「本能寺の変」の知らせが飛び込んだ秀吉本陣

秀吉本陣
岡山へ行ったついでに備中高松城と付城(敵城を攻めるための城)を巡ってきました。まず、備中高松城を見下ろす石井山。ここに秀吉の付城がありました。石井山の頂上に登ると開けたところがあり、ここが秀吉の陣跡。備中高松城が眼下に見えますが、かなり近いので人の識別ができるほどです。ここなら清水宗治の姿もよく見えたでしょう。
この秀吉の陣に飛び込んできたのが「本能寺の変」の知らせ。通説では毛利軍と間違って使者が紛れ込んでしまったとありますが、旗指物を見たら、どの軍かわかるし、毛利軍は水攻め堤防の先の山々に陣取って、同じように旗指物を上げていましたから、間違うことはなかったでしょう。となると明智光秀が秀吉に知らせたことになりますが、抜け目ない秀吉だったので、なにか変事が起こればすぐに知らせを送る自前の通信網をあらかじめ作っていたのでしょう。
いずれにしても、この場所で安岡寺恵瓊を通じて毛利方と交渉が始まります。清水宗治の自害と引き換えに城兵を助けることで話がつき、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、小舟に乗って、舞を踊った後に自害。首は秀吉の陣に運ばれて、首実検が行われ、篤く葬られました。陣のすぐ隣に清水宗治の首塚がありました。
毛利軍の撤退を確認した後、水攻めの堤防を決壊させ、ここから秀吉の「中国大返し」が始まります。ここが、まさに、その場所だったんですねえ。以前に書いたガイド記事が、ちょうどこの場所のことでしたので感慨深いものがありました。
→ 中国大返し 秀吉に本能寺の変の第一報が

烏帽子型城(河内長野)

烏帽子型城
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。

備中高松城 水攻め土塁跡

蛙が鼻
昨日、せっかく岡山まで行くので、吉備線に乗って備中高松駅へ。
駅近くに秀吉の水攻めで有名な備中高松城がありますが、駅は完全なローカル駅で、駅の中には何の案内もなく、駅を出たところに看板があるだけ。
駅から少し歩くと蛙が鼻築堤跡があります。水攻めにするために堤防を築いたのですが、この堤防の土塁が今も残っています。
土塁を発掘したことろ一番下には土留めに使われた木杭や土を入れた俵の跡などが見つかり、しっかり基礎をつくってから土を盛ったようです。発掘現場も展示されていました。残っている築堤跡は高さ3~4メートルほどで、江戸時代の地誌類では高さ8mとあります。この堤防を延々と3kmも築き、高松城を水攻めにしました。わずか12日で完成したという話ですが、本当ですかねえ。
水攻めは中国の歴史書には出てきますが、日本では高松城が本邦初。水攻めの策を考えたというのは黒田官兵衛と言われています。
去年、大河ドラマが黒田官兵衛でしたので、それにあやかって「黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする」という記事をAll Aboutに書いたのですが、現地を見たのは今回がはじめて。(笑)書いた内容はだいたいあっていたので一安心。
→ 黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする (戦国武将に学ぶシステム作りシリーズ)

諏訪城跡(神戸 諏訪山公園)

諏訪山城
今日は午後から専門家派遣だったので、午前中に諏訪山公園へ行ってきました。神戸のJR元町駅から坂をずっと登ったところにあります。神戸は本当に坂の町ですね。諏訪山公園は高台で神戸の街が一望。ここが室町時代に赤松範資が築いた諏訪城跡といわれています。残念ながら遺構は残っていなく、公園なのでスーツ姿で登れる山城です。
戦国時代になると織田信長に謀反を起こした荒木村重が花隈城にこもり、信長の乳兄弟である池田恒興が陣所を諏訪山におきました。公園から見ると神戸ポートタワーから港が一望で花隈城跡もよく眺められます。
諏訪山に陣をおいたのは池田恒興と嫡男の元助、次男の輝政は生田神社の森に、紀伊雑賀衆の援軍は大倉山に花隈城を囲むようそれぞれ陣をおいて攻めます。荒木軍は敗れ、荒木村重は毛利へと落ちていき花隈城は廃城となります。
池田恒興は荒木の旧領をまかされ新たに兵庫城を築城します。地下鉄・中央市場前駅近くにあります。本能寺の変の後、清州会議では秀吉に味方します。小牧・長久手の戦いでは迂回して家康の本拠の岡崎を攻めるよう進言して実行しますが、家康に察知され攻撃を受け、嫡男の元助と共に討死してしまいます。岐阜県・多治見市にある池田城跡へ行くと池田恒興、元助の墓標がありました。
池田家の後を継いだのが次男の池田輝政。そう、あの姫路城を造った人物です。

市街地に奇跡的に残る交野城(私部城)

