伊勢八太城

伊勢八太駅と一志駅の中間ぐらいにあるのが伊勢八太城。北畠氏に属していた田上玄蕃頭が築いて城主だったと伝わっています。北畠氏が滅亡した後、田上玄蕃頭は秀吉に仕え、伊勢八太城には織田の家臣である日置大膳亮が入っていたようです。

伊勢八太城
伊勢八太城

北山腹に水道施設があり、その脇からよじ登ると主郭に達すると情報があったので、よじ登りましたが実は麓から尾根沿いに山道がありました。主郭は広い楕円形で土塁も残っていました。尾根沿いにピークになっているところが2ケ所あり、こちらも郭だったようです。

大迎城

近江・坂本にあるのが天台真盛宗の総本山である西教寺。「麒麟がくる」で木村文乃さんが演じる熙子(ひろこ)の墓があることで有名です。どうも本能寺の変よりも先に亡くなっていたようです。本能寺の変は信長による四国政策のちゃぶ台返しが有力原因ですが最愛の奥さんが先に亡くなったことによる光秀の自暴自棄という面もあるのでしょう。

大迎城
大迎城

信長や光秀の時代より前に廃れていた西教寺を再興したのが真盛という人物。伊勢国一志郡仰木の出身で、天台宗真盛派の祖となり生まれたところが誕生寺になっています。この真盛の父親が小泉藤能という北畠氏に属していた武士で応永年間(1394年〜1428年)に大仰城を築城しました。


誕生寺の北背後にある山に築かれています。奥の院への参拝道にもなっていて郭跡には石仏などが置かれています。帯郭も残っていました。また北側山腹に降りた所にお城井戸があります。

伊勢神戸城

伊勢神戸城
伊勢神戸城

伊勢平氏の祖となった平維衡(子孫が平清盛)の末裔が鎌倉時代に御家人として伊勢国鈴鹿郡関谷を賜り、ここから名字をとって関氏が生まれます。この関氏の一族が伊勢国河曲郡神戸郷を支配し神戸氏を名乗ります。

やがて尾張を平定した織田信長の伊勢攻めが始まります。基本は力攻めですが、この頃の信長はM&A戦略をとっており、それぞれの名家に養子をいれて最終的に乗っ取る形をとりました。神戸家に入ったのが織田信長・三男の織田信孝で、これ以降、神戸信孝と名乗ります。

伊勢は滝川一益・神戸信孝・長野信包(信長の弟で長野氏の養子)、北畠信雄(信長の次男で北畠氏の養子)による支配下になります。本能寺の変の後、神戸信孝と北畠信雄による跡目争い、いわゆる清須会議が行われます。

伊勢神戸城はそれ以前からありましたが、神戸信孝が強固に整備し、5重の天守閣が築かれます。本丸と堀の一部が遺構として残っています。

浜田城

浜田城
浜田城

四日市で仕事でしたので、お昼休みに近鉄四日市駅のすぐ近くにある鵜の森公園へ。公園内に鵜森神社があり、ここが浜田城の郭跡で西側と南側に土塁が残っています。

上野国赤堀庄が本貫の赤堀家では三兄弟で羽津城、赤堀城、浜田城を守っていました。浜田城を守っていたのが田原家です。田原家の先祖は田原藤太秀郷、そう百足退治の伝説で有名な藤原秀郷です。

やがて織田信長による伊勢侵攻が始まります。滝川一益に攻められて浜田城は落城。やがて織田信雄に属しましたが秀吉が信雄と対立した小牧・長久手の戦いの一つ、美濃加賀野井城の戦いで討ち死にし田原家は滅亡します。鵜森神社は藤原秀郷と田原家を祀っています。

都会のど真ん中ですが土塁と堀跡(池)が奇跡的に残っています。昔は浜田城の碑しかなかったのですが近年、冠木門が復元されています。

鬼ケ城城

鬼ケ城城
鬼ケ城城

熊野にある世界遺産「鬼ヶ城」。荒波によって削られた海蝕洞が織りなす海岸線で公園になっており日本最古の神社といわれる花窟神社と並んで熊野の観光地となっています。

この鬼ケ城の駐車場から頂上へ登る道があり、ひたすら登ると頂上に山城があります。1521年に熊野一帯を支配していた有馬和泉守忠親が築いた隠居城で主郭跡などが残っており、端の郭からは熊野灘が一望できます。連郭式山城で、主郭から北へ伸びた尾根は熊野古道・松本峠に続き3本の堀切跡も残っていました。公園になっているので、きれいに整備されています。

有馬氏は熊野大神に奉仕した熊野別当家の出と言われ、有馬町が本貫となります。有馬氏の勢力が堕ちた頃に新宮の堀内安房守氏虎に攻め込まれましたが、やがて和睦し、堀内氏が新宮と熊野を支配することになります。堀内氏は熊野水軍の将でもあり、織田家、豊臣家に仕えましたが関ケ原の戦いでは西軍に組したため領地は没収されました。敗戦後は加藤清正に仕え熊本に移ったようです。

柿城

柿城
柿城

JR朝日駅のすぐ近くの高台にあるのが柿城跡。東芝三重工場の近くです。古い写真を見ると藪の中に主郭が残っていたようですが、その後、一帯は住宅地として開発されました。渋見砦公園はきれいさっぱりと城跡がなくなり公園名でしか残っていませんが柿城は主郭が公園になって残っています。 

