廣徳寺(尼崎)

城下町には大概、寺町があります。

廣徳寺
廣徳寺

京都の寺町通りは秀吉が京都の大改造をした時に80以上の寺院を集めた名残です。寺院は兵が駐屯できる土地と塀があるので寺をずらっと並べると防備するのに最適でした。伊賀上野の寺町通りなど各地にあります。大坂では江戸時代に上町台地に四天王寺にかけて寺町が作られました。

尼崎にも戸田氏鉄が尼崎城築城時に寺院ばかりを集めて作った寺町があり阪神・尼崎駅を電車が出ると南側にずらっと並んだ寺を見ることができます。この寺町にあるのが廣徳寺、もともとは大物にありましたが寺町を作る時に移されました。

廣徳寺が大物にあった時、大物崩れで負けた管領・細川高国は敵対した細川晴元と三好元長にこの寺で自害に追い込まれます。秀吉が中国大返しで山崎に行く途中に立ち寄って休息した寺とも言われています。

船弁慶

大物を舞台にしたのが能の船弁慶。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛が登場する能です。この能を題材にした上方落語もあります。今では埋め立てられて信じられませんが大物浦は西国への船の表玄関でした。

義経・弁慶
義経・弁慶

■船弁慶
頼朝と不和になり義経は都落ちを決意して弁慶以下十余人で摂津の大物浦に着きます。ここで静御前を都に返すことになり、静御前は同行をあきらめて離れます。さて大物浦から船出すると、外海は大荒れに。そこへ平知盛の幽霊があらわれますが弁慶が数珠で祈ることで鎮めます。

■実際は
実際のところは頼朝と敵対した義経は九州で再起しようと大物浦から船出しましたが、途中暴風のために摂津に押し戻されてしまいます。これで再起は無理となり、吉野に逃げ込みますが静御前が捕らえられ、最後は奥州・平泉を目指します。当時の大物浦は大物主神社のすぐ近くまでが海になっていて義経主従は神社横にあった宿屋に逗留していたと伝わっています。。

大物崩れ

阪神尼崎駅の一つ手前にあるのが大物。「だいもつ」とよみます。戦国時代、ここで起きたのが大物崩れ。

大物
大物

赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦です。大河ドラマ「軍師官兵衛」で浦上氏に嫁いだおたつ(南沢奈央)が、婚礼の夜に赤松氏に襲われるシーンが出てきますが、もともとは守護代だった浦上村宗が守護の赤松氏を凌ぐ力を持ち、播磨国で争いになっていたことが原因です。

また細川家も分裂していて細川晴元と細川高国が争っていました。三好元長は細川晴元に仕えており従っていましたが、大物崩れの後に主君と対立することになります。ちなみに信長の前に天下人となる三好長慶のお父さんです。

戦いは膠着状態でしたが戦局が崩れ、浦上村宗は討死、細川高国は尼崎で自害させられます。

映画「繕い裁つ人」の舞台

平賀邸
先日、能勢にある山下城へ行く途中に見つけたのが川西市郷土館。山下城の資料でもないかなと入館しましたが、中は鉱山資料がメインでした。
能勢って鉱山が多かったんですね。銀銅山があり、昭和初期まで操業していました。銅の製錬を業としていた旧平安家住宅を中心に展示されていて、製錬ででてきたカスを捨てた谷などがありました。そんな郷土館の一角にあったのが旧平賀家住宅というなかなかお洒落な洋館。
中谷美紀さん主演の映画「繕い裁つ人」で、市江(中谷美紀)の祖母が始め市江が引き継いだ洋裁店として使われたそうです。ウーン、映画見ていないなあ。連続テレビ小説「マッサン」では、大阪編で登場し、政春とエリーが入居を断られた洋館としても使われたそうで、室内に撮影の様子などが展示されていました。

西求女塚古墳

西求女塚古墳
ひょうご産業活性化センターの窓口相談が終わってから阪神電車で三宮駅から3つ目の西灘駅へ。駅のすぐ近くにあるのが西求女塚古墳です。
この古墳と処女塚古墳(おとめづかこふん)、東求女塚古墳の3つの古墳が大体、等間隔で並んでいるので、大昔に日本版ロミオとジュリエットの物語が作られました。
美しい乙女を巡って2人の若者が争い、それを嘆いて死んだ乙女を追って、2人の若者も亡くなってしまうというストーリで、真ん中が乙女を葬った処女塚古墳。等間隔で離れた2つの古墳が若者のもので、それぞれ東求女塚古墳と西求女塚古墳。そんなバカなことはないんですが、万葉集にも歌われています。
この西求女塚古墳ですが最初に発掘された時、古墳内部がグチャグチャだったので盗掘で荒らされたと考えられていましたが、秀吉の伏見城が倒れた、慶長伏見地震による地滑りで石室が移動して崩壊していたことが判明。その石室から発見されたのが邪馬台国の「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡7枚。
古墳時代前期の前方後方墳で、全長98メートルを超える長さがあります。前方後方墳なのでヤマト朝廷とは距離をおいた地方の豪族の墓でしょう。今では住宅地の中にある公園になっています。

