中ツ道をゆく(9) 前栽駅

前栽駅

近鉄・前栽駅で「せんざい」とよみます。西大寺駅と橿原神宮前駅を結ぶ近鉄橿原線の平端駅から分岐する天理線で途中には二階堂、前栽、天理の3駅があります。もともとは天理軽便鉄道があって法隆寺と天理を結んでいた路線です。最終的には近鉄となり、法隆寺-平端間が廃止となり平端ー天理間が残りました。

前栽は家の前の庭のことを指しますが、もともとは東大寺領の千代庄がありました。この「せんだい」が「せんざい」に変わって字も前栽になったようです。この前栽駅のすぐ東側を中ツ道が通っています。耳成駅から北上して15kmほど歩いたところにありますので、ここで街道歩きは一端休止です。

中ツ道をゆく(8) 事代主神社

事代主神社

中ツ道を歩いていて、そういえば彩華ラーメン・本店があったなと思いだして、中ツ道をはずれて西へ。天理ラーメンには彩華ラーメンと天理スタミナラーメンがあり、どちらも屋台発祥、白菜や豚肉などの具材、醤油ベーススープという特徴があります。ファンは2つに分かれています。店に着くとお昼時でもあり、長蛇の列で、そうそうに退散です。

中ツ道に戻ろうと岩室という集落に入ると事代主神社がありました。神社の前に水堀があって、橋を渡って神社に入る城郭のような雰囲気です。事代主(ことしろぬし)は「事をしる神」で大国主の子の一人です。出雲の国譲り神話では国譲りに賛成した神さまとして知られています。後に七福神のえびす様と同一視されるようになり、商売繁盛のえべっさんになります。

中ツ道をゆく(7) 山邊御縣坐神社

山邊御縣坐神社

村屋神社、目原坐高御魂神社、倭恩智神社を過ぎて北上すると中ツ道沿いに山邊御縣坐神社(やまべみあがたにます)があります。式内社ですが天理市別所町にも同じ名前の神社があって目原坐高御魂神社と同様に論社になっています。

祭っているのは建麻利尼命(たけまりねのみこと)で、ニギハヤヒ(饒速日尊)の6世孫にあたり山邊県主の祖です。つまり祖先を祀った神社です。県主(あがたのし)とは古代の行政区分である「県(あがた)」を治めていた首長のことです

■道長が宿泊

中ツ道沿いにあり、寛弘4年(1007)、藤原道長が吉野金峯山参詣の時に神社にある観音堂に宿泊したことが、御堂関白記にでてきます。神仏習合でしたので神社のなかにも寺がありました。道長の時は天気が悪かったようで、「雨が、日を尽くして降った」と出てきます。

大河ドラマ「光る君へ」では白装束姿で吉野山に登り、経典を納めるシーンが描かれていました。大河ドラマでは藤原伊周が道長暗殺を狙っていて弟の藤原隆家が阻止するシーンがありましたが、ほんまかいなあ。

中ツ道をゆく(6) 倭恩智神社

倭恩智神社

中ツ道を北上していくと東に森が見え、鳥居が見えたので寄ってきました。溜池のほとりにある小さな神社ですが式内社でした。恩智神社って、八尾の恩智神社(中臣の神さん)と関係あるのかと思ったら建凝命(たけころのみこと)という倭俺知氏の先祖を祭っているそうです。倭俺知氏って、初めて聞いた氏族ですが、そもそもなんて読むのかな。

創立は崇神天皇7年なんで、日本書紀通りならBC91年、通説では崇神天皇は2世紀後半から3世紀とみられているので西暦300年頃、どちらにしてもめちゃくちゃ古い神社です。ここらあたりは城下郡大和郷ですので神社名に倭とついたのでしょう。でも恩智はどこからきたのかなあ八尾の古い地名なんですが

中ツ道をゆく(5) 天満神社

天満神社

中ツ道を歩いていると太田市町(おだいちちょう )という市か町かどっちやねんという土地に天満神社があります。小さな村の神社という風情で誰もお参りする人はいません。そら天満神社なんて全国にたくさんありますからね。少し気になって調べてみたら、ひょっとするとすごい神社かもしれません。

■目原坐高御魂神社の可能性
今は天満神社ですが目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすびじんじゃ)ではないかという説があります。これを論社といいます。論社とは「延喜式神名帳(927年)」に記載された由緒ある神社を式内社といいますが、比定するには複数候補がある神社のことです。式内社の記録によると多氏と関係する氏族が造ったのが目原坐高御魂神社で、多坐彌志理都比古神社(多神社)の別宮となっています。江戸時代には目原坐高御魂神社がどこにあったかは分からなくなりました。

