大阪城 石垣の謎の穴

大阪城
大阪府よろず支援拠点からの帰り、大阪城の南外堀横を通って森ノ宮駅へ出ています。大阪城公園は緑が多く、なかなか快適です。
いつも通る二の丸南面側の六番櫓近くの石垣にポッカリ穴が空いています。これが大阪城の謎の一つ。大坂の陣で真田幸村が城内から外へ通じる秘密の抜け穴を掘ったという伝説などが残っていますが、この穴はどの資料にも出てこず、昭和34年に行われた調査まで誰も気づいていませんでした。私なんか通るたびに気になるのですが、当時は埋まっていたんですかね。
石垣から積み石一個分が抜かれており、約90cm四方の穴ですから大人でも入れます。中は2mほど入ったところが崩れて行き止まりになっており、木の柱らしきものがあり人工的に掘られた穴のようです。
誰が穴を開けたのでしょうか。徳川が大阪城を再建した時、この周辺の石垣を担当したものが開けたのか、明治になってから大阪城には帝国陸軍第四師団がおかれましたので陸軍が開けたのか分かりません。
そもそも穴の目的が分からず今も謎になっています。大阪城の周りは散歩やランニングしている人が多いのですが、いろいろと面白いものがころがっています。

激戦の谷筋(大坂夏の陣の舞台)

河堀町
大河ドラマ「真田丸」で、少し出てきましたが、大坂夏の陣は野外戦だけではなく堀を挟んだ攻防戦がありました。というわけで現在も高低差が残る、堀跡を見に行きました。「激戦の谷筋」というノボリが谷筋にはためいています。
この堀跡が注目されるようになったのは尾張徳川家に伝えられた天王寺表合戦緒備之図で、大坂夏の陣の様子を描いたものです。よく見ると真田信繁が陣を置いた茶臼山から大野治房が陣を置いた岡山まで崖が描かれています。昨年、茶臼山と岡山に馬出しがあったことが分かり、堀の両端に茶臼山と岡山の城をセットした防衛線だったことが判明。大坂冬の陣の和睦で総構がなくなってしまいましたが、新たに総構を造っていたことになります。
■和気清麻呂が造った運河
もともとは和気清麻呂が造ったものです。宇佐八幡宮神託事件で有名で、戦前には十円紙幣に描かれていました。この和気清麻呂が行ったのが大和川の付替で上町台地を開削しようとしました。前例があり、それが仁徳天皇が行った”難波の堀江”。つまり運河で現在の大川といわれています。
しかしこの国家プロジェクトは頓挫したようで、茶臼山の横にある河底池はその名残といわれています。この運河ですが茶臼山から岡山まで、戦国時代にもある程度、現存していたようで、おそらく真田信繁が整備して堀にしたのでしょう。今も付近には河堀、堀越、大道などの地名が残っています。
大坂の陣が終わってからは埋められたようで、現在は窪地で残っています。江戸時代の古地図が家にいくつかあるので調べてみましたが掲載されていませんでした。茶臼山の河底池にですが、初代通天閣ができた内国勧業博覧会では飛艇戯(ウォータースライダー)が設置されました。

真田の丸馬出し(茶臼山)

馬出し
天王寺のすぐ近くにある茶臼山は大坂夏の陣では真田信繁の本陣となり、ここから家康目指して突撃しました。茶臼山にはちょこちょこ行っていたのですが、横に丸馬出し跡が残っているとは知らず、見に行ってきました。写真が丸馬出し跡です。
馬出しというのは城の外側に築かれる防御陣地で横の2ケ所から馬が出せるような形になっています。真田丸もこの馬出しを巨大にしたものだと長年、言われていましたが去年、松江歴史館で見つかったのが「極秘諸国城図」で独立した出城だったことが判明します。
馬出しには四角形になった角馬出しと半月型となった丸馬出しがありますが、武田でよく使われていたのが丸馬出し。真田は武田の有力武将でしたので城造りも武田に学んだのでしょう。「摂津茶臼山御陣城図」というのが残っており、茶臼山本陣のすぐ横に造られていたのが丸馬出しでした。ここから家康本陣を目指したんですね。

