近鉄とJRの共用駅

先日、久しぶりに桑名商工会議所へ行くと最寄駅の桑名駅が大変身。

桑名駅
桑名駅

すぐに駅の階段を上がろうと先頭車両に乗っていたのに、階段の位置が真ん中あたりに変わっていました。駅はとってもお洒落になっていて東西に自由に渡れる通路が作られ、JRと近鉄はそれぞれ分離されました。

三重県には珍しい近鉄とJRの共用駅があり、これが津駅、松阪駅、伊勢市駅になります。JRと近鉄で改札を共用している独特のシステムで他にはあまりありません。桑名駅もずっと共用駅だったのですが、これでなくなりました。

駅前の桑栄メイトが閉鎖となり桑名商工会議所へ行くには一度、下に降りて階段を登り直さないといけなくなり、不便になりました。

ラズパイ

ラズパイ
ラズパイ

山城登りと酒ばかり飲んでいると誤解している人が多いのですが本職はITの専門家です。エヘン。

AIセミナーをやんなくちゃいけないのでScikit-Learn(サイキットラーン:Pythonの機械学習ライブラリ)を動かそうとラズベリーパイを起動すると、うんともすんとも言わない。おかしいな~あ、とパソコンでマイクロSDカードにインストールし直して起動すると無事に立ち上がりました。

もっともWindowsでPythonを動かせることが判明。結局、Windowsでサイキットラーンを使っていて苦労して立ち上げたラズパイは使わず(笑)。調べたら統計関数Rでもサイキットラーンが使えるんですね。

環濠集落 今井町

八木西口駅から少し南に行ったところに今井町があります。堀に囲まれた環濠集落で、称念寺を中心に作られた寺内町です。

今井町
今井町

戦国時代は町中で武装し、石山本願寺とともに織田信長と敵対していましたが、石山本願寺が信長と和議を結んだことから明智光秀と懇意だった堺の津田宗及の取り成しで信長と和議を結びます。信長も堺と同様に栄えていた今井を発展させた方が経済的においしいと考え武装解除を条件に和議が認めらます。信長自身が今井環濠に来たようで本陣跡が残っています。今井は堺と同様に自治権が認められ江戸時代を通じて発展していきます。

環濠集落を構成していた堀はだいぶ失われてしまいましたが、町の通りなどが微妙に曲がっていて堀跡が分かります。また堀跡や土塁の一部が南西角に残っています。観光客のお目当ては町屋巡りで、堀跡をひたすら歩いている酔狂な人間はおりませんなあ。

大和奉膳城

大和奉膳(ぶんぜ)城

大和奉膳城
大和奉膳城

近鉄・JR吉野口駅あたりは奉膳と呼ばれ、古くから紀州街道が通り、また吉野に至る下街道の起点として栄えていました。現在も交通の要衝になっています。ここにあるのが大和奉膳城。

藪が多いので迂回して登ると、大きな堀切があり、ここから主郭に入れます。けっこう変わった主郭で二重に堀切が取り巻いているような感じで斜めになっています。五津城によく似ています。堀切を超えて尾根沿いを歩くと削平地が段になっていて、反対側にも堀切がありました。

丹波・八上城

丹波国・国人だった波多野氏が本拠としたのが八上城。

八上城
八上城

波多野氏は三好氏に攻められて一時期、没落していましたが、三好氏の勢力が落ちると八上城を奪い返します。足利義昭を奉じて信長が上洛してきた時、信長方になり、明智光秀の丹波攻めにも参加していましたが黒井城を攻める時に反信長方となり、明智光秀は命からがら逃げることになります。

光秀による第二次丹波攻めがあり、八上城の周りにたくさんの陣城を築いて封鎖し兵糧攻めにします。降伏した波多野氏は信長に処刑されます。光秀が天下をとっていたら「八上の干殺し」などと呼ばれたのでしょうね。

八上城は国史跡となっており麓の春日神社から登ることができます。ハイキングコースになっているので山城では珍しくハイカーと出会うことができます。結局、10名ほどと出会いました。頂上の主郭から丹波篠山の街や山陰街道が一望できます。さらに主郭から南に行くと別の郭や大堀切、井戸がありました。さすがにこんな所まできているハイカーはいませんね。

