住宅街に土塁が残る高屋城(古市)

takaya_201311.jpg阿倍野で仕事でしたので、阿部野橋駅から近鉄南大阪線で古市駅へ。阿倍野橋駅の横にあるのがアベノハルカスです。 

古市駅から少し歩いたところにあるのが安閑天皇陵。この古墳が戦国時代は高屋城の本丸でした。高屋城はもともと応仁の乱後に畠山義就が築いた城です。古市は河内長野から高野山へ抜ける道、穴虫峠から奈良へ抜ける道の接点でもあり、交通の要所でしたから30回以上も城主が入れ替わっている城です。 

奈良から大阪へ大勢の軍隊が入ろうとすると生駒山脈が連なっていますので、北の枚方方面から入るか南の穴虫峠からしか入れません。ですので壬申の乱では近江軍と大海人皇子軍との戦いや大坂夏の陣では後藤又兵衛が敗れた戦いなどが行われました。最後は織田信長に攻められて落城し、廃城になりました。 

城跡ですが天皇陵以外はすっかり住宅地になっています。本丸以外に二の丸、三の丸がありましたが、こちらも住宅地。ただ地名は城山になっています。不動坂という近鉄の踏切があるところがありますが、ここだけは土塁が残っていました。写真の左手は5メートルほど。右手はほとんど残っていませんでしたが、こっちは10メートル以上の土塁でした。ここに不動坂門があり、信長にこの門を突破されて落城してしまいました。 

踏切近くで写真を撮っていたら、ドライバーが怪訝な顔をして見ておりました(笑)まあ単なる土の山ですからねえ。 

信長が清洲城から小牧城に移った理由

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    名古屋駅前にあるウィンク愛知の会議室で愛知県のマネージャーが集まっての会議。 

    最初は支援事例紹介ということで中小企業基盤整備機構、名古屋市新事業支援センター、豊橋科学技術大学、あいち産業振興機構の順番で発表。休憩をはさんで中部経済産業局から来年度に要求している概算予算と事業の説明。名古屋市新事業支援センターの事例発表を担当しておりました。 

    会議室はウィンク愛知、最上階の18階。ここの窓は床まであるので高所恐怖症にとっては、足がすくみます。 

    その代り眺めはいいですねえ。町のずっと先に見えるのは岐阜の山々。そのうちの一つが金華山があり、山の上には岐阜城(稲葉山城)があります。金華山は山脈から少し離れて前面に出た形になっており、岐阜城からは濃尾平野が一望。信長が天下布武を唱え出したのも岐山になぞらえた金華山から壮大な風景を見たからでしょう。 

    そんな濃尾平野に一カ所だけ小山があります。ウィンク愛知の18階から見ると平野にちょこんと島がある感じで、これが小牧山。他にはありません。信長が平城だった清州城から、より稲葉山城に近い場所に移るとなると小牧山しかありません。18階の高さから見ると、城を移した理由がよく分かります。

織田信雄が伊賀攻めの拠点にしようとした丸山城

maruyam201311.jpg近鉄・伊賀神戸駅から北上する伊賀鉄道に乗ると3つ目の駅が丸山駅。駅のすぐ近くにこんもりとした山があり、ここが丸山城跡。 

信長が伊勢国司だった北畠を攻め、むりやり織田信雄を北畠に養子に送り込み伊勢を支配しました。織田信雄は映画・清州会議では妻夫木聡が演じていたバカ殿です。 

丸山城はもともと北畠が城を作っていましたが、伊勢の次に伊賀を領国にしようと家臣である滝川雄利に命じて、大幅修正します。天守まである大きな城でした。 

驚いたのが伊賀の郷士達。城が完成するまでに攻めようと総攻撃を開始。不意を突かれた滝川雄利は伊勢へ逃げ帰ります。翌年、織田信雄は軍を伊賀へ進めますが、敗退してしまいます。第一次天正伊賀の乱です。 

敗戦を知った信長は激怒。勝手に軍を動かして、しかも敗退するとは親子の縁を切るとまで言われています。織田信雄がバカ殿と言われるゆえんの一つになっています。ですが京都に近い伊賀をそのままにするわけにもいかず、信長は伊賀の殲滅戦を行います。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀は焦土になりました。 

