慶長天主堂跡

安倍晴明神社、近くにあるのが慶長時代の天主堂跡。

慶長天主堂跡
慶長天主堂跡

信長時代は鯉山や橋弁慶山がある鉾町に南蛮寺がありました。信長の家臣に弥助という黒人武士がいて、最後まで信長につき従います。本能寺の変で明智軍と戦った弥助は捕らえられますが、日本人でなかったため、南蛮寺に預けられます。イエズス会は弥助から本能寺の変などについて聞き、本国に報告しています。それ以降の弥助の消息は分かっていません。

信長のあと、秀吉が天下をとりましたが秀吉が伴天連追放令を出したことで南蛮寺は破壊されてしまいました。戦国時代、戦さの捕虜は人身売買されましたが、海外にもたくさん連れていかれたことが理由の一つにあったようです。

関ケ原の合戦後に家康の天下になると天主堂が復興され、これが慶長時代の天主堂になります。ところが家康の外交顧問だった英国人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が東インド会社の代理人でもあったことから布教ではなく貿易だけをしたいオランダとの貿易に傾斜。10年ほどでキリスト教が禁教となり天主堂も破壊されました。

事業再構築計画(安倍晴明)

事業再構築計画(安倍晴明)

テーマ:「泰山府君祭による寿命延長サービスの提供」

泰山府君祭
泰山府君祭

■事業内容:地獄にいる泰山府君(たいざいふくん 閻魔王の侍者で人のすべての寿命を記した帳簿を記録する担当者)に依頼して帳簿を書き換えてもらい、依頼した人物の寿命を延ばすサービスの提供

■新規性:病気にかかった時、従来、寺社仏閣に頼んで加持祈祷する神頼みしかなかった。新規事業では地獄にアクセスして根源である帳簿を改ざんができ今までにないサービスである。

■競合分析:競合となる芦屋道満や陰陽道の賀茂一族では同様のサービスを提供しておらず、市場にはない。

■市場性:貴族が求めるのは長寿、不老不死という根源的な願いであり、高価なサービスであっても市場性が高い。必要経費は祭壇、硯、筆などの備品で粗利も高い。

安倍晴明神社

一条戻り橋の近くにあるのが安倍晴明神社。そう、映画「陰陽師」の主人公として有名な安倍晴明です。屋敷跡に建てられ、一条戻り橋には式神を潜ませていたそうです。境内にあるのが晴明井で安倍晴明が念力により湧出させた井戸で、病気平癒のご利益があります。

晴明井
晴明井

安倍晴明の、はっきりした出生地は分かっていませんが、有力なのが大阪・阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅ちかくにある安倍晴明神社です。ひっそりとした神社でお参りする人はそう多くないですね。

福長神社

福長神社
福長神社

室町通りにある小さな社です。

福長神社ですが、もともとは宮中の神祇官西院に祀られていた神さまです。秀吉が聚楽第を作る時か壊す時に現在地に移ったとありますが、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」には現在の場所に福長神社が確認されるとあります。ということで洛中洛外図屏風をずっと見てみたのですが、どこにあるか分かりません。

洛中洛外図屏風は、もともと剣豪将軍として有名な足利義輝が狩野永徳に発注したものです。足利義輝は三好一党に殺されてしまったので、信長が上杉に”よいしょ”するために送ったものです。つまり室町幕府時代には室町通りに福長神社があったことになります。今は小さな通りですが室町通りといえば幕府に面したメインストリートでした。昔は大きな社でしたが火事で焼失してしまい、今は小さな祠がある神社になっています。

カンブリ

関西文理学院
関西文理学院

大学受験が華やかな頃、京都にあったのがカンブリ(関西文理学院)という地元の予備校です。本部の建物がまだ健在でした。

かって京都人文学園という民間教育運動がありました。スタートしたのは第二次世界大戦直後の1946年です。

■京都人文学園
一般教養を中心に自由な校風だったようです。「行動する思考人」の育成を目指していました。生徒が自治して、男女共学、無試験、無規則で革新的な教育を行っていたそうです。自由学園とも関係があり、旧制高校みたいな雰囲気ですかねえ。ただ学園を続けるのは大変だったようで1950年に閉校になりました。

■関西文理学院
ただ働いていた青年たちが教育理念を受け継いで夜間部を発足させ、これが社団法人京都勤労者学園となります。また赤字を解消するために1951年に予備校を創設。これが関西文理学院へと続きます。

