能勢・吉村城

吉村城
山辺城のすぐ近くにあるのが吉村城。
Googleマップでもバッチリ出てきます。山頂にありますが、山城の常ですが道がない。(笑)必然的に切岸を登ることになります。頂上まで登ると単郭があり、北東背後の尾根を堀切で遮断して土塁がありました。
防御はこれだけですので臨時的な城だったようです。天文年間(1532年~1555年)に吉村備前守盛光がいたと伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。ここらあたり山城が多いので能勢街道をおさえるためのネットワークの一つだったのでしょう。

能勢・山辺城

能勢・山辺城
能勢・宿野へ行く途中にあるのが栗栖という土地。コメリやスーパーもある賑やかな一角です。この近くに城山と呼ばれる山があり、これが鷹爪山。能勢富士とも呼ばれ、山上にあるのが能勢で一番大きな山城である山辺城(鷹爪城)です。
能勢一族だった大町氏の城で大町氏は多田院御家人でした。山辺城は1579(天正7)年に織田信忠、信澄らに攻められた記録もあります。
麓に月峯寺というお寺があり、近くに住宅街がありますが、これが急坂が多い住宅街になっています。かなりの傾斜がある坂を登った一番奥の住宅地から直登すると城にたどり着きます。ちょうど郭をつなぐ土橋に出られました。
山辺城は3つの郭からなっていて、郭間はかなりの高低差があります。一番高い所にある主郭は広く、くびれた所に虎口があり、別の郭群に続いています。土橋や堀切もあり、きれいに整備されており、なかなか見ごたえがある山城です。

清和源氏発祥の地 多田院

多田院
清和源氏武士団発祥の地が能勢にある多田院。現在は多田神社になっていますが付近には多田院という地名が残っています。
源満仲が国司を務めた摂津に土着し、やがて多田盆地を開拓して家臣団を組織し、これが清和源氏武士団となります。能勢の国人だった能勢氏、野間氏、塩川氏などは多田院御家人となります。源満仲(多田満仲)が拠点にした多田院ですが、南と西を川に囲まれ、周囲は高台になっていて、まさに城郭です。
多田神社の付近の地図を見ると、すぐ近くに新田城山公園というのを見つけました。城山という名前がついているのは昔、城郭があったところです。調べてみると住宅地の建設で遺構は残っていませんが、ここにあったのが新田城のようです。塩川氏が拠点とした山下城の出城という説があるようです。

何もない花隈城

花隈城
神戸へ行ったついでに花隈城跡へ寄ってきました。元町駅のすぐ近くにあり、城跡はなにも残っていませんが石垣風の駐車場になっています。公園には碑が建っています。
JR線から、すごい急坂になっていて丘陵が突き出した一番先に城がありました。摂津を支配した荒木村重が織田信長に反旗を翻した時に有岡城(伊丹城)の支城となって織田軍の池田恒興などと戦います。荒木村重は毛利への援軍要請のため有岡城を抜け出し、尼崎城を経て花隈城に入りますが、結局、荒木村重は毛利に逃れ花隈城は落城します。
花隈城の北側の諏訪山には池田恒興と嫡男の元助が陣取り、生田の森(生田神社のあるあたり)には池田輝政が陣取っていました。元町周辺は戦場でした。勝った池田恒興は兵庫城を築城し、花隈城は廃城となります。古図が残っていた本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城だったようです。

御着城

御着城
大河ドラマ「軍師官兵衛」の前半でよく出てきた御着城です。
大河ドラマでは片岡鶴太郎が播磨御着城主である小寺政職を演じていました。小寺政職は家老・官兵衛の進言に従って織田方についたのですが、別所一族や荒木村重の裏切りをみて毛利方につきます。織田は石山本願寺とも戦っており、けっこう危ない時期だったので判断としては妥当でしょう。
ところが織田はしぶとく生き残り、御着城は結局は織田に攻められて落城し、落ちのびます。小寺氏は播磨守護であった赤松氏の一族でした。
御着城は平城で川の水をひき堀にしていました。広大な敷地の城だったようですが、城跡は何も残っておらず、本丸跡は公園になっているだけです。JR御着駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。

英賀城

英賀城
山陽姫路駅から3駅目が飾磨駅(しかまえき)。ここから山陽電鉄網干線という支線が出ていて一駅目が西飾磨駅です。
駅から歩いてすぐの所にあるのが英賀(あが)城で、ほとんど住宅地に埋没してしまったのですが墓地や神社などに土塁が少し残っているのと堀跡が水路として残っています。この水路がけっこう湾曲していて昔は横矢はかかるように考えられていたんですね。
瀬戸内海が近く、英賀は古代より水の要所と栄えていました。夢前川の河口にあり、南が瀬戸内海、西に夢前川、東に水尾川が流れ、川を堀替わりにした平城で、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城の一つです。大河ドラマ「軍師官兵衛」では播磨進出を狙う毛利と小寺氏の部下だった黒田官兵衛が英賀で戦い、毛利軍を撃退する英賀合戦が描かれていました。英賀城は秀吉の播磨進出で敵対したため攻められ落城しました。

