松永久秀の墓

松永久秀、大河ドラマ「麒麟がくる」では吉田鋼太郎が演じていました。お墓が王子にあるんですね。

■松永久秀お悪評はホント?
信長が家康に松永久秀を紹介する時、「主家である三好家の乗っ取り、将軍足利義輝の暗殺、東大寺焼き討ちという常人になしえないことを3つもした」と言った逸話が残っています。ところが最近、松永久秀の肖像画が新たに見つかり、悪評とは違い、出っ歯で温和なイメージの肖像画でした。松永久秀は大和を攻めた時、東大寺や興福寺に軍資金を要求しています。大和の仏教界は散々な目にあわされたため松永久秀が大悪人として記録され、これが後世にひろまったようです。

松永久秀は信長を二度、裏切り、一度目は信長包囲網ができ武田信玄が進軍を開始した時に、こりゃ信長から鞍替えしないとまずいと裏切っています。この時、足利義昭も信長についていると大変だと裏切っています。信玄が病死しなければ家康も信長も危ないところでしたので状況判断としてはもっともです。信玄の進軍がとまり、信長包囲網が各個撃破されると松永久秀は名物の茶道具などを差し出して信長に謝っています。

松永久秀の墓
松永久秀の墓

■松永久秀の墓
二度目の裏切りは天正5年(1577年)です。上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などと呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。松永久秀は信貴山城に立て籠もります。信長は説得を試みますが、破談に。信長は10万の兵で信貴山城を攻撃。10月10日に信長が欲しかった平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害します。10月10日は10年前に大仏が焼き払われた日と同じだったため罰が当たったと言われました。

松永久秀の首は安土に送られましたが、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬りました。松永久秀と筒井順慶は長年の宿敵でしたが、何か思うところがあったのでしょう。松永久秀の墓は敵対した片岡春利の墓の横になっています。

伊賀上野城

伊賀をおさめていた筒井定次は関ケ原の合戦で東軍側につくのですが、その後、家中で紛争が起こり、家康はこれを理由に筒井定次を改易します。筒井は豊臣恩顧大名で大坂にちかい伊賀を支配していたため、家康側近の藤堂高虎に替えて大坂方に備える意図がありました。

伊賀上野城
伊賀上野城

■藤堂高虎
近江の甲良町にある藤堂村の土豪出身で七回、主を変えたとして有名ですが江戸時代の封建的な考え方で戦国時代は当たり前でした。身長が190cmぐらいと大男で有名でした。慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国をおさめていた藤堂高虎を、伊賀10万石・伊勢10万石、伊予2万石、合わせて22万石を与えて国替えさせました。

■伊賀上野城
家康は大坂包囲網を作るため、丹波篠山城、姫路城を大改造します。高虎も大坂を守る形の筒井古城を大坂に対峙するための城に大改造。西の大坂に向かって高石垣をめぐらしました。五層の天守閣を造る途中に暴風で倒壊してしまいましたが、大坂の陣が終わったため再建されませんでした。現在の天守閣は昭和10年に造られたものになります。藤堂高虎が亡くなったのは江戸の藤堂藩邸で伊賀上野に似ていたので上野という名前をつけ、これが東京の上野になりました。

ファイティング・コンサルタンツ忘年会

ファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。場所はいつもの黒門市場にある寿恵廣で、昼間からいつものメンバーが集まり、これまた定番のブリシャブです。昨今の値上がりの影響をうけて価格は高めでした。

黒門市場
黒門市場

黒門市場、コロナ禍では誰も歩いていませんでしたが、今は7割ほど戻ってきています。すっかりインバウンドの街になり錦市場と同様に食べ歩きできる店が多いですね。ホタテやカニを店先で買って焼いて食べられます。

そうそう寿恵廣も、ずっと文字だけのお品書きでしたが料理の写真入りに変わっていました。ブリシャブを食べている時も隣は韓国人グループでした。以前からインバウンド客も入ってきていましたが、さすがに無視できなくなったんですかねえ。結局、4時間ぐらい食べたり飲んでいて、最後はお店の人に追い出されました(笑)

當麻寺

當麻寺
當麻寺

聖徳太子の弟が創建したと伝わる當麻寺。奈良時代から平安時代に建てられた東と西の三重塔(東塔・西塔)がいいですね。當麻と言えば當麻蹶速(たいまのけはや)という人物が古代にいました。互角に力比べできるものはいないと豪語していたため、対戦相手を探していたところ出雲に野見宿禰(のみのすくね)がいました。出雲は島根県という説もありますが桜井から東に入ったところにも出雲があり、こちらの方が合理的です。