丸山城は曲輪跡もよく残っていて、天守のあった所には丸山城の碑が建っています。石垣もあったのですが伊賀鉄道を通すときに持ち運ばれたそうです。道も割と整備されて山城にしては歩きやすいのですが、蜘蛛の巣だらけなのが難点。 

新神戸駅裏にある戦国時代のお城

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    新幹線・新神戸駅のすぐ裏、というか駅から5メートルぐらいの所に布引の滝を行くハイキングコースがあります。こっちへ向かわずに左手に山を登るコースがあり、これを登ると滝山城へ向かうコース。坂を登りはじめると、すぐ下に新神戸駅が見えます。 

    滝山城が登場するのは、鎌倉幕府滅亡となる建武の親政の頃。また戦国時代は三好長慶の拠点となりました。三好長慶の死後は三好三人衆と松永久秀の間が険悪となり、松永久秀方の滝山城を攻めて落城させました。荒木村重の謀反の時は神戸の花隈城を攻める織田川の拠点になったようで、城主もめまぐるしく変わっていたようです。 

    大都会・神戸のすぐ裏に30以上の曲輪群、堀切、土塁など戦国時代の遺構が残っているのは奇跡ですね。坂を登りはじめてすぐの所にも郭跡があり、なかなか楽しめます。すぐ上を神戸布引ロープウェイのゴンドラがすぎていきますが、まさか下に戦国時代の城が拡がっているとは知らないでしょう。 

    250mほど山道をえっちら登りますが、この山道が昔の大手道になっています。戦国時代の大手道なので幅は1メートルもなく、ふつうの山道となんら変わりません。ハイキングコースになっていますので何名かのハイカーと会いましたが、城だけを目的に登っている酔狂な人物はいませんでした(笑) 

    本丸近くの堀切などの写真を撮っていると「何、しているんですか?」とハイカーから声をかけられました。単なる窪みを一生懸命、写真を撮っているヘンなおっさんと思われたようですねえ(笑)

片道40分、こんな通勤はいやだ(高取城)

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    月曜日、日本三大山城の一つ高取城へ登ってきました。 

    高松塚古墳、石舞台、飛鳥浄御原宮など古代史を彩る飛鳥の隣に城下町土佐町があり、土佐街道が走っています。なんで土佐という地名がついているかというと6世紀頃、大和朝廷の労役で土佐の国から呼び出されましたが、帰郷費用を出してくれるようなことはなく、労役が終わってもそのまま住み着いて土佐町となったそうです。ひどい話ですなあ。 

    土佐街道から上り坂になっていて、標高583.8メートルの山頂に向かって延々3キロの大手道が続きます。ひたすら山登りをすると大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城があらわれます。申し訳程度の石垣しかない山城や土塁だけの山城と違い、平地の城と同じような規模の城。よく山頂まで大量の石を上げて、あんな壮大な石垣を作りあげましたなあ。国見櫓からは生駒、葛城金剛山から飛鳥、奈良が一望でき、大和で軍勢が動けば丸わかりです。 

    江戸時代の城主は家康の旗本であった植村氏ですが、山上の生活は不便なため藩主や家臣の屋敷は土佐町に作られ、城下町が形成されていきます。とはいえお城は山の上なので、えっちらおっちら大手道(単なる山道)を登らなければなりません。 

    片道40分ほどかかりますが、いやになるぐらいの上り坂。家臣や物資を運ぶ人は大変だったでしょうね。毎日の上り下り通勤は大変だったので、平日は山上に単身赴任し、週末は土佐町に下りる生活だったかもしれません。体力をつけたい人にはうってつけの勤務ですが、雨の日は大手道が濁流になりますので、つらいだろうなあ。 

    すごい縄張りの城を山上に作りあげ難攻不落の城でしたが、実戦で使われたのは1回だけ。幕末に天誅組の乱が起き、十津川郷士等1000名ほどが攻めてきましたが150名ほどで簡単に撃退してしまい、実力を発揮しました。

三木の干殺し 戦を土木に変える

miki201311.jpg豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。 

いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。 

神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。 

というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。 

戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと 

城巡りシーズン到来

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    いよいよ11月。暑い夏も終わり、ようやく城巡りのシーズンとなりました。 