龍野城

龍野城
鶏籠山の麓にあるのが龍野城で平城になっています。龍野城の裏から龍野古城へ行けるのですが、ふつうの観光客は龍野城と城下町巡りを楽しみます。山城へ登るような、酔狂な人間はいません。(笑)
龍野城は戦国も終り、幕藩体制が整った頃に造られたので陣屋形式の城となりました。造ったのは脇坂安政です。石垣しか残っていませんでしたが隅櫓や埋門などが再建されました。脇坂家は幕末まで続くことになります。脇坂家の初代といえば”賤ヶ岳の七本槍”の一人である脇坂安治です。秀吉のもとで福島正則や加藤清正らと共に活躍しましたが、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋と一緒に裏切りました。まあ家康には事前に裏切ると言ってあったようです。
■しつこくて細かな性格だった秀吉
昨年、秀吉から脇坂安治へ宛てた手紙33通が新たに見つかり話題になりました。秀吉が佐々成政を相手に北陸攻めをしていた時、脇坂安治は京都御所などの建設用資材(材木)を運ぶ役割でした。ところが脇坂安治は北陸攻めに参加したかったようで、秀吉から”しっかり身をいれて材木を運べ、戦に参加したいとか言うな”という叱責の手紙をもらっています。しかも10日おきぐらいに出している時があり、秀吉は北陸ですから返事が来る前に出していたようです。子飼いの武将なんで秀吉も信用していたのでしょう。

龍野古城 軍師官兵衛の舞台

龍野古城
■嘉吉の乱
室町時代、赤松家といえば名門で播磨・備前・美作の守護をつとめていました。ところが6代将軍となった足利義教という人物がとんだ曲者。最初は集団指導体制だったのが、だんだん独裁者に変わっていき、粛清がはじまります。どっかの国みたいですね。
次は俺がやられると思った赤松満祐はクーデターを起こし、将軍を暗殺してしまいます。独裁者を殺したから周りも納得し、助けてくれるだろうと思ったら手のひら返しで赤松氏は滅ぼされてしまいました。これが日本史で習った嘉吉の乱です。
■赤松家と黒田官兵衛との戦い
南北朝など紆余曲折があり赤松氏は復活します。ただ本家と分家があり、龍野赤松家は分家の方で本家とも争っていました。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では初期の頃に小寺、浦上、赤丸と黒田家が入り乱れての戦いとなります。
龍野城主・赤松政秀は団時朗という渋い俳優が演じていて、”青山・土器山の戦い”で黒田官兵衛に敗れます。ただ黒田家も被害が大きく、母里武兵衛(永井大が演じてました)などが戦死します。
■龍野古城
というわけで龍野赤松家の龍野城です。鶏籠山頂に築かれた山城で、地元の人がきっちり登山道を整備し、そこかしこに案内版があるので迷うことなく山城に到達します。まず二郭に入れますが、けっこう大きな城で主郭には崩れた石垣が残っていました。帯郭なども見事でした。

明石城

明石城
JR明石駅の目の前に見えるのが明石城。2つの櫓が見えるお城です。
築城したのは小笠原忠真で、最初は高山右近の船上城に入りましたが、新たに築城するよう徳川秀忠に言われ明石城を造ります。船上城から使える部材を運び、現存している巽櫓は船上城の移築櫓といわれています。
4つの櫓と天守閣がある豪勢な本丸でしたが、現在残っているのは2つの櫓です。ただ天守閣は結局、建てられませんでした。築城と並行して城下町の町割りが実施されます。小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したといわれています。

船上城(明石)

船上城
キリシタン大名・高山右近といえば高槻城が有名ですが、高槻の後に築城したのが明石の船上城(ふなげじょう)で明石川の河口に造られた水城です。
吉が関白になった時に全国的に国替えが行われ、高山右近は高槻から明石に国替えとなりました。明石は目の前が淡路島で現在は明石海峡大橋がかかるぐらい狭いところなので瀬戸内航路を監視するにはもってこいの場所です。当時は堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていました。
船上城ですが堀跡が小さな水路として残っているだけで、住宅地に埋没してしまいました。主郭のあったところだけは、こんもりとして丘になっています。近くの児童公園に船上城の説明版がありました。一国一城令が出て明石城が造られる時に船上城の部材がリサイクルで使われました。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓といわれています。
高山右近ですが、この船上城時代にバテレン追放令が出ます。
その後、右近は天正15年(1587年)に発令されたによって船上城を追放されてしまった。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地などを捨てることを選んで、世間を驚かせます。