楠木七城の一つ 金胎寺城

金胎寺城
金胎寺城は河内長野にある楠木七城の一つです。昔、山の麓に金胎寺がありました。
楠木七城というのは楠木正成が鎌倉幕府へ抵抗するために築城した城砦群のことで千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城からなっています。石碑しか残っていない下赤坂城以外の六城には全部、登りました。(笑)
金胎寺城は楠木の城でしたが、室町時代は近くの嶽山城ともども河内守護となった畠山基国の城となり、南朝側の楠木を攻める拠点になります。畠山基国の孫が畠山持国です。持国の実子である義就と甥で持国の養子だった政長の間で家督争いが発生。畠山義就は嶽山城、金胎寺などにこもって畠山政長と戦います。これが将軍家や細川家の家督争いとからんで応仁の乱へと続いていきます。
■登山道が整備された金胎寺城
金胎寺城は、よく歴史書に出てくる城なんですが、今までは藪だらけで整備されておらず、たどりつくのが大変でした。2015年に地元の方が木を伐採、道を整備し、城まで登山道が作られました。道には頂上まであと何分という案内があり、迷うことはありません。えっちらおっちら登ると主郭からは360度、見渡すことができます。
遠くは明石海峡や六甲の山、近くにはハルカスやPLタワーなどが見えます。烏帽子形城や嶽山城もよく見え、連携して動いていたことがよく分かります。他の郭跡や堀切もしっかり残っています。スーツ姿では登れません。

嶽山城 応仁の乱の舞台

嶽山城
「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中公文庫)が28万部を超え、固い歴史書では珍しくベストセラーになっています。いいな~あ、ウチのバグ本も売れないかなあ(笑)。
京都からの視点ではなく、興福寺の僧である経覚と尋尊が奈良を中心に応仁の乱について日記を記載しており、”奈良から見た応仁の乱”になっており、なかなか面白い内容です。
■嶽山城
さて応仁の乱というと京都が戦場というイメージがありますが、そんなことはなく河内も大和も皆、戦場になりました。河内で戦場になったのは若江城、高屋城、そして嶽山城です。
富田林にある嶽山城では”嶽山城の戦い”が行われ、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し2年以上も幕府軍と戦いました。畠山義就は負けて嶽山城は落城するのですが、畠山義就は紀伊や吉野に逃れ、やがて上洛して畠山政長の追い落しをはかり、これが応仁の乱へとつながっていきます。
嶽山城はもともと楠木正成が作った楠木七城の一つといわれています。現在、城の跡地は「かんぽの宿富田林」となり、城跡などは残っていません。テニスコートの奥の方に碑が建っていて、碑の先に広い平坦地がありました。郭の跡のようですね。

客坊城

客坊城
「応仁の乱」(中公新書)が話題になっています。
足利義政が弟の義視を後継者にしたところ、日野富子が子供(義尚)を生んだことで後継者争いに発展。それぞれ細川勝元と山名宗全がくっついて、応仁の乱が勃発したというのが一般的なイメージなんですが、そんな単純なものでは途中でクーデターが起ったりして波乱万丈な戦いでした。
■客坊城
京都だけでなく大和や河内国も戦乱に巻き込まれ若江城、天王寺城、八尾城と共に客坊城が舞台になりました。客坊って、ウチの近くの客坊町?
客坊城では畠山政長方(東軍)が守っていましたが、西軍の畠山義就に攻められて陥落したと大乗院寺社雑事記に記載されています。というわけで自転車に乗って出かけてきました。生駒山の山麓を登った東大阪市立郷土博物館 の北側に昔、客坊寺があり、そこが客坊城でした。遺構はなにも残っていませんが、眺めがよく大阪平野が一望できます。
西側を見ると若江城や天王寺城がよく見えます。こんなところも応仁の乱の戦場になったんですなあ。

小谷城

小谷城
小谷城といっても近江にある有名な浅井長政の小谷城ではなく堺にある小谷城です。
泉北高速鉄道の泉が丘駅にあるので周辺は住宅街です。ここに鎌倉時代から続く山城跡があり、平政有が城を築いたといわれています。
今や住宅街のど真ん中なんですが、阪和第一泉北病院を作る時に、病院が山城跡を残すことを決定。英断ですねえ!というわけで病院の横から階段を登ると小谷城の主郭跡にたどりつきます。住宅街なんでスーツ姿で登れる山城です。
■平氏一門・小谷氏
鎌倉時代の終わりになると、楠正成の軍に加わって南朝方で戦っていました。小谷城は千早・赤坂から狼煙火の中継点として使われていたようです。
やがて織田信長の根来攻めの時に、あたり一帯が根来側だったため攻められ落城してしまいます。子孫は小谷氏として郷士となり、大坂の陣では家康側で戦っていました。