當麻蹶速と野見宿禰の相撲による試合が行われ、垂仁天皇が見守りますので天覧試合です。勝ったのは野見宿禰では當麻蹶速は殺されてしまいました。口は禍の元ですねえ。天覧試合が行われたのが山の辺の道沿いにある穴師の相撲神社です。野見宿禰は土師氏の祖となり出雲の畑のなかに塚が作られ近鉄電車から見ることができます。

二上山城(雄岳)

最近、奥方は山登りにはまっていますが、こちとら山登りには何の興味もなく、ついていくことはありません。

大津皇子墓
大津皇子墓

先日、二上山に登るということで、ついていきましたが目的は二上山城です(笑)。途中、二上山の麓に岡城があるんですが、岡城に入るには切岸を直登しないといけないので、さすがに文句が出るだろうとあきらめ、ゼイゼイ言いながら山登りを続けます。ようやく雄岳頂上の大津皇子墓跡へ。ここが郭の一つです。墓跡は横に回り込めますので高い切岸を楽しめることができます。

雄岳にある山城は神社のある頂上部から北東と南西の尾根沿いに郭が続きます。

新宮神社 表門

甲賀にあるのが新宮神社。神社の門は1485年のものだそうです。ちょうど室町時代で、都の徳政一揆、山城国一揆、加賀の一向一揆などが起きた騒然とした時代です。この後、北条早雲や斎藤道三が活躍する戦国時代になります。

新宮神社 表門
新宮神社 表門

門は茅葺の八脚門で国の重要文化財になっています。甲賀地域には甲賀郡中惣と呼ばれる大きな連合組織がありました。また各地域では惣寄合がもたれ、合議制によって様々な決め事や問題解決にあたります。この新宮神社も話し合いがもたれた舞台の一つで当時の記録にも名前が出てきます。嵐の大野智が主演を務めた映画「忍びの国」でも神社での談合シーンが出てきましたが、あちらは伊賀なんで敢國神社ですが、あんな雰囲気だったのでしょう。

正倉院展へ

正倉院展へ

奈良国立博物館
奈良国立博物館

コロナ禍で予約購買制になり、面倒だと足が遠のいていましたが、久しぶりにチケットを買って行ってきました。以前は閉館90分前から入れるオータムレイトチケットがありましたが、平日の最終は16:00入場になっています。これをポチッと押して購入。夕方に奈良へ出かけオータムレイトチケットと同じ16:30頃に奈良国立博物館に到着。平日は18時まで開館で入場締切は17時になっています。

16:30に行くと入口には誰も並んでいません。16時から入場できるチケットなので皆さん16時に入場した模様です。ということで混雑なしにゆっくり見てきました。毎回、楽しみにしていた写経生の欠勤願いなんかはなく、その代わり予算書などがありました。興味深かったのが天蓋の残決です。飛鳥時代の布を流用したようで、編み方が全然違う構成になっていました。

旧東海道

街道をゆく 旧東海道

東海道
東海道

東海道は古代からありましたが徳川家康が五街道として整備しました。京都の三条大橋から江戸の日本橋を結ぶ街道です。近江には大津、草津、石部、水口、土山宿がおかれました。草津で中山道と分岐して伊勢との境である鈴鹿峠を目指します。鈴鹿峠を超えたところが関宿で古代に関所が置かれ、ここから東が関東でした。

石部宿あたりの東海道は古い町並みが残り、なかなか風情があります。

榎木大明神

空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。

榎木大明神
榎木大明神

榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。

万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。

鴨川デルタ

賀茂川と高野川が合流するのが鴨川デルタ。ここから鴨川になって三条や四条に流れていきます。

鴨川デルタ
鴨川デルタ

森見登美彦の四畳半神話大系など色々な作品やドラマに登場する三角州です。明治の頃は三角州はもっと小さくって出町橋も河合橋も一本の長い橋だった時代でした。国立国会図書館に応仁元年から信長が活躍した天正期までの約120年間の京都の状況を考証し、作成された中昔京師地図があります。これをみると2つの川が合流していますが三角州はとっても小さいですね。
相国寺から南に流れる川があり東に90度曲がって、また南に90度曲がって流れているのは東京極川です。現在も今出川という地名で残っています。