佐屋宿

佐屋宿

東海道の難所の一つが木曽三川。揖斐川、長良川、木曾川の3つの流れを越えなければなりません。江戸幕府は基本、橋をかけませんし技術的にも難しかったので宮宿(熱田神宮)から桑名宿まで海路で結ばれ、これが七里の渡しと呼ばれました。七里の渡しの船賃は、時期により変動しますが現在の数千円から1万数千円です。

これを節約する方法がありました。熱田宿から船に乗らずに佐屋街道をすすみ、佐屋宿から船に乗って桑名宿を目指せば、三里の渡しですみました。東海道のバイバスです。当然、船賃も安くなります。この佐屋宿と船着き場ですが、今は住宅街になっていて、往時の雰囲気はどこにもありません。

横大路をゆく(4)

入鹿神社

横大路を西に向かい大和八木駅を超えると少し北にあがった小綱町(しょうこちょう)に入鹿神社があります。入鹿とは蘇我入鹿のことで、蘇我入鹿公を御神体とする日本で唯一の神社です。昔、大化の改新と習いましたが今は乙巳の変と呼ばれる、蘇我入鹿暗殺事件。専横を極めたとか言われていますが、どうも半島情勢を巡る対立が原因だったようです。

小綱町の隣が曽我町で、蘇我氏発祥の地と言われ宗我坐宗我都比古神社があります。小綱町は蘇我入鹿の母方の里という説があります。赤穂浪士の吉良上野介と同様に地元では丁寧に祀られています。

横大路をゆく(2)

中ツ道

上ツ道との交差地から2kmほど西に進むと三輪神社があります。本家の三輪神社ではなくこじんまりとした旧村社です。この三輪神社に大槻の木と呼ばれるケヤキの巨樹があります。伊勢参りのランドマークになっていたようで、江戸時代の西国三十三所名所図会にも掲載されています。

三輪神社の横に祠があり、すごく細い道が北に向かいますが、これが中ツ道です。ここで横大路と中ツ道が交差します。平城京と藤原京を結ぶ街道で藤原道長も吉野詣で使っていますし、壬申の乱の舞台になっています。交差地点から南へ行く道はなく、すこしはずれて南下すると香具山を迂回し飛鳥の橘寺まで続いているので橘街道とも呼ばれています。

横大路をゆく(1)

小西橋東詰

横大路とは推古21年(613年)に造られた官道(今の国道)で、日本書紀に「難波より京(飛鳥)に至るまでに大道を置く」と記載されています。推古天皇の時代に造られた奈良盆地を東西に結ぶ道で、スタートは桜井になります。桜井駅を降りて少し南に歩くと「本町通 伊勢街道」という看板があり、ここから東に行くと伊勢への街道になり反対側の西側の道が横大路です。

そんなに大きな道ではありませんが、寺川にかかる小西橋東詰で上ツ道と交差します。上ツ道は北ヘ向かうと天理市を超えて奈良市に、南へ向かうと安倍文殊院の横を通って山田道になり飛鳥に至ります。大和川を遡ってきた使節は海柘榴市あたりで上陸し、小西橋東詰から上ツ道に入って飛鳥を目指したのでしょう。

上ツ道をゆく(7) 天理

天理

天理駅周辺には詰所と呼ばれる建物がたっていて様式が独特で、遠くから見ても天理教の建物だとよく分かります。詰所には熊本やら地域を書いた看板がかかっていて、各地の天理教徒が、参拝する時に泊まる施設で、各地域ごとにまとまっているそうです。しかも一泊1000円とめちゃくちゃリーズナブルです。

おやさとやかた構想というのがあって、天理教の聖地を中心として、一辺約900メートルの正方形の外周部を「おやさとやかた」と呼ばれる巨大建築を連結させて囲っているそうです。それで独特の建物がにょきにょき建っているんですね。高野山などとはまた違った宗教都市になっています。

上ツ道をゆく(6) 終点だ~あ!

