大坂国誕生の地 真田丸

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    今年は大阪冬の陣から400年。 

    大坂城は総構えで防御していましたが弱点は南側。堀はありましたが上町台地沿いに攻められる地形になっていました。冬の陣で真田幸村が作ったのが真田丸。出城になっていて堀(現在の空堀町)の外側、現在の宰相山公園から真田山公園の一帯が真田丸跡地と言われています。 

    遺構はなにも残っていませんが、公園はかなりの高台にあり見晴らしのよい所にあります。真田は武田二十四将の一人で、武田の特徴と言えば丸馬出。真田丸は巨大な丸馬出だったようです。結局、徳川家康軍はこの真田丸を破れず、総構えから侵入できないため和睦になります。 

    真田丸のあった宰相山公園にあるのが三光神社。ここに真田の抜け穴があります。大坂城まで続いていて豊臣秀頼の遺児・国松はここから無事に脱出しました。以来、秀吉が造った大坂城の痕跡をなくし、巨大な盛り土をして新たな大坂城を造ったタヌキ親父のやり方に不満を抱いた大坂の町人が、この国松の子孫を現在まで守り通しています。大阪の人間なら誰もが知っている秘密です。(笑)

民家が立ち並ぶ古墳にあった城(丹下城)

tange201311.jpg河内松原にある古市古墳群の巨大前方後円墳「大塚山古墳」。全長335メートルあり日本で5番目の大きさの古墳です。昔は丹下城が墳丘内に築かれていました。 

古墳が城に使われることは多く、古市の高屋城もそうですし、山崎の合戦では明智光秀が恵解山古墳に本陣をかまえました。大坂冬の陣では茶臼山古墳が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村が本陣にしていました。継体天皇陵ではないかと言われている摂津の今城塚古墳も織田信長が三好家を攻める時に築いた城と言われています。それで今城という名前がついています。 

丹下城ですが北朝側に組みする丹下氏の城郭で、南北朝時代から戦国時代まで使われていたようです。織田信長によって城は壊されました。 

江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には村の氏神さんである天満宮が祀られました。古墳の中に民家が立ち並んでいたんですね。ところが、大正14年に陵墓参考地になってしまい民家は古墳の外に立ち退きとなってしまいました。古墳に民家が立ち並ぶところは見てみたいですね。 

住宅街に土塁が残る高屋城(古市)

takaya_201311.jpg阿倍野で仕事でしたので、阿部野橋駅から近鉄南大阪線で古市駅へ。阿倍野橋駅の横にあるのがアベノハルカスです。 

古市駅から少し歩いたところにあるのが安閑天皇陵。この古墳が戦国時代は高屋城の本丸でした。高屋城はもともと応仁の乱後に畠山義就が築いた城です。古市は河内長野から高野山へ抜ける道、穴虫峠から奈良へ抜ける道の接点でもあり、交通の要所でしたから30回以上も城主が入れ替わっている城です。 

奈良から大阪へ大勢の軍隊が入ろうとすると生駒山脈が連なっていますので、北の枚方方面から入るか南の穴虫峠からしか入れません。ですので壬申の乱では近江軍と大海人皇子軍との戦いや大坂夏の陣では後藤又兵衛が敗れた戦いなどが行われました。最後は織田信長に攻められて落城し、廃城になりました。 

城跡ですが天皇陵以外はすっかり住宅地になっています。本丸以外に二の丸、三の丸がありましたが、こちらも住宅地。ただ地名は城山になっています。不動坂という近鉄の踏切があるところがありますが、ここだけは土塁が残っていました。写真の左手は5メートルほど。右手はほとんど残っていませんでしたが、こっちは10メートル以上の土塁でした。ここに不動坂門があり、信長にこの門を突破されて落城してしまいました。 

踏切近くで写真を撮っていたら、ドライバーが怪訝な顔をして見ておりました(笑)まあ単なる土の山ですからねえ。 

池田城

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    大阪の池田と言えばお酒の呉春や上方落語の池田の猪買いなどが有名ですが、昔、お城がありました。 

    梅田からマルーン色の阪急に乗って池田駅を下車。500メートルほど歩くと、急に坂となり坂を登ったところにお城があります。昔からよく攻められた城で応仁の乱では東軍について西軍に攻められ落城しています。 

    昔は主郭だけでしたが落城のたびにどんどん郭を増やして防衛力を高めています。織田信長が荒木村重の伊丹城を攻める時には池田城を拠点にしていました。伊丹城が落城した後は廃城となり、やがて城は埋もれていきました。 

    現在、主郭跡は池田城跡公園になっていて模擬櫓台などが建てられています。眺めはとってもよく現在はビルが建てこんでいますが、当時は伊丹城を肉眼で見ることができたでしょう。堀跡が遊歩道になっているんですが、イノシシが出るということで閉鎖されていたのは残念。

飯盛山城

iimori201303.jpg昨日は野崎城を見た後、そのままハイキングコースに入って飯盛山頂上へ登ってきました。 

天気予報は曇りでしたので、雨はそのうち止むだろと思っていたら、だんだんひどくなってきます。引き返すのもしゃくだし、ぬかるんだ山道をえっちら登っておりました。さすがに誰も登っていません。 

飯盛山山頂には四条畷の戦いで戦った楠木正行の銅像が建っています。この頂上付近が飯盛山城の本丸で、郭跡が残っていますが、飯盛山城は連郭式になっていて、かなり広大。所々には崩れた石垣が残っていました。 

こんな日に誰もいないと思っていたら雨の中をもう一人登っているおじさんがいて、一般人は絶対に気にしない郭跡などを見ていました。飯盛山城を見にきたようで同好の士ですなあ(笑) 

飯盛山城は河内平野を見下ろす山城のため、太平記の時代からありました。有名な四条畷の戦いもここが舞台の一つでした。飯盛屋城は歴史の舞台にたびたび登場し、信長よりも先に京都を掌握した三好長慶の居城になったり、最後は織田信長によって落城させられ廃城になったようです。 

野崎城

nozaki201303.jpg野崎と言えば桂春團治の十八番「野崎詣り」、上方落語の舞台です。野崎観音のある慈眼寺への参詣を野崎詣りと言いました。 

JR学研都市線の野崎駅から少し歩くと野崎詣りの慈眼寺があります。。寺の入口はえっちらおっちら石段を登った高台にあります。寺の裏側からハイキングコースがあり、寺の裏山へ登ることができます。少し登ったところにあるのが野崎城跡。野崎詣りをする人は多いのですが、こんな雨の日に城跡に登っている酔狂な人間はさすがにいませんね(笑) 

城跡は何も残っていないんですが郭跡などはそのまま見晴らし台になっています。堀切があるのですが、かなり深くなっていました。 

太平記に南朝側の楠木正行に対峙するための北朝側が陣をひいたと記録があります。戦国時代にもいろいろな文献に登場しますので合戦の舞台によくなったようです。確かに城跡からは四条畷や野崎が一望でき、戦略上の要害だったようです。