東六甲砕石場

■太閤さんの城
大坂の陣で豊臣を滅ぼした徳川は秀吉が築いた大坂城を徹底的に破壊しようとします。石垣ごと土に埋めて、新たに石垣を造り直します。ところが宣伝としてはうまくいってなかったようで、昭和の初めまで大阪人は城の土台を『太閤さん』が造ったものと信じ込んでいました。

東六甲砕石場
東六甲砕石場

昭和34年に秀吉時代の石垣が地中から発見され、現存している石垣は徳川時代にものと分かりました。この時に大阪市からしばらく発表しないように要請があったそうで、理由は石垣が徳川製と分かると大阪市民がショックで倒れるからということでした。

■東六甲採石場
新しい大坂城を造るには大量の石垣が必要です。小豆島や石切にも砕石場がありますが、甲山近くにもあります。甲山森林公園に東六甲採石場があり、古墳時代から石切場だったようで石丁場の跡や、現地に放置された石材(残石)が数多く残っています。

仏性ケ原の頂上付近の斜面にも矢穴が残された石がたくさんありました。近くに仁川が流れていますが、高い山から石を降ろすのは大変だったでしょうね。仁川からは武庫川を通じて大坂城へ運んだのでしょう。

石切神社の夏祭り

お百度参りで有名な石切神社の夏祭り。正式には石切劔箭神社・夏季大祭で金、土、日と開催されています。散歩ついでにのぞいてきました。境内に太鼓台が入るのでお百度参りも中止になっています。今年は屋台も出ていました。

石切神社の夏祭り
石切神社の夏祭り

■饒速日尊とは
石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと:ニギハヤヒの子供)ですので物部の神様です。めちゃくちゃ古い神社で文献では貞観7年(865年)に登場しています。菅原道真が遣唐使を白紙(894年)に戻したちょっと前ですね。

■本当の祭神は長髄彦?
石切神社は本当は長髄彦を祀っているのではという説があります。石切(i-si-kiri)はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるそうで、ほんまですかいなあ。饒速日尊は神武天皇よりも先に大和へ天下った天神で、長髄彦の妹と結婚し、生まれたのが可美真手命で物部氏の先祖になります。饒速日尊は熊野から大和に入った神武天皇に協力し長髄彦を裏切って殺すことになります。

長髄彦は最初の朝敵となるためか正式に祭神にしている神社はなく、富雄にある添御縣坐神社の祭神・武乳速命がそうではないかと言われています。

120年前の亀の瀬トンネル

昭和6年に起きた亀の瀬の地すべりによって道路や線路は寸断されます。亀の瀬を通っていたのは国鉄・関西本線で山間の狭い場所ですから亀ノ瀬トンネル(隧道)が通っていました。もともと造られたのは大阪鉄道時代の明治25年(1892年)です。このトンネルも含めて知すべりで全て埋まってしまいます。

亀の瀬トンネル
亀の瀬トンネル

平成20年から始まった地すべり対策工事の一貫で排水トンネル工事の掘削推進中に、レンガ構造のトンネル下り線(大阪方面行き)を発見。ほぼ当時の原形をとどめた状態でした。煉瓦積ですが、側壁は強度が高いイギリス積みになっていて上部のアーチは長手積みになっています。

亀の瀬では地すべり見学会が行われていますが、120年前のトンネルを見ることができます。

リモート講座

昨日は岡山で講座を行い、一泊して今日は朝から津山城を登っているはずだったのが、リモートになってしまいました。

LEC梅田
LEC梅田

結局、LEC梅田に行ってリモート講座をして終わり。先日のセミナーもそうですが、大阪から出る仕事が、すっかりなくなってしまいました。新幹線も長い間、乗っていませんねえ。どっか遠いところのセミナーの仕事でも入らないかなあ

磐余若櫻宮

近鉄・桜井駅からまっすぐ南へ行くと谷という土地があり、ここの丘陵上に若櫻神社があります。戦国時代には城が造られ土塁跡がいまも残っています。

若櫻神社
若櫻神社

仁徳天皇の息子である第17代、履中天皇が皇后と磐余の市磯池で遊宴中に、桜の花が盃に落ちたことを機に宮を磐余稚櫻宮と名づけます。この谷にある若櫻神社ではないかと言われていましたが磐余池が発掘で見つかったことから、池ノ内の若櫻神社が濃厚です。