若江の戦い 木村重成

木村重成
後藤又兵衛が道明寺の戦いで討死した同日、北方の若江では木村重成が討死しました。
大河ドラマ「真田丸」では白石隼也が演じています。東高野街道を南下する家康、秀忠を狙って側面からの攻撃を考え、長宗我部盛親とともに八尾・若江に布陣します。木村重成は若江村を担当しています。当時、大坂城の東側は付替前の大和川が流れ、池も多く湿地帯になっていました。
豊臣方の狙いを見抜いた藤堂高虎が迎え撃ちます。木村隊、長宗我部隊はよく戦い、藤堂方の武将が次々に戦死、兵の半分を失う壊滅的な状況となります。後年、名張藤堂家の祖となる藤堂高吉(丹羽長秀の三男)が踏ん張っているところに、井伊直孝が応援にかけつけます。
■来年の大河ドラマ 井伊直孝が救援に
真田丸を攻撃した赤備えの井伊隊で、来年の大河ドラマ「井伊直虎」に出てくる井伊直政の次男です。真田信繁が真田丸の櫓から「向こうにも、ここにいたるまでの物語があるのだろうな」と来年の大河ドラマにエールをおくっていた人物です。
木村重成自身も槍をとって戦いましたが討死しました。首が家康に届けられたところ、頭髪に香が焚きこめてあり、家康が感嘆したという逸話が残っています。藤堂と井伊はこの戦いでの被害が多く、翌日の先鋒を辞退しています。
木村重成の墓は若江城跡近く、第二寝屋川の横の公園にあります。陣を置いたのは少し北にある蓮城寺になります。(若江鏡神社のすぐ近く)

小松山(後藤又兵衛)

小松山
大河ドラマ「真田丸」の次週予告を見ていたら、真田信繁が伊達政宗に向かって「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と叫ぶシーンが出ていましたので、木村重成も後藤又兵衛も討死するんですね。
難波から大阪近鉄線に乗って八尾、柏原を過ぎると大和川を渡って、すぐ河内国分駅に着きます。河内国分駅のすぐ西にある小山が小松山で道明寺の戦いが行われたところです。今は住宅街になっています。奈良から大軍が移動するには王子から大和川沿いに隘路を進むしかありません。大阪側の出口が河内国分になります。徳川軍が出てきたところを迎え撃とうと後藤又兵衛が出陣し、この小松山で幕府軍を叩きましたが、新手が次々にあらわれる徳川軍にはかなわず討死します。
小松山は河内国分を見下ろす位置にありますが、すぐ西側にあるのが石川でその先には誉田御廟山古墳など巨大古墳が連なっています。山崎の合戦で明智光秀が陣をひいたのが恵解山古墳のように、当時、古墳は城代わりとして使われていました。石川を堀にし、古墳群に防衛ラインをひくのが本来の戦略でしたが、どうも後藤又兵衛が一人だけ突出してしまったのではないかというのが最近の学説です。大河ドラマで後藤又兵衛が「死に場所を探しに来た」というセリフがありましたが、あれは伏線なんでしょうね。

大河ドラマ「真田丸」 鉄壁の防衛ライン(岡山)

御勝山
大河ドラマ「真田丸」を見ていたら最新の城郭研究の結果が反映されていました。それが真田の新しい防衛ライン。堺雅人が図を示していました。
大坂冬の陣で活躍した真田丸を破却された真田信繁はさらに南側に新たな防衛陣地を築きます。西側は大坂冬の陣で家康が陣を置いた茶臼山。東側は同じく秀忠が陣を置いた岡山です。大坂の陣で徳川側が勝ったので御勝山と呼ばれるようになりました。写真は現在の御勝山で後円部の一部しか残っていません。
茶臼山と岡山を陣城に改修し、2キロほどの間に堀を造ります。堀跡が見つかっていましたが和気清麻呂が古代に大和川の付替えをした時のものと考えられていましたが、どうも大坂の夏の陣で真田信繁が造ったようです。
新しい真田丸の古図が見つかったと話題になった「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」ですが、茶臼山の陣城についても書かれており、そこにあったのが武田流の丸馬出しで、同じ丸馬出しが岡山にもありました。岡山を守っていたのが大野治長です。
防衛ラインで家康軍を止めて戦闘部隊と本陣との間に間隙ができたところで両側の丸馬出しから出撃して本陣を狙うという作戦でしたが、味方が敵につられ防衛ラインを超えて攻めてしまったため、策は瓦解してしまいました。