鎌刃城

中山道・番場宿から尾根道を1時間ちかくエッチラオッチラ登ると鎌刃城へ着きます。

鎌刃城

尾根の一つが岩だらけの細尾根になっていて、ここに7つほどの堀切があり、遠くから見ると刃こぼれした鎌の刃のようで、ここから鎌刃城という名前になったようです。なかなか、見ごたえのある堀切でした。

「今井軍記」によると、今井氏が堀氏が立て籠もる鎌刃城を攻めており、鎌刃城の城主は堀氏だったようです。浅井氏に仕えていましたが調略によって織田軍に内応したところ浅井氏に攻められたようです。

主郭の虎口は石垣造りになっていて、観音寺城によく似ていますね。国の史跡になっていますが、よく整備されていて石垣、堀切、郭などが見事に残っています。西山腹には大石垣があり、北尾根は大堀切が残っています。

金ヶ崎の退き口

元亀争乱の発端となったのが金ケ崎の戦い。日本海に突き出した尾根にある山城です。

金ヶ崎城
金ヶ崎城

織田信長が朝倉義景を攻めるため金ヶ崎城を落城したところに妹婿の浅井長政が裏切ったという連絡が入ります。お市の方が袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送ったという逸話がありますが、これは後世の創作でしょう。

決断が早い織田信長はわずか十人程度でいち早く撤退、松永久秀が朽木谷の朽木元綱を説得し、朽木越えで無事に都に帰りつきます。本能寺の変では穴山梅雪、山崎の合戦の時の明智光秀など落ち武者狩りでたくさん命をおとしますので信長が無事に帰れたのは僥倖でした。

撤退戦で味方を逃がすために殿(しんがり)で戦ったのが秀吉。後に天下をとったので「金ヶ崎の退き口」として大宣伝をしていますが、実際は池田勝正や明智光秀も殿を勤めていました。「麒麟がくる」でもこの「金ヶ崎の退き口」が放映されていました。

打下城

打下(うちおろし)城へ。

打下城
打下城

一度訪れたことがあるのですが途中で道が分からなくなり切岸を登って、たどりついた山城です。今回は打下城までの道をしっかり覚えたのでバッチリでした。しかも雪が積もっていて藪も雪の下、郭の形がよく分かります。打下城は土塁で囲まれた大きな郭が2つあり、郭の間にある尾根を小曲輪群がつないでいます。

戦国時代に地元の国人領主・林員清(林与次左衛門尉)が築城したと伝わっています。林員清は朝倉・浅井方でしたが織田信長に降伏したようで、「信長公記」によれば信長は打下城を陣所にして朝倉・浅井軍側の高島郡を攻めています。

林員清は天正3年(1575年)に謀反が発覚し、一向一揆との戦いで出陣していた越前・北之庄にて、命を受けて切腹させられますが、同時期に近江で他にも粛清が行われており真相はよく分かっていません。

高島郡は織田信長の甥・津田信澄が支配し、最初は打下城に入っていましたが琵琶湖沿いに大溝城を造り、居城としています。

茨木城

茨木で仕事でしたので、ついでに茨木神社へ寄ってきました。神社には茨木城の搦手門が移築されています。茨木城は摂津にあったお城ですが、現在は住宅地になってしまい殿町といった城にまつわる地名が残っています。遺構として残っているのは搦手門だけです。

茨木城
茨木城

茨木城の城主はいろいろと変わりましたが、信長・秀吉の時代に城主だったのが中川清秀。茨木の隣が高槻で高槻城の高山右近が従兄弟となり、山崎の合戦では最前線で高山右近とともに活躍しました。秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは二番手で大岩山砦を守っていた時、勝家軍の佐久間盛政が大きく迂回して攻撃してきたため奮戦しましたが討死します。

かぎろひ

ひんがしの野に かぎろひの立つ見えて
   かへり見すれば月かたぶきぬ

かぎろひの丘
かぎろひの丘

御存じ、万葉集に出てくる柿本人麻呂の和歌です。歌を詠んだ場所が阿騎野で、この写真の場所(かぎろひの丘)ではないかと言われています。昔から阿騎野では薬狩りが行われ、草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行した時に詠みました。「かぎろひ」とは東の空に見える明け方の光のことです。

阿騎野は飛鳥から多武峰を超えた所でしたので行きやすかったのでしょうね。柿本人麻呂は歌聖と言われる割には生涯についてよく分かっておらず梅原猛が「水底の歌-柿本人麻呂論」で刑死によって沈められたという大胆な説を出しています。昔、読んだなあ。「隠された十字架 法隆寺論」も面白かったなあ。