銅閣

銅閣
銅閣

金閣、銀閣が有名ですが京都には銅閣もあります。

東山に大雲院があり、ここに銅閣があります。建てたのは大倉財閥の設立者である大倉喜八郎で、渋沢栄一らと鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した実業家です。大倉財閥というとホテルオークラや札幌の大倉山スキー場などがあります。

出来たのは昭和3年で3階建てになっています。屋根は銅板葺きで祇園祭の鉾を模した形をしています。

八坂の塔

八坂の塔
八坂の塔

八坂の塔。正式には法観寺の五重塔です。

戦国時代、上洛すると八坂の塔に定紋入りの旗を掲げて誰が京都を支配するか現す習わしがありました。これが「都に旗をたてる」です。

豊臣秀次もやっています。
93歳の時に関ケ原合戦の大垣城攻めにも加わった生涯現役の武士・大島光義という人物がおり、弓の名手でした。豊臣秀次に仕えた時、秀次は都の主が代わったことを示すため八坂の塔に旗を掲げ、それだけでなく八坂の塔の窓に、矢を放つよう家臣に命じました。皆が失敗を恐れて尻込みする中、当時、84歳だった大島光義が名乗り出て、一町以上離れた五重の窓に10矢全てを射込んで喝采を浴びます。

弓という一芸を磨き、どんな時代でも生き残ることができることを示した大島光義は97歳で亡くなります。

冥府への入口があった小野篁旧宅

小野篁旧宅
小野篁旧宅

六波羅探題の近くにあるのが六道珍皇寺で、小野篁の旧宅があった所です。そう閻魔大王の裁判の補佐をしていた人物です。

昼間は朝廷で官吏をしていますが、夜になると庭の井戸から冥府に入り、閻魔大王に仕え、帰りは嵯峨の井戸から出てきました。本堂背後の庭に、小野篁が冥土へ通うのに使ったという井戸が残っています。

小野篁は小野妹子の子孫で実在した公卿ですが、いろいろな書物に不思議な話が伝わっています。もともとは母親が亡くなった時、親孝行だった小野篁は、母に会うために冥土に通い始めます。苦しむ母をなんとか救おうとして閻魔大王に直談判したのが始まりでした。やがて命を落とした人間を裁こうとする閻魔大王に、その人間を弁護し、とりなすようになります。

小野篁の上司である藤原良相が他界した時にも、裁こうとした閻魔大王に、小野篁がなんとか助けてやってもらえるようにと掛け合ったことで、藤原良相は蘇生できた話が伝わっています。

六波羅探題

六波羅探題
六波羅探題

鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題は旧平清盛邸の跡地に建てられ現在は東山開晴館になっています。写真は当時からあった六波羅蜜寺で東山開晴館はこの北側にあります。

足利尊氏の所領が丹波国篠村(京都府亀岡市)にあり、船上山に立て籠もる後醍醐天皇を攻撃するために山陰道を進みますが、既に討幕を考えていました。篠村八幡宮に北条氏打倒の願文を奉納し、Uターンして六波羅探題への総攻撃を開始します。明智光秀も”本能寺の変”の前に足利尊氏の故事に従って篠村八幡宮で戦勝祈願しましたので「麒麟がくる」でもシーンに出てくるでしょう。

室町幕府は幕府機能が京都にあったので出先機関はなし、江戸幕府では京都所司代が置かれました。

京都の大仏

方広寺 大仏殿跡
方広寺 大仏殿跡

見た目は単なる丘ですが、奈良の大仏よりも大きな大仏があったところです。

造ったのは秀吉で三好三人衆と松永久秀の戦いで奈良の大仏が焼けて破損したこともあり、奈良より大きい6丈3尺(約19m)の大仏と大仏殿を造りました。五条大橋を六条坊門に移して、大仏への参詣道とし、これが今も残る正面通りです。

ところが翌年に起きた慶長伏見地震で大仏が倒壊してしまい、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に怒り心頭。大仏を再建することなく秀吉が亡くなってから秀頼が大仏を完成させます。大坂の陣の後も大仏は残っていましたが、寛文2(1662)年の地震で大破してしまいます。

