洲本城

洲本城

洲本城は淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏が築き、天正13年(1585)に入城した脇坂安治が総石垣の城に改修しました。

■転勤族だった脇坂安治
脇坂安治は近江国生まれで賤ヶ岳の七本槍の一人です。天正12年(1584年)に伊賀守護となりますが、この時に秀吉とやり取りしていた古文書が近年、龍野で発見されました。秀吉に戦いで手柄をたてたいと、ごねる脇坂安治に対して、京都御所造営のためにしっかり材木を出せ、戦働きと同じで重要な仕事だと叱責しています。秀吉にとって子飼いの武将だったので気安さが伝わる内容になっています。

翌年、秀吉より淡路洲本で3万石を与えられ洲本城を整備しました。淡路水軍を率いて九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に参戦しています。関ケ原の戦いでは西軍に属していましたが事前に家康と内通しており、本領安堵になっています。後に伊予大洲藩に転封となりますが洲本時代が24年間ありました。

■洲本城
東西800mに及ぶ広大な城で東の丸から西の丸まで歩きましたが、広い!広い!また水軍の城なので城下には港が見えます。洲本城の魅力は2条になった登り石垣がある点です。登り石垣とは頂上から麓まで延々と続く石垣で松山城や彦根城にも残っています。規模は小さいですが周山城などにも登り石垣があります。

伊賀丸山城

伊賀丸山城

伊賀でお仕事だったのですが午後の予定がキャンセルになったので、伊賀鉄道で丸山駅へ出て丸山城に登ってきました。丸山城は駅近くの山に築かれています。小川沿いの道を歩いていくと、以前はなかった案内板があり、ここから山道を登って城に入れます。

丸山城は天正伊賀の乱(織田信長による伊賀攻め)のきっかけとなった城です。伊勢国司だった北畠家にムリヤリ養子に入ったのが織田信雄(「どうする家康」では浜野謙太が演じていました)で、信長にいい所を見せようと伊賀侵攻の拠点として丸山城を築き始めます。天守台まで備えた壮大な城でしたが、完成間際に伊賀衆によって落城させられます。怒った織田信雄が8,000の兵で伊賀を攻めますが、これまた敗退してしまいます。信長からは親子の縁を切ると叱責されてしまいます。

丸山城はたくさんの郭で構成された城で、最終的に伊賀国が滅んでから改修されたようです。食い違い虎口など織豊時代の技巧的な城造りになっています。

隠岐支城Ⅱ

隠岐支城Ⅱ

甲賀の隠岐城塞群もいよいよ最後です。隠岐支城Ⅱは隠岐支城Ⅰの目の前の丘上にあり、砂坂城の東側にあります。隠岐支城という名前がついていますが本当に隠岐氏の郎党の城かどうかは分かっていません。ただ隣接した形で密集していますから同族なのでしょう。隠岐城塞群は隠岐城、隠岐支城Ⅰ、隠岐支城Ⅱ、隠岐支城Ⅲ、隠岐支城Ⅳ、砂坂城、打越城からなっています。あとで調べるとすぐ近くに大佐治北城、神保城がありましたが、こちらは行けていません。

■隠岐支城Ⅱ
城の北側から切岸(早い話が崖)をよじ登っていきます。郭まで到達すると郭と郭の間には見事な堀切になっていました。ようやく主郭まで登ると、なんと畑になっていました。後で南側にまわると分かったのですが城跡には小道が整備され住宅がいくつか建っていました。なんだ、苦労せずに城に到達できたんだあ。

隠岐支城Ⅰ

隠岐支城Ⅱ

砂坂城の東側に隣接してあるのが隠岐支城Ⅰです。砂坂城を降りて東側にある丘を登っていくと、切岸がありました。直登して郭に入れましたが竹藪で全体は見通せません。いったん降りて山道を進んでいくと農道があり、ここから郭に簡単に登れました。郭に入って進んでいくろ土塁があり、先ほど登った郭の段が見えました。

打越城

打越城

打越城は隠岐城館群の一つです。隠岐支城Ⅲの近くにある農道を進み、高台に登っていくと香蓮寺があります。このお寺の背後に打越城があります。城の北側を佐治川が流れ、尾根状の地形となった段丘上に城はあります。適当に竹藪が伐採されていて中は明瞭に見ることができます。郭の周りを土塁と空堀が巡っており、角の部分は90度にきれいに曲がっています。途中、二重堀になっているようなところもあり楽しめます。打越城からは隠岐城や隠岐城館群を見渡すことができます。

隠岐城

隠岐城

小高い丘の上に浄土宗・龍生山大岡寺があり、ここが隠岐城跡です。本堂へ続く階段の両側に土塁が残り、本堂の周りにも土塁がところどころ残っていました。本堂の一帯が郭になっていました。隠岐氏の本拠になります。