交野城
織田信長が石山本願寺攻めなどに活用した若江城や古市にあった高屋城など市街地にある城は住宅地されるがほとんどですが、奇跡的に市街地に残っているのが交野城(私部城)。京阪交野駅からちょっと歩いた私部に残っています。
もっとも多くは住宅地や畑などになっていますが、郭の形がわかる形で残っていて、交野郵便局の隣には土塁跡も残っています。少し高台に堀で囲まれた形で奈良の筒井城に似ています。
交野城(私部城)は城主が分かっていて河内の武将だった安見右近が築城。松永久秀の配下で、松永久秀の命令で交野城(私部城)を築城したようです。やがて松永久秀とともに織田信長の配下に入り、三好三人衆を交野城(私部城)で牽制していました。ところが松永久秀が信玄の動きにあわせて信長を裏切ります。そうとは知らない安見右近は松永久秀に多聞城に呼ばれて殺されてしまいます。
その後、すぐ松永久秀は交野城を攻めますが、なんとか持ちこたえました。この時に松永久秀が造った陣城が国見山の津田城という説があります。柴田勝家、佐久間信盛らがかけつけて松永久秀軍を撃退します。
いつ城が廃城になったかは分かりませんが、本能寺の変のあとではといわれています。以来、400年以上も城跡が奇跡的に残りましたので、今後も残していってほしいですね。

とても眺めがよい津田城

国見山
連休最後の水曜日、近場の山城へ行こうとJR学研都市線で津田駅(枚方市)へ。津田駅から少し歩いて国見山を目指します。国見山は生駒山地の北方にあり、名前の通り山城、摂津、河内の国を一望できます。遠くは比叡山も見え、目の前は高槻から山崎あたりです。山頂には鯉のぼりが泳いでいました・
この国見山にあったのが津田城。津田氏が造った城と言われ、すぐ近くの飯盛山城から畿内に号令した三好長慶と結んでいました。三好長慶亡きあと、津田氏はもともと本願寺勢力とも通じていたため、織田信長に攻められ落城。発掘調査で焼土層が見つかっており、織田信長の焼き打ち跡ではといわれています。
津田城は、ちょっと変わった城で、長い土塁があり、普通の城とは違い、土塁から標高が下っていく方に郭が造られています。一説には交野城を攻めるために古代寺院の跡地を利用して松永久秀が造った陣城ではないかともいわれています。ただ城跡をみてみると交野方面への防御力が弱く、堀切もないし、どうですかねえ。
本来は国見山の麓に本城があったのですが、こっちは住宅地の開発で壊滅してしまいました。国見山は見晴らしもよくハイキングコースになっていますので、ハイカーがたくさん登っていました。城目当てで土塁の端や郭に登っているような酔狂な人物は誰もいませんでした。(笑)
汗をかいたので帰りに大阪王将でビール&餃子の定番コースを頼み、今年の連休は終わってしまいました。

鎌倉幕府が滅ぶ原因となった千早城

千早城
金剛山の登口から急な石段が続いており、この石段をひたすら登ると千早神社境内。ここが、日本史で必ず習う千早城跡。
千早城跡を通って、そのまま金剛山へハイキングできますので、訪れる皆さんは山城マニアではなく、ほとんどがハイカー。神社にお参りしてから神社裏の登山道を通って金剛山を目指します。神社の境内を見て回っているのは私ぐらい。(笑)
神社の裏手に本郭跡があるんですが、神域となっているため立入禁止。本郭以外の郭跡をめぐっておりました。それにしても広い郭ですねえ、大きな郭が4つほどあり、かなりの兵が常駐できました。太平記には1,000名の手勢で立てこもったと出てきますが、十分に常駐できそうです。
郭を歩き回っていると入口の郭から20メートルほど下のところにも郭があるのを発見。崖を降りてみると、かなり広い帯郭でした。後で調べると「馬かけ場」という名前がついていました。千早城は四方が絶壁になっていて、裏手から金剛山へ抜ける道があるだけ、守りやすい城になっています。
後醍醐天皇が笠置山に挙兵。倒幕運動に呼応し、楠正成も挙兵します。鎌倉幕府軍が攻め寄せ、下赤坂城、上赤坂城が落城するなか、楠軍は千早城にたてこもり1,000人の兵で幕府軍100万を相手にしたと太平記に出てきますが、そんなことはなく、1000対数万でしょう。攻めあぐねた幕府軍は向かいの山から100尺(300m)もの橋を掛けて、攻め入ろうとしましたが楠軍に火をかけられてしまいます。楠正成が千早城でがんばっていることで倒幕気運が高まり、新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏が六波羅探題を攻め、鎌倉幕府が滅亡してしまいます。

太平記の舞台 楠木本城(上赤坂城)