    城といっても名古屋城や大阪城のような平城であれば季節は関係ないのですが、行こうと考えているのは戦国時代の城。日本にはたくさんの城があり、一説には全国に25,000~30,000の城があったと言われています。 

    江戸幕府による一国一城令の発布により各地で破城が行われました。破城とは城を崩し廃止することで城割ともいいますが、多くの大名は城にあった建物を壊し、また石垣や土塁の一部を壊してお茶をにごしました。江戸時代初期、まだまだ何が起きるか分からない時代です。いざという時に使えるように申し訳程度に城を壊しただけです。 

    ですので土塁や空堀がそのまま残っていることが多く、。田舎で城山とかいう地名がついている所には大概、城があります。破壊が進んだのは現代に入ってからでニュータウンやゴルフ場の建設で、戦国時代から残っていた貴重な城が破壊されてしまいました。津でも垂水城、渋見城などは跡形もありません。 

    そうは言いながら、まだまだ残っている城も多くありますが問題は城に行くには藪を掻き分けて道なき道を行かないといけないということ。とても夏場は城跡に入れません。ですので晩秋から冬が城巡りのベストシーズンになります。 

    写真は山城ではなく平城京近くにある平城・超昇寺城です。土塁と堀跡なんですが、こんな土と藪だらけの所へ行ってなにが面白いのかと人にはよく言われますが、「AKBのどこがいいの」とと五十歩百歩だと思っています。(笑)

生きている間に日の目を見ない修理記録

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    名古屋城では本丸御殿の公開が始まっていますが、歴代の修理記録が展示されています。 

    前に修理した大工さんらが、どこをどういう具合に修理したかを記録したもので修理した壁の中などに埋め込まれています。つまり記録は次に修理が行われる時にしか日の目をみません。後に続く人たちのために残すために書かれます。連綿と続く職人の世界ですね。 

    修理した内容や関わった大工などの名前が書かれています。墨書で書かれていて、例えば宝永7年(1710)の修理では瓦の葺き替えが行われたことなどが分かります。 

    なかにはユニークな墨書もあり、展示されていたのは昭和の時代に行われた修理記録。似顔絵が描かれています。佐藤栄作首相時代のようですので、まだ存命の方もいるでしょうな。まさか落書きが展示されるとは思っていなかったでしょう。

松江城

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せっかく出雲まで行ったので荒神谷遺跡まで足をのばそうという話があったのですが出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館へ行ったら、荒神谷遺跡の鉄剣がずらっと壁一面に並んでいました。おまけに加茂岩倉遺跡の銅鐸も勢揃い。こりゃ、現地まで行かなくてもいいなとなったので行先を松江に変更。
まずは定番の松江城へ。昔、三重県中小企業診断協会の旅行で松江へ行ったのですが時間の都合で城が見られなく、そのリベンジです。もっともAll Aboutのガイド記事「戦国武将とシステム作り」シリーズのイメージ写真になりそうな所ばかり撮っていました。

名古屋城 本丸御殿

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    午前中、時間があったので名古屋城・本丸御殿へ行ってきました。公開がはじまっています。本丸御殿は昭和まで残っていたんですが空襲で天守閣と共に焼けてしましました。 

    復元が始まったのですが御殿の全部ができあがったわけではなく玄関と表書院の部分公開。第2期は対面所、第3期は上洛殿ができ、全て公開されるのは平成30年になります。 

    部分公開と言いながら、中は広いですね。総檜(ひのき)造りで、できたばかりですから廊下もピカピカ。玄関や書院には狩野派の絵師により描かれた障壁画が復元されていて、なかなか華やかです。竹に虎の構図やら、こりゃ猫かなと思ったら麝香猫(じゃこうねこ)の画もありました。 

    名古屋城内では「おもてなし武将隊」の前田慶次と兵卒の踊舞(とうま)が城内を歩いていました。名古屋は秋だというのに残暑が厳しく、この暑い中をなんぼ軽量とはいえ甲冑をつけて歩くのは「ゆるきゃら」並みに大変でしょうねえ。