二十歳の原点

二十歳の原点
二十歳の原点

先日、丸善をのぞいていた時、面陳列されていたのが「二十歳の原点 コミック版」。

また懐かしい本がコミックになったんですねえ!ラベルには「今のままじゃダメだと感じている全ての人に」とあります。50年ほど前、立命館大学は衣笠ではなく河原町広小路にありました。跡地の一部は以前に勤務していた関西文理学園が買って、今は長浜バイオ大学の学舎などになっています。京都府立医大のあたりも立命館大学でした。

学生運動が盛んな頃、立命館で学生生活をしていた高野悦子が書いていた日記が「二十歳の原点」です。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という言葉からタイトルになりましたが、本を読むと朝日ジャーナルやら哲学書など、よく読んでいますねえ。最後は「旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには1箱の煙草と笛をもち 旅に出よう...」で終わります。当時は二十歳になったら読む本で影響を受けた若者が私も含め多かったですね。

おおさか東線

おおさか東線
おおさか東線

東大阪からJRで京都や東京へ行く時に便利なのが「おおさか東線」。従来は大和路線の久宝寺駅から片町線の放出(はなてん)駅までですが、放出駅から延伸されて新大阪駅に接続されました。ダイヤは15分に1本と大阪にしては少ないのですが混み合う本町などを経由せずにすみます。

■赤川鉄橋
放出から新大阪までは城東貨物線が通っていたのですが「おおさか東線」にするために複線化されました。途中、淀川には赤川鉄橋がかかっていて、昔、上新庄に住んでいた頃、通勤はラッシュで混み合う阪急電車でした。

晴れた日は、この赤川鉄橋を自転車で渡り毛馬から中之島を通って堂島の会社まで自転車通勤していました。貨物線のすぐ横に歩道があり、貨物列車が通ると風圧で淀川に飛ばされるようになる鉄橋でした。この歩道をつぶして複線化されたので、今は通れません。

この懐かしい赤川鉄橋を通って列車は新大阪へ向かいます。おおさか東線には時たま貨物も通っています。

見て納得 集客できるホームページの魅力づくりセミナー(大阪商工会議所)

7月に開催するセミナーのお知らせです。

大阪商工会議所主催「見て納得 集客できるホームページの魅力づくりセミナー」で5支部6日程で開催します。大阪商工会議所会員の方は無料です。

内容は初心者向けのホームページ活用講座で人材採用が大変なのでその話が1/3ほど入っています。
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招き猫の豪徳寺

豪徳寺
豪徳寺

秀吉の小田原征伐時、北条氏の傘下だった奥州吉良氏の世田谷城は廃城となり、世田谷に逼塞することなります。世田谷城内にあった奥州吉良氏の屋敷跡が豪徳寺となり、世田谷領は井伊家に与えられることになります。 

井伊家が豪徳寺の菩提寺としたこともあり、歴代藩主のお墓が並んでいます。あの「花の生涯」の主人公、井伊直弼のお墓もあります。豪徳寺は、招き猫発祥の地としても有名で商売繁盛を祈願するなら最適です。 

奥州吉良氏は徳川家康に臣従することとなり高家として取り立てられ蒔田氏を名乗ります。元禄時代に忠臣蔵(赤穂事件)が起きて三河吉良氏が断絶したことから吉良に復姓し明治にいたります。

箸尾城

箸尾城
箸尾城

近鉄田原本線の箸尾駅南側に位置する的場地区にあったのが箸尾城。

箸尾城跡は住宅街になってしまい今は碑だけですが、環濠跡が水路として残っています。箸尾氏は越智・十市・筒井と並ぶ大和四家の一つで、この四家はもともと興福寺や春日神社の荘園管理をしながら力をつけました。興福寺には大乗院門と一乗院門があって、お寺なんですから仲良くすればよいのですが覇権を争い、要はイスラム教のスンニ派とシーア派の争いのようなことが大和のなかで起きていました。箸尾氏は興福寺一条院方です。