上赤坂城
大阪府にある唯一の村・千早赤坂村の赤坂の方にある上赤坂城へ行ってきました。
鎌倉幕府が倒れる原因をつくった楠正成の戦いに登場するお城。出城が下赤坂城、拠点となる本城が上赤坂城、詰城が千早城でした。晴天のゴールデンウィーク、まさか、こんな山城へ来ている観光客はいないと思ったら、いてました。(笑)山城入口に小さな駐車場があるんですが1台留まっています。こちとら暑い中、バス亭から歩いてきたのに。
さて城に入ると堀底道がずっと続きます。神戸の滝川城や高取城と同じ感じですね。一の木戸跡から四の木戸跡まであるんですが、どう考えても上から狙われる構造になっています。鎌倉幕府軍が攻めるのはさぞ、大変だったでしょう。
四の木戸を過ぎると土橋になっています。堀切も見えていて、これが鎌倉時代の城?えらく技巧的だなと思ったら、戦国時代も使われていて改変されているようです。ようやく一番上の本郭にたどりつくとアベックがおりました。駐車場の車の主のようです。デートで山城に登るとは、さすがですなあ。(笑)本郭からの眺めはよく、北摂から神戸の方まで見渡せます。こりゃ、幕府軍の動きもよく分かります。
本郭の周りには広い帯郭がありました。二の丸と書いてある方にも登ってみましたが、こっちには小さな帯郭がいくつも築かれ、堅牢な城に仕上がっていました。上赤坂城は楠正成の死後、正成の三男である楠正儀らが籠城し、落城しました。この時に焼けた建物跡などが発掘調査で出てきたそうです。金剛山の尾根上にあるので、落城しそうになったら、金剛山方面に逃げることができる造りになっています。

楠正成の阪本城(小倉山公園)

阪本城
昨日、八宮神社へ行ったついでに坂を登ったところにある大倉山公園へ行ってきました。
明治時代に大倉財閥を作った大倉喜八郎の別荘があり、後に神戸市に寄贈されたので大倉山公園という名前になっています。今は神戸市中央図書館や野球場があります。
大倉喜八郎は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館や帝国ホテルを作り、他にもいろいろな会社を設立していますが、大倉火災海上保険が今の「あいおいニッセイ同和損害保険」になっています。
この大倉山公園ですが、高台にあり、楠正成が造った阪本城跡と言われています。九州から攻め上ってくる足利尊氏に備えるために造ったそうなんですが、詳しいことは分かりません。実際に坂を上がってみると、山城の郭のような部分がけっこうあり、十分に攻城戦ができそうです。
徳川光圀が正成の墓に碑を建て、後に湊川神社となったところは坂を降りたすぐの所にありますが、すぐ近くに攻城戦ができる丘があるので湊川の戦いは大倉山公園で行われたのでしょう。太平記の映画やドラマで、海岸沿いで足利軍と楠軍が戦うシーンが出てきますが、湊川神社近くが戦いの舞台なら、城攻めだったんでしょうね。
戦国時代、荒木村重が織田信長を裏切った時、荒木村重の花隈城を攻めるため、信長側の池田信輝が砦を構えた場所でもあります。今は何も残っていません。

楠正行の神感寺城

神感寺城
天気もよいから、前から行きたかった神感寺城跡に行こうと、まずはネットで神感寺を検索。奈良と大阪を結ぶ暗峠から行けることを確かめて家を出発。
枚岡公園から暗峠を目指しますが、せっかくだからハイキングコースを行こうと思ったのがウンのツキ。歩いていると、いかにも土塁が続いていて虎口(城の入口)のような所を発見。こりゃ、見つかっていない城跡ではないかなと藪の中へ(笑)。日本には、まだまだ見つかっていない山城跡がかなりありますので、見つけるチャンスはあなたにもあります!
藪の中を進むと空堀跡と土塁を発見。ところが空堀と思う所がグニャグニャ曲がっています。どうも違うな~あ。昔の山道跡のようでした。気を取り直して暗峠を目指しますが、途中で道を間違えてしまい、結局は標高642mの生駒山頂へ。山頂から尾根伝いに150mほど降りて、暗峠へ。150mも、余計に登ってしまいました。
暗峠から山道に入って神感寺へ。今も小さな寺はありますが、もともとは山岳寺院の神感寺があり、発掘では東西200m,南北250mに大伽藍があったことが確かめられています。神感寺は奈良時代末に創建され、鎌倉時代に大いに栄えます。
南北朝時代には楠木正行が城塞化し、神感寺城になっていました。眺めがよいので見張り用だったのでしょう。四条畷の戦いでは北朝方の佐々木道誉軍に攻められ焼失してしまいます。佐々木道誉と言えば婆沙羅大名で有名ですね。山門近くの藪の中に入り込んでみると、平坦地などが残っていましたが、明確な城跡はありませんでした。