池ノ内の若櫻神社は磐余池跡から東に行った小高い丘の上にあります。階段を登ったところに社殿がありますが、大きな削平地が確保されており、城を造るには絶好の場所ですね。当時の大和朝廷はまだまだ安定していなかったので丘の上を宮にしたのかもしれません。磐余の市磯池は若櫻神社の東側にあった模様で、現在は田園地帯になっています。

藤堂高虎 出生地

尼子城のすぐ近くにあるのが藤堂高虎の生誕地で現在は公園になっています。

藤堂高虎像
藤堂高虎像

弘治2年(1556年)、藤堂高虎は犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康など一生に七回も主君を変えたといわれますが、当時は普通の感覚で、将来性がない主君は見限るものでした。ただ羽柴秀長(秀吉の弟)には気があったのか長く仕え、秀長が亡くなってから甥が継いだので、盛り立てますが、この甥も17歳の若さで死んでしまいました。もう武士をやめようと高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得して復帰します。

■城の縄張りを規格化
藤堂高虎は巨体だったようで身長が190cmほどあったようです。藤堂高虎といえば城づくりの達人で江戸城、大坂城、今治城、伊賀上野城、津城などの縄張りを行いました。そして編み出したのが全国共通の縄張りです。戦国時代、防衛力を高めるために加藤清正の熊本城など複雑な縄張りが造られました。藤堂高虎は四角形で実用的な郭をつくり藩の政庁の用地を最大限使えるようにします。防衛は高石垣、層塔式天守、水堀、多聞櫓、枡形虎口などを組み合わせて実現します。

城の規格化ができたため生産性が向上します。江戸時代、国替えになっても城の作りはほぼ一緒ですので、すぐに使うことができます。

勝楽寺城

「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。

勝楽寺城
勝楽寺城

勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。

額田山展望台

9月も後半というのに、毎日暑いですねえ。あと15度ぐらい気温が下がらないかなあ。

額田山展望台
額田山展望台

オンライン講義や打ち合わせもオンラインという比重が高く、家から一歩も出ていない日々もあり完全な運動不足。シーズンに向けてのトレーニングということで歩いて15分ほどにある枚岡公園をよく散歩しています。この枚岡公園から生駒山のハイキングコースがいくつか出ているのですが、標高280mまで登ったところに額田山展望台があり、大阪平野が一望できます。

最近は散歩がてら額田山展望台まで登って、ほとんどハイカーがいない額田駅に降りるコースが多いですね。まだまだ暑いので汗だくになりますが、サンダル履きで十分に登れます。

西市船着場

江戸の城下町造りのために掘られた小名木川、江戸時代に付け替えられた大和川など人の手にかかって整備された川は直線的になります。平城京造営にあわせて掘られたのが西堀川で現在の秋篠川になります。

西市船着場
西市船着場

物資を運ぶには船が最適でしたので平城京や薬師寺などの造営や西市に物資を運ぶ水路として使われました。西市船着場から物資を荷揚げして西市に運んでいました。薬師寺の塔や三笠山も見え風光明媚です。

豊臣秀吉の家臣だった増田長盛(五奉行の一人)が大和郡山城を整備することになり、秋篠川の流路やため池などを外堀に使うため秋篠川の流れを奈良口で東に90度曲げて佐保川につなげました。奈良口は九条公園の所で地図で見ると見事に曲がっています。

古代の西堀川(秋篠川)沿いには京奈和自転車道が走っており、2021年4月に京都嵐山~奈良~和歌山港まで180kmがつながりました。

夏越の祓

今年も上半期が終わりました。というわけで夏越の祓へ。

夏越の祓
夏越の祓

顧客管理がしっかりしている枚岡神社では毎年、夏越の祓の案内を送ってきます。案内に入っている人形(ひとがた)に名前を書いて事前に神社に納めておくと6月30日にお祓いをしてもらえます。そちらは参加できなかったので日曜に枚岡神社へ行って茅の輪巡りをしてきました。

■水無月
夏越しの祓といえば「水無月」という和菓子を食べるのが定番ですが、京都菓子工業組合が商標登録してしまったので京都以外の和菓子屋さんでは、あまり見かけません。以前、和菓子屋さんが”何で伝統菓子を商標登録したんだ”と憤慨しておりました。