大坂の陣の原因となった梵鐘

方広寺
方広寺

大坂の陣のきっかけになった一つが方広寺の梵鐘に刻まれた文字。

秀吉が建立した方広寺は慶長伏見地震で倒壊してしまい、秀頼が再建しました。新たに梵鐘が鋳造されましたが、問題となったのは鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文字。写真の白く囲まれた文字です。この文について家康は「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だといちゃもんをつけます。これが有名な方広寺鐘銘事件です。最近ではいちゃもんではなく、武士の名前を分けるのは無神経という説も出ています。

文を書いたのは禅僧文英清韓で南禅寺の長老でした。糾弾されて蟄居することになります。大阪冬の陣が終わった後、清韓と鐘を製作した鋳物師辻家を高虎の領地である津に迎えて保護したという後日談があります。2人のお墓は津の上宮寺にあります。

狸谷山不動院

狸谷山不動院
狸谷山不動院

詩仙堂から坂をひたすら登っていくと狸谷山不動院の入口があり、ここから250段の階段が待っています。50段ごとに狸の置物が置かれて、あと何段あるかを明示しています。えっちらおっちら登ると、ようやく狸谷山不動院へ。京都の街が一望できます。

ここには滝があり、剣豪・宮本武蔵が滝行をしたと伝わっています。本堂は懸造りになっています。懸造りとは清水の舞台で有名ですが、崖などの上に建物を長い柱と貫で固定し,床下を支える建築方法です。

秀吉時代の大坂城では千畳敷がこの懸造りで造られていました。大坂城天守閣の模型で見ることができますが当時の人は驚いたでしょうね。伊達政宗時代の青葉城(仙台城)にも大きな懸造りがありました。

一乗寺下り松

一乗寺下り松
一乗寺下り松

一乗寺のあたりには平安中期から南北朝にかけ一乗寺という天台宗の寺がありました。1335年、南北朝の戦乱で、北朝方の細側軍が一帯に火を放ち、一乗寺も焼失します。その後、再建されず廃絶し、地名として残りました。

一乗寺で有名なのが一乗寺下り松。剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行ったという場所です。坂を登ったところに八大神社があり、立ち寄った武蔵は参拝しようとしましたが、「我神仏を尊んで神仏を恃まず」と意を決して神社に祈ることなく決闘の場に向かいます。吉川英治の「宮本武蔵」でも名場面として出てきます。

もっとも町道場である吉岡道場が実際にあったのは堀川一条だったので、下り松の決闘は一乗寺ではなく、一条だったという説があります。

詩仙堂

詩仙堂
詩仙堂

叡山電鉄・一乗寺駅からずっと東に坂を登っていくと詩仙堂があります。江戸時代の文人・石川丈山の山荘跡です。

石川丈山は家康に仕える三河譜代の武士で、大坂の陣などにも出陣していましたが抜け駆けがとがめられ浪人。紀州の浅野家家臣にもなりましたが、引退して東山に詩仙堂を建てて終の棲家にします。もっとも鷹が峰の本阿弥光悦らと共に、洛中の監視をしていたとの徳川幕府スパイ説もあります。

詩仙堂で有名なのが庭にある鹿威し(ししおどし)。コーンと庭に響く音がいいですねえ。

曼殊院門跡寺院

曼殊院門跡寺院
曼殊院門跡寺院

正月になると天皇陛下が伊勢神宮へ参拝しますが、この風習が始まったのは明治天皇からです。それ以前は、古代の持統天皇しか参拝しておらず、壬申の乱の頃になります。

明治政府の国造りで神道が重視され伊勢神宮へ参拝するようになりましたが、幕末まで歴代天皇が重視したのがお寺です。門跡寺院というのがあり、皇室、公家が出家して住職を務める寺院のことで、お寺のなかでも最高格の位置づけととなります。仁和寺に出家後の宇多法皇が入りましたが、絶大な権力をもっていましたので門跡寺院どころか御室御所と呼ばれるようになりました。

東山・一条寺にあるのが曼殊院という門跡寺院。書院や狩野探幽の障壁画などが、そのまま残っていて、特に枯山水の庭が見事です。曼殊院の横から一条寺城へ登ることができます。