鳥居の前には「勧請縄」が掛けられています。勧請縄とは道切りの一種で、本来は集落の境界などで災厄や疫病などを防ぐために掛けられたものです。奈良の田舎に行くと、よく見ます。

中ツ道をゆく(4) 村屋神社

村屋神社

古代の中ツ道はほとんど残っていなくて道を探しながら北上すると、どっかで見た森が見えてきます。村屋神社か!
そうか村屋神社は中ツ道沿いにあるんだあ!ここには平城である森屋城が戦国時代にあり、森屋氏の城でした。昔、城巡りで村屋神社に来たことがあります。

村屋神社は村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)といい、三輪神社の大物主(おおものぬし)の奥さんである三穂津姫(みほつひめ)を祭っています。

■壬申の乱の舞台
中ツ道は交通の要衝でしたので壬申の乱の舞台にもなっています。村屋に近江から進軍してきたのが犬養連五十君(いぬがいのむらじいそきみ)で、大海人皇子軍を率いていたのは大伴連吹負です。村屋の神さんが大海人皇子軍を助けたと日本書紀に載っています。

中ツ道をゆく(3)

中ツ道

藤原京から平城京に向かって3本の官道がありました。下ツ道、中ツ道、上ツ道で、ほぼ4里(2kmちょっと)の等間隔で南北に並行しています。壬申の乱ではこの3つの道で戦いがありましたので、その頃には道はできていました。

壬申の乱に勝った天武天皇の遺志を継いで持統天皇が藤原京を造りましたので、飛鳥と斑鳩を結ぶ筋違道ができた聖徳太子の時代には3つの官道があった可能性があります。下ツ道は中街道として使われていたので道跡はよく残っていますが、中ツ道はぶつ切り状態で、まっすぐの道はなく迂回につぐ迂回です。中ツ道は香久山を迂回して飛鳥の橘寺を結んでいたので橘街道とも呼ばれていました。

天理で発掘調査したところ幅23メートルの大路でした。平安後期ぐらいまでは使われていたようです。

中ツ道をゆく(2) 横大路

横大路

耳成駅のすぐ南にあるのが横大路で、奈良盆地を東西に貫く古代の街道です。東に向かうと海石榴市(つばいち・山の辺の道の起点)から初瀬を通って伊勢街道になり、西に向かうと二上山の横を通って竹内街道になり堺につながります。

日本書紀・推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)から京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と横大路の記事がでてきます。飛鳥の宮とは小墾田宮のことで雷丘周辺にありました。横大路は1400年前にできた古道で当時は幅20mを超えました。藤原京ができた時に横大路は三条大路になり幅30~40m程度だったようです。現代では幅が狭くなり、ちょっと曲がっているところも多いです。

中ツ道をゆく(1)

耳成駅

出発は近鉄・耳成(みみなし)駅です。急行は大和八木から桜井まで止まりませんが、耳成駅には普通、準急、区間準急が止まります。

大和三山の一つである耳成山が近くにありますが、実際は大和八木駅と耳成駅のちょうど真ん中ぐらにあります。耳成山頂上には天神山城があり、多武峰城塞群に立て籠った大和衆への出撃基地としてつくられましたが今回は中ツ道が目的なので、寄らずに出発です。

耳成駅は藤原京の中にあり、二条大路と三条大路のちょうど真ん中ぐらいに位置しています。以前はもっと狭い範囲と考えられていましたが発掘調査がすすみ、大和三山がすっぽりと入る巨大な都でした。

下ツ道をゆく(15) 羅城門跡

平城京 羅城門

下ツ道シリーズのラストです。

稗田環濠集落の北側にあったはずの下ツ道は残っておらず、佐保川の堤防をすすんでいくと平城京の羅城門跡があります。川の流れが往時とは変わっており、羅城門は現在の来世橋の位置にあり、礎石が河川敷にあります。下ツ道は羅城門から朱雀門までを幅70mの朱雀大路となり3.7km先の朱雀門まで続きます。こちらも道として残っておらず、平城宮跡歴史公園に復元されているだけです。

羅城門は九条大路にあり平城京の南は九条までと考えられていましたが2018年に十条大路跡が見つかり、藤原京の十条と一致していたことが分かりました。ただ十条大路は遷都からわずか20年以内に埋め戻されたようで大きな謎になっています。東大寺などの外京を東側に造りましたので何か計画していたんですかねえ。