京都人文学園の初代学園長は新村猛で、あの広辞苑を作った人物です。学園本部に当時の資料がいくつかあり、新村猛の自筆を見た時は感激しましたねえ。あの資料は長浜バイオ大学に引き継がれているのでしょう。

バイオカレッジ京都(立命館・広小路キャンパス)

バイオカレッジ京都
バイオカレッジ京都

関西文理情報会計専門学校から少し南にあったのがバイオカレッジ京都。現在は長浜バイオ大学・京都学舎になっています。

もともとは関西文理学院・広小路校という予備校があったのですが、浪人する学生が減ったこともあり鞍馬口校に集約し、宝バイオと提携して作ったのがバイオカレッジ京都です。今は長浜バイオ大学になっています。

■「二十歳の原点」の舞台
もっと遡ると立命館大学・広小路キャンパスがあった場所で、たぶん学生会館でした。広小路キャンパスには法学部、文学部、産業社会学部があり、学生運動、華やかりし頃で高野悦子「二十歳の原点」の舞台です。

と言っても古い本なので知らない人も多いでしょう。勤めていた学園の上司が高野悦子の同級生だったという話を聞いたことがあります。出町の「ほんやら洞」や荒神口の「しあんくれーる」も無くなってしまいましたね。

関西文理情報会計専門学校

独立する前に勤めていたのが関西文理情報会計専門学校。今はなくなってしまい跡地は帝国データバンクになっています。河原町今出川を少し下ったところで出町輸入食品の近くです。

コンピュータと簿記を教える専門学校で、当時は情報処理技術者試験・第2種と第1種合格を目指すコースでした。言語はCOBOLやC言語などで汎用機での実習もやっていましたね。途中で京都国際ビジネスカレッジという名前になり最後はビジネスカレッジ京都という校名でした。

昼からの授業に出てこない学生を近くのパチンコ屋に見に行くこともありましたね。「先生、フィーバーしちゃって、やめられません!」「お前な~あ。」

10年ほど勤め、後先考えずに独立してしまいました(笑)。

森山遺跡

JR長池駅から住宅街の階段を登って高台に出ると公園があります。ここが縄文時代、弥生時代、古墳時代へと続く森山遺跡です。宅地造成で見つかった遺跡です。木津川を臨む高台ですので物流の拠点でした。竪穴住居などの集落跡が見つかっていますが、面白いのが古墳時代の初頭です。

森山遺跡
森山遺跡

東西40メートル、南北32メートルの方形台状に盛土し、その周囲に幅4メートル、深さ1.5メートルの溝を巡らした遺構が見つかりました。この土地を支配した首長の居館跡のようですが、堀を巡らした郭でまさに城郭の初期の形になっています。

三月書房 閉店

日経新聞・朝刊の「交遊抄」(私の履歴書の下)を読んでいてビックリ!三月書房が6/10に閉店していたんですね。それがオシャレな閉店で顛末が掲載されていました。

三月書房は寺町御池を上がったところにある小さな新刊書店です。見た目は古本屋さんなので、よく間違って入る人がいます。私もウン十年前に古本屋だと思って入りました(笑)。

小さな本屋なんですが、店主が特定ジャンルの本を集めていて、ジャンルにはまっている人が三月書房に入ると、たくさんの本を買わざるをえないアリ地獄のような本屋さんです。初めて入った時、10冊ぐらい買って店を出た途端に重さに気がつき、すごすごと下宿まで持って帰った思い出があります。

三月書房のすぐ近くにあった八百卯は梶井基次郎の小説「檸檬」に登場する名店でしたが、こちらもだいぶ前に閉店しました。寺町通りを歩く楽しみが減ってしまいました。

王将・出町店 閉店

京都で専門学校の教員をしていた頃、出町商店街が近くで時たま行っていたのが王将・出町店。小さな店なんですがチャーハンがおいしかったですね。

近くに京大、同志社、府立医科大学があるため、店頭には「飯代のない人 お腹いっぱい ただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。」と張り紙がしてありました。人情味のあふれるお店でした。そういえば京産大学生が多い王将・御園橋店も同じようなシステムでしたね。

長年、店を切り盛りしていた店主が70歳を超えたこともあり、10月末で閉店が決まったそうでネットでは惜しむ声があがっています。知らなかったのですが、この皿洗いのエピソードが「取締役 島耕作」に出てくるそうです。

「ほんやら堂」もなくなったし、昔、行っていたお店がなくなるのは寂しいですなあ。