箸尾氏は越智氏と組んで筒井氏と争い、筒井順覚によって箸尾城は攻められ落城します。越智氏の支援で復活した箸尾氏は、大和へ進攻してきた松永久秀と組んで筒井順慶と戦ってます。最終的には松永久秀から筒井順慶に帰順しますが、織田信長による大和一国破城令により箸尾城は廃城となります。

春日大社の摂社若宮神社のお祭りである春日若宮おん祭が今も行われていますが、おん祭が始められた1136年から、大和武士による流鏑馬十騎が奉納されていました。大和の武士にとっては矜持でした。これに奉仕したのが長川党の盟主・箸尾氏です。

BLAST研究会

BLAST研究会
BLAST研究会

昨日は大阪産業創造館でBLAST研究会。

BLAST研究会とは世界制服を狙う秘密結社で(笑)、表向きは2002年に中小企業診断士試験が新制度に移行したのにあわせ、新制度での中小企業診断士(ニュータイプと呼んでいます)有志が集まった研究会です。診断協会の枠をはなれ関西一円から集まっていて東京にもメンバーがおり、昨日も東京から参加がありました。

研究会が終わってからいつも懇親会があるんですが、こちらの名幹事である影山さんが独立することになったので記念研究会でした。4時間の研究会が終わってから、いつものように3時間ほど飲んで終わりました。

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳
藤ノ木古墳

法隆寺の近くにあるのが藤ノ木古墳。

1985年、発掘調査で未盗掘だったため石室にファイバースコープを入れたところ金色に光る遺物が映り、テレビ報道などで大騒ぎとなった古墳です。しかも朱塗りの家形石棺に成人男性2人が合葬されていて、「なんで男が二人、一つの石棺に入っているの!」と一大センセーションを巻き起こしました。

被葬者の一人は蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子で、もう一人は同じように東漢駒が蘇我馬子の命令で暗殺した崇峻天皇もしくは宅部皇子ではないかと言われています。蘇我と物部との争いの一環で亡くなった2人でした。

出土した黄金の靴などは橿原考古学研究所の附属博物館にありますがレプリカがすぐ近くの斑鳩文化財センターに展示されていて係員に頼むと丁寧に説明してもらえます。

檜前寺

於美阿志神社
於美阿志神社

最近は古墳の話題が多いということで今回はお寺「檜前寺」です。

飛鳥の中心部から少し離れているので観光客も若干、少ない地域です。真弓鑵子塚古墳、与楽乾城古墳など真弓丘にある被葬者は東漢氏とみられていますが、東漢氏が根拠地としていたのが飛鳥の檜前(ひのくま)です。応神天皇の時代に阿智使主が百済から日本へ渡来して与えられた土地で、東漢氏の祖となり氏寺が檜前寺でした。

686年の日本書紀に檜前寺の記載があるので、この時期にはできていたようです。江戸時代に本居宣長が訪れた時には庵のような状況になっていたようです。近くにはキトラ古墳や高松塚古墳があります。発掘調査の結果、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置し、回廊でつながる、ちょっと変わった伽藍配置になっていました。礎石跡などが残っています。

現在は檜前寺跡に於美阿志神社(祭神は阿智使主とその妻)が建っています。

岡山へ

岡山駅
岡山駅

岡山でお仕事。仕事は午後からなので早目に岡山城を見に行こうと思っていたら、IT導入補助金について教えてほしいという岡山のITベンダーからの連絡が急に入って、午前も潰れてしまいました(泣)。

夕方にはお仕事が終わって岡山駅へ。乗ったタクシーの運転手が10連休についてぼやいていました。岡山の観光地といえば岡山城や後楽園なんで使うのはバスや市電が中心。タクシーを使うのは営業が多く、10連休はビジネスが止まるのでタクシー事業者もかなり実車を減らすそうです。居酒屋もどれぐらい開店するかよめないようです。

さて岡山駅で少し時間があったので駅をいろいろと散策していると一角に立ち飲み屋を発見。地ビールである独歩(ドッポ)も置いていました。