。人の言葉を理解し、お経も唱えたそうですが、ほんまかいなあ。雪丸像がいつ造られたのか謎ですが江戸時代後期の大和名所図会には出てくるので、この頃にはあったようです。

これに目をつけたのが王子町観光協会。王寺町の公式マスコットキャラクターとして、ゆるキャラにしちゃいました。頭には烏帽子をかぶっています。JR王寺駅から達磨寺までは雪丸ロードになっていて、道路のアチコチに足跡というか肉球跡がついています。

商売繁盛で笹もってこい

額田戎神社
額田戎神社

個人事業は1月から第22期目に突入。法人は2月期末で現在、第6期目を推移中です。というわけで、えべっさんへ家の近く額田戎神社へ。西宮戎から勧請したので西宮までわざわざ行かなくてすみます。大体、すいていますし(笑)。ということで商売繁盛よろしゅうお願いします!

松永久秀の墓

松永久秀、大河ドラマ「麒麟がくる」では吉田鋼太郎が演じていました。お墓が王子にあるんですね。

■松永久秀お悪評はホント?
信長が家康に松永久秀を紹介する時、「主家である三好家の乗っ取り、将軍足利義輝の暗殺、東大寺焼き討ちという常人になしえないことを3つもした」と言った逸話が残っています。ところが最近、松永久秀の肖像画が新たに見つかり、悪評とは違い、出っ歯で温和なイメージの肖像画でした。松永久秀は大和を攻めた時、東大寺や興福寺に軍資金を要求しています。大和の仏教界は散々な目にあわされたため松永久秀が大悪人として記録され、これが後世にひろまったようです。

松永久秀は信長を二度、裏切り、一度目は信長包囲網ができ武田信玄が進軍を開始した時に、こりゃ信長から鞍替えしないとまずいと裏切っています。この時、足利義昭も信長についていると大変だと裏切っています。信玄が病死しなければ家康も信長も危ないところでしたので状況判断としてはもっともです。信玄の進軍がとまり、信長包囲網が各個撃破されると松永久秀は名物の茶道具などを差し出して信長に謝っています。

松永久秀の墓
松永久秀の墓

■松永久秀の墓
二度目の裏切りは天正5年(1577年)です。上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などと呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。松永久秀は信貴山城に立て籠もります。信長は説得を試みますが、破談に。信長は10万の兵で信貴山城を攻撃。10月10日に信長が欲しかった平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害します。10月10日は10年前に大仏が焼き払われた日と同じだったため罰が当たったと言われました。

松永久秀の首は安土に送られましたが、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬りました。松永久秀と筒井順慶は長年の宿敵でしたが、何か思うところがあったのでしょう。松永久秀の墓は敵対した片岡春利の墓の横になっています。

片岡春利

片岡城の城主であった片岡氏は春日社の国民(神人)であり、また興福寺一乗院方の坊人(衆徒)でもありました。大和の筒井氏、古市氏、越智氏、箸尾氏、十一氏も同じ立場で、鎌倉の御家人と同様に内部抗争ばかりしていました。戦国時代になると当主は片岡新助利春となり筒井順慶の妹を奥さんにして、筒井方として戦っていました。大和の国衆はどんぐりの背比べ状態でしたが、筒井順慶が頭ひとつ抜け出し、棟梁的立場になっていきます。

筒井順慶が大和を統一するかと思わたところへ宿敵となる松永久秀が進出してきます。織田信長の上洛にあわせて松永久秀は信長に降伏し、信長を後ろ盾にして大和の諸城を攻撃します。大河ドラマ「麒麟がくる」でも2人の確執が描かれていました。

筒井方の片岡氏は松永氏と戦っていましたが、永禄十二年(1569)、片岡城が松永方に攻められ落城し、片岡新助利春は落ち延びることになります。最後は病没だったようで、達磨寺に墓があります。

片岡城

鎌倉時代から続く片岡氏の城が片岡城。片岡氏は興福寺一条院の荘園があったことからもともとは一条院の荘官でした。片岡城は松永久秀との戦いで奪われてしまいあす。松永久秀が信長に対抗した時、片岡城を守っていたのは松永側与力である森正友と海老名友清です。信長は明智光秀、筒井順慶、細川藤孝に命じて片岡城を攻めて落城させました。次に信貴山城を攻めることになります。信貴山城が目の前に見えるので落城する片岡城を松永久秀はどんな思いで見ていたのでしょうね。

片岡城
片岡城

片岡城は以前に見に行ったことがあるのですが整備がだいぶ進んでいました。耕作地ばかりで中に入れなかったのですが主郭までに遊歩道ができていました。しかも、きれいに整備され主郭をばっちり見学でき、片岡城の旗もあがっていました。

2022年 読んだ本117冊

毎年、読んだ本を記録していますが2022年は117冊でした。例年、100冊ぐらいが通常で、読むスピードはそれほど変わらないため要因は本の分量が20%ほど減ったということです。だいたい本のポイント数がだんだん大きくなるのに枚数が同じだと字数が減るしかないですからね。特に新書で顕著です。

ちなみに年越しをしながら読んでいる本は「商社マン、エルサルバドル大使になる」(集英社新書)、「激闘!賤ケ岳 羽柴軍VS.柴田軍」(洋泉歴史新書)、「図説 六角氏と観音寺城」(戎光祥出版)の3冊で、我ながら偏っていますねえ。

年間100冊読んでも50年間で5000冊しか読めないんですなあ。これで読んだ内容を覚えていたら大したものなんですが、大体、内容を忘れています(笑)。