公園設備が置かれていますが周りには土塁などが残っています。住宅地の中によく城跡を残してくれました。柿城には二の丸などもありましたが、こちらは住宅建設に伴って消失してしまいました。柿城跡からは東海道や伊勢湾を眺めることができます。 

伊勢名勝志によると柿城は佐脇宗政が1360年に築いた城で、佐脇氏は室町幕府の奉公衆でした。本貫は三河国佐脇郷のようです。1557年に柿城主だった佐脇宗喜が近江・六角氏の命を受けた小倉三河守に攻め滅ぼされたと案内板に書いてありました。

梅戸城

梅戸城
梅戸城

三岐鉄道北勢線・大安駅を南に行った線路沿いに光蓮禅寺があります。広大な伽藍は信長の伊勢侵攻で焼けたようですが、1583年に伊勢の滝川一益を攻めた秀吉が境内に陣を張り、門前に「軍勢押入乱妨之事」という制札を建てたと伝わっています。

光蓮禅寺の裏手にある山の頂上にあったのが梅戸城です。ハイキングコースになっていて楽に登れ、郭跡は光蓮寺山公園になっています。梅戸城はいつ作られた分かりませんが、城主は梅戸高実だったようです。梅戸氏は北勢四十八家の一家で、南近江守護だった六角定頼の弟が梅戸氏の養子となり梅戸高実となりました。六角氏が伊勢へ攻め込むための橋頭保となります。

梅戸城は近江と伊勢を結ぶ八風街道をおさえるために造られ光蓮寺から南に約400メートル程離れた場所に、通行税を徴収した関所があったそうです。この関所も信長の伊勢攻めで焼失しました。梅戸高実の後は次男・実秀が家督を継ぎましたが永禄11年(1568年)に織田信長に攻められて滅亡したという説と朝明郡に領地をもらったという説もあります。

大井田城

大井田城
大井田城

三岐鉄道北勢線・大安駅のすぐ近くにあるのが大井田城です。

山城には珍しく石碑と案内板があり、案内版には「員弁雑志」に栗田左衛門佐の居城であったと書かれていて1473年頃に美濃の斉藤氏が攻め寄せた時、北伊勢衆が1ヶ月余りにわたって防戦したそうです。栗田家は北勢四十八家の一つで伊勢朝日駅近くの縄生城主でしたから距離的に少し離れています。家老の因入道道信が城主だったのかもしれません。いずれにしても織田信長の伊勢侵攻でえらい目にあったのでしょう。

大井田城は主郭などいくつもの郭があるんですが、すごいのは土塁で囲まれた方形区画群で約40もあります。近くにある保々西城にも方形区画群があるんですが、それ以上です。家臣団の屋敷とも考えられますが規模がすごく、小領主や土豪のレベルを超えていて不思議な城です。

大井戸城は貴重な城跡ですが、真ん中に道路を通してしまってその名も「城山通り」となっています。道の両側の藪の中に方形区画群がありますので、もっとあったのでしょう。ただ地元の人が反対したようで主郭などはしっかり残されていて主郭は梅林公園として整備されています。他の郭は藪の中ですが井戸跡などがしっかり残っていました。

伊勢治田城

伊勢治田城
伊勢治田城

北勢地域は小規模の城主・豪族が集まっており、北勢四十八家と呼ばれています。 

北勢四十八家・治田氏の城が伊勢治田城。近江と伊勢・尾張を結ぶ八風街道に近くにあります。濃州街道もすぐ近くにあり、織田信長が北伊勢を攻略する時に軍勢を通すために街道を整備したといわれています。 

伊勢治田城の歴史はよく分かっておらず治田五兵衛が築き、息子である治田山城守が城主だったという説と楠七郎左衛門正具が築いた説もあります。ただ治田氏は楠氏の一族だったようです。伊勢治田城は織田信長の伊勢攻めで攻め落とされました。 

山城は郭がつながる連郭式が多いのですが、伊勢治田城は梯郭式に近い形で主郭へは、いくつもの郭を巡らないとたどりつけないようになっています。郭と郭のつなぎ目は技巧的に守れるように工夫されています。一番、高い主郭には天守台のような高まりがありましたが櫓が建っていたかもしれません。

宿野城(菰野)

宿野城
宿野城

【宿野城】
桑名、員弁、朝明、三重郡の北勢地域は北勢四十八家が群雄割拠する地域でした。四十八家の盟主だったのが千草氏で菰野に千草城を構え、近くの千草神社が出城になっています。

戦国時代、近江の六角氏が北勢へ侵入し、その後、信長の伊勢侵攻がはじまり滝川一益が北勢を支配することになります。北勢にはたくさんの城がありましたが菰野駅近くには力尾城のほか宿野西城、宿野城、福村館(消滅)がありました。

というわけで宿野城へ行ってきました。誰が造った城なのかは伝わっていませんが北勢四十八家のどこかと関係していたはずです。入口は藪になっていますが、そこを抜ければ竹藪の中を進むことができます。スーツ姿で登るのはあまりおすすめできませんねえ。城跡はちょっとわかりにくかったのですが土塁や堀切などがありました。

【巡見街道】
宿野城からは巡見街道を見下ろすことができます。巡見街道とは江戸時代に幕府の巡見使が通った道で三重県では亀山市で東海道から分かれて中仙道にまで続いていました。江戸時代以前から街道として使われていましたので、宿野城はこの街道を監視するための城で、反対側にある宿野西城と共に街道をおさえていたようです。