神戸でダイエーの看板がなくなる

ダイエー三宮店
朝、阪神三宮駅を降りて、ひょうご産業活性化センターに向かうと、いつもは閑散としているダイエーのバックヤードにトラックが一杯。しばらく前から地下の食品売場と地上3階までをリニューアル工事していましたが、終わったようで今日が再オープン初日でした。トラックは商品の運び入れのようです。
お昼休みに7階のジュンク堂へ行くついでに覗いてきましたがダイエーの看板が消えていました。イオン完全子会社化となりダイエーブランドの廃止が決まっていましたが、創業の地である神戸でも、ついにダイエーの看板がなくなったんですね。
1957年ですから私が生まれる前に神戸で創業したのがダイエー。最初は製薬事業でスタートしましたがすぐに撤退。同じ年に1号店である「主婦の店・大栄(ダイエー)薬局店」を大阪の千林商店街でスタートし、小売りをはじめます。三宮店ができたのが翌年の1958年で、これがチェーン化第1号店。ここからメーカーの圧力にも屈せずに価格破壊スーパーを展開し、大躍進をします。
現在のダイエー三宮店ができたのは1990年で、当初はプランタン神戸パート2という名前でした。阪神・淡路大震災も乗り越えてきたダイエーですが、ダイエーの看板がなくなると感慨深いものがありますね。ダイエーを完全子会社化したイオン(岡田屋)は創業の地である四日市駅前から早々と撤退してしまいました。

阪神を応援する尼崎商店街

尼崎商店街
尼崎で専門家派遣のお仕事。阪神タイガースを応援する商店街として有名な尼崎商店街に寄ってきました。
セ・リーグが開幕した途端に、阪神タイガースのマジックが点灯する商店街でも有名です。今年はなぜか阪神が首位を走っているので、ひょっとすると優勝してしまうかも。
大学を出て、就職してしばらくたった1985年。この年は21年振りの優勝で、大阪中が盛り上がりました。道頓堀から飛び込んだり、あげくのはてにカーネル・サンダースの人形まで投げ入れてしまい、その後の阪神の低迷はカーネル・サンダースの呪いだと言われていました。
当時は上新庄に住んでいたんですが、毎夜、住宅街を六甲おろし演奏しながら歩く一団がいて、「かんべんしてくれ!こちらはシステム開発でろくに寝てないんだ!」と布団をかぶって、ひたすら耐えておりました。もっとも店主が阪神ファンの飲み屋へ行くと、21年振りの優勝ということで、ビールが21円だったので、この時だけは店で六甲おろしを歌いながら飲んでました。(笑)

神戸サンパルと「なでしこジャパン」との関係

サンパル
サンパル6階にある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談。
朝、エレベータに乗ろうとサンパル1階に入ると、フロアーにずらっとイスが並べられ、テレビのインタビューを受けている人がいました。「なんだ、なんだ、この騒動は!」と思ったら、イングランド戦を戦う「なでしこジャパン」の試合観戦のようです。サンパルと「なでしこジャパン」がどう関係するのかなと思ったら、サンパル近くがINAC神戸レオネッサ発祥の地なんだそうです。
INAC神戸レオネッサから「なでしこジャパン」には7名の代表選手が出ています。このINAC神戸の応援会長を務めるのがサンパルにある文具店店主。文具店というと1階の富士商会・店主ですかねえ。なんでもINAC神戸・創世記の事務所が、サンパル近くにあり、選手もよくサンパルに買物に来ていたそうです。その当時から応援していた歴史があるので長いですね。
港町神戸には明治初期、いち早く欧米からサッカーが伝わったこともあり、日本最初の女子チームが誕生したのが神戸。1981年、女子サッカーで国内初の国際試合(今回と同じ日本対イングランド戦)が開催されていたのも神戸なんだそうです。へ~え、サンパルは日本女子サッカーと深い縁があったんですねえ。

八宮巡りコンプリート

七宮神社
生田裔神八社で最後まで残った七宮神社。これで一宮神社から八宮神社まで完全制覇、八宮参りコンプリートです。とりあえず厄除けはこれで大丈夫。他によいことないかなあ。(笑)
七宮神社は兵庫港の近くにあり、阪神・阪急の新開地駅かJR神戸駅から少し歩いたところにあります。七宮神社の隣を阪神高速が走っていて交通量が多いところ。主祭神は大己貴命なんですが、他にも大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神と七つの名前のある神様ですので、それで七宮神社というそうです。へ~え。
平清盛が日宋貿易の拠点である大輪田泊を作り、この時に七宮神社の社殿を建てました。清盛が遷都した福原京も近くにあり、当時は大いに賑わったでしょう。大輪田泊は中世には兵庫津となり、信長に反乱を起こした荒木村重を破った池田恒興が兵庫津に城を造り、これが兵庫城となります。七宮神社のある兵庫津周辺が当時の繁華街でした。淡路出身の高田屋嘉兵衛が拠点をかまえたのも兵庫津です。
ところが幕末となり、兵庫津のお隣の神戸は寒村で土地もあったので、勝海舟が海軍操練所をつくり坂本龍馬や陸奥宗光が学びます。開国で神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、神戸が発展。三宮神社周辺が居留地となります。いまや神戸の中心地といえば三宮ですが、本来は七宮だったんですね。

五宮神社(神戸)

五宮神社
生田裔神八社の1社が五宮神社。
生田裔神八社とは生田神社を囲むように点在している八社で、せっせと八宮をまわっています。五宮神社は兵庫区五宮町にあるのですが、なかなかの高台。神戸駅、湊川駅からバスが出ていますので五宮町のバス停で降ります。
バス通りから、大きな車なら絶対に通れない細い道をせっせと登ると社がありますが、高台なので神戸の街が一望できます。
五宮神社の隣には祥福寺という禅寺があり、二重の塔があります。ここからは神戸のずっと西の方を見わたせます。祥福寺までは車で登れる道があり、宅配便は寺の駐車場にいれて、五宮神社周辺に宅配していました。坂の多い神戸では宅配業者も大変です。
この祥福寺には幕末、神戸警備のために来た長州藩兵、数百名がこの寺を基地に、兵庫、神戸を護衛したそうです。西宮警備を命じられた備前藩兵が三宮神社の前で隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させる神戸事件が発生した頃と同じ時期になります。