隠岐氏は甲賀五十三家の一つで、一説に鎌倉時代、出雲源氏の祖となる佐々木義清が一帯を支配し、佐々木義清が隠岐国を領していたので甲賀に隠岐という地名がつけられたようです。隠岐氏はこの佐々木氏の流れと言われていますが、よく分かっていません。ただ出雲・隠岐というと尼子ですが、同じ近江の尼子が本貫なので関係がありそうです。

佐々木義清は鎌倉幕府の御家人で、大庭景親の娘と結婚して相模国大庭に住んでいました。以前、藤沢に泊まった時に訪れた大庭城にいたんですねえ。父親が近江守護に任命されており、伊勢で発生した三日平氏の乱に佐々木義清が甲賀の軍勢を引き連れて攻めています。

隠岐支城Ⅲ

隠岐支城Ⅲ

隠岐支城Ⅲは案内も何もない山城なんで事前に調べると、春日神社の裏から登場するための山道があるという情報を発見。さっそく春日神社の階段を登って小さな祠にお参りし裏側に行っても特に道はありません。とりあえず頂上を目指して登りましたがGoogleマップで調べると城は隣のピークにあるようです。「しょうがない」と、もう一回麓に降りて、隣のピークを目指して登っていくと隠岐支城Ⅲにようやく到達。到達した郭は藪だらけで、ちょっと入ってみましたが早々に退散です。

郭の隣に一段と大きな郭があり、ここは一部が畑で使われているために十分に眺めることができます。ここが主郭だったようです。歩いていくと虎口のようなところがあり、ここを降りていくと池があり水源と確保したのかもしれませんが後世の溜池の可能性もあります。さらに降りていくと紅葉が美しい広場のようなところへ出て、ここから農道に出ることができました。ウーン、崖の直登などせずに楽に登れる道があったんだあ!まあ、訪れる人間は限られていますので、情報が少ないですから、基本的に行き当たりばったりですね。

砂坂城

砂坂城入口

隠岐字砂坂にあるお城で隠岐支城の一つです。砂坂城はローマ数字ではなく地名がつけられています。グランド南側の丘陵上が城跡になっています。事前に調べた情報によるとグラウンド横に小道があり、その近くに登城道があるということでしたが、探せども、どこにもありません。仕方ないのでグランド横の小道を少し進んで、崖にとりついて直登すると小さな山道を発見。この山道を登っていくと郭と郭の間のようなところに出ます。先の郭は藪だらけでさすがに断念。

手前の郭はまだそれほどでもないので進んでいくろ一段と高くなった土塁がありましたが、ただ郭に入って虎口などを探すには藪がひどすぎましたので、こちらも断念。帰りは小さな山道を下っていくと街路灯のすぐ横に出ました。ただ入口は植物に覆われていますので、こりゃ、気づくのは無理ですね。

隠岐支城Ⅳ

隠岐支城Ⅳ

甲賀に隠岐というところがあり山城が密集しています。中心が隠岐城で、支城が取り囲んでいて、近くにある和田城と同じような構造になっています。

まずは取り囲んでいる支城の一つ隠岐支城Ⅳへ。横を流れる川を堀代わりにしています。城域に入ったと思ったら小さな郭と土橋みたいなのがあり、城にしては小さすぎるなと思ったら、後の時代の改変のようでした。さらに空堀を超えて進んでいくと土塁に囲まれた郭跡がありました。この支城は大きな城ではなく主な郭も一つだけの、こじんまりとした城した。一番、外側にある支城なので出城のような扱いだったようです。

田屋氏館跡

田屋氏館跡

海津衆・田屋氏の山城が田屋城ですが、こちらは詰めの城で平時は平地に城を構えていました。1652年に田屋氏の館跡に長法寺が建立されたと寺伝にあるそうです。当時は土塁や堀が残っていたそうですが、今は何も残っていません。ただ、奥に土塁の一部が残っていると案内に書いてあったので、見てみましたが、まあ土塁といえるかどうか微妙です。

田屋氏は浅井氏と縁戚で、信長の浅井攻めでは浅井方についたため浅井家とともに没落したようです。秀吉と柴田勝家の賤ケ岳の戦いでは海津を丹羽長秀が抑えていました。田屋城の主郭がけっこう技巧的なのは丹羽長秀が改修した可能性があります。

■大坂の陣では田屋氏の娘が活躍
「どうする家康」で、大坂の陣をやっていますが、田屋氏の娘2人は茶々の侍女となり、長女(海津局)は大坂の陣では千姫とともに逃れ、後に江(秀忠の奥さんで茶々の妹)に仕えます。次女(饗庭局)は方広寺鐘銘事件の際には、大蔵卿局とともに家康のいる駿府へ赴いています。大坂夏の陣で茶々や秀頼とともに亡くなっています。