上ツ道 終点

中ツ道、下ツ道とほぼ等間隔で平行する古代の直線道路です。桜井からずっと北上してきましたが天理市の三昧田町までくると突然、上ツ道が無くなってしまいました。仕方ないので169号線に沿った道を天理駅まで目指します。下ツ道、中ツ道はなんとか平城京跡にたどりつけますが上ツ道はまっすぐ進むと天理までですね。

天理の北側には山があって山の辺の道が通っていますが古代の上ツ道は山沿いの道を通って平城京の外宮(東側に張り出した部分)に接続していました。興福寺と東大寺の間の東七坊大路です。壬申の乱の時、近江軍は近江から平城京に進軍し、この上ツ道を通って箸墓で大海人皇子軍と戦になりました。

上ツ道をゆく(5) 大和神社

大和神社

日本最古の神社といえば大神神社、花の窟神社の名前があがりますが、もう一つあります。それが大和(おおやまと)神社で上ツ道沿いにあります。創建は第10代天皇が崇神天皇になります。

■大神神社誕生
崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれており実在した最初の天皇と考えられています。崇神天皇の時代に疫病が流行し、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)の怒りとわかり、神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)に祀らせたところ鎮まって、これが大神神社となります。

崇神天皇には、もう一つ神社にまつわる話があり宮殿で天照大神と倭大国魂神を祀っていたのですが、世の中が乱れるのは両神の勢いのためという、よう分からん理由で外へ出されることになります。なにか日本書紀には記載できないことがあったんでしょうね。

■伊勢神宮
天照大神を皇女豊鋤入姫命が笠縫邑に祀ります。これが山の辺の道沿いにある檜原神社で、後に倭姫命が各地を巡り、最終的に伊勢神宮が天照大神の鎮座地になりました。

■戦艦大和
倭大国魂神は皇女渟名城入姫に託しましたが、こちらはうまくいきませんでした。紆余曲折があり、大和神社になります。倭大国魂神は大和の国全体を守る神様で、航海安全の守護神ともされましたので、遣唐使が渡航前に参拝しました。戦艦大和の艦内神社には倭大国魂神の分霊が祭られました。

上ツ道をゆく(4)  我が家の前方後円墳

上ツ道

上ツ道を歩いていくと道の両側にこんもりとした森がよく見られますが、ほとんどが古墳です。なかには民家の奥に古墳があります。古墳の敷地内にある古民家をリノベーションして古墳に泊まれる民泊も天理に誕生しています。

古墳のほとんどは個人所有で、史跡に指定されるのは規模の大きな一部の古墳になっています。特に戦後は家も食料も足りなく古墳の多くが壊され畑にされたりしましたが、先祖伝来に伝わったものと壊さずに管理している個人も多く、みかん畑などになりながら今も古墳を楽しめます。

上ツ道をゆく(3) 黒塚古墳

黒塚古墳

纏向遺跡から上ツ道を北上すると柳本の集落に入ります。少し東に入って古代史で超有名な黒塚古墳へ。

なにがすごいって、発掘調査で卑弥呼の鏡とよばれる三角縁神獣鏡が33面も出土しました。黒塚古墳は古墳時代前期に造られた134mの前方後円墳で古墳の横には展示館があり、ボランティアガイドが4名ほど待機し来場者を待ちかまえていました(笑)。纏向のあと時系列に並べると柳本古墳群、佐紀古墳群、玉出山古墳群と推移していきますので初期の大和朝廷があった地域になります。

■柳本城
平地にある山なので戦国時代、古墳はよく城として使われました。黒塚古墳を城として利用したのが十市氏です。発掘調査で後円部と前方部の間に堀があったことが確認されています。江戸時代、柳本藩となりますが古墳を陣屋に取り込んで使っていました。柳本藩は信長の弟である織田有楽斎の子孫の家系です。展示館には城に関する展示はなかったですねえ。

上ツ道をゆく(2) 纏向遺跡

纏向遺跡

箸墓から上ツ道を北上するとJR纏向駅に着きます。駅のすぐ隣にある纏向遺跡を久しぶりに見てきました。邪馬台国・畿内説の最有力候補地で、2011年に大型建物跡が見つかってからは特に注目されるようになりました。

纏向遺跡は3世紀初めに突然現れた集落です。関東から九州にいたる土器が発見され、全国から人が集まっていたようですが、生活用具の出土が少なく政治・宗教都市だったようです。滋賀県・守山に伊勢遺跡があって中央の建物を中心に環状に建物群が並び、各地域の代表者が集まって協議した場所のようですが、ここで話し合って山に囲まれた纏向に都市を作ろうと決まったかもしれません。

纏向遺跡では寒いので車で待機していたボランティアの説明員が近づいてきて10分コース、30分コースで説明できますが、ということで10分コースでお願いしました。内容的には知っている内容だったのですが、「古墳時代の歴史」(講談社現代新書)読みましたかという話で盛り上がっていました。