元岩清水八幡宮

大安寺境内に元石清水八幡宮があります。大安寺の鎮守として建立されました。明治になるまで神仏習合でしたので神社と寺はセットでしたが廃仏毀釈となり、寺と神社の分離が進みますが大安寺では、そのまま残っています。

元岩清水八幡宮
元岩清水八幡宮

元岩清水八幡宮という名前は本家争いからきています。そもそも元石清水八幡宮は平安時代の僧侶である行教和尚が807年に宇佐八幡宮から勧請したものです。坂上田村麻呂が活躍し、最澄や空海が天台宗や真言宗を始めた頃になります。大安寺にあった石清水房に勧請したので石清水八幡宮となりました。

この後に京都の男山に勧請され石清水八幡宮ができたました。ところが行教和尚が宇佐八幡宮から男山へ直接、勧請したという説もあり、石清水八幡宮のホームページではこちらの説を採用しています。

■本家争い
1113年、興福寺が神輿を出して朝廷に圧力をかける時に、男山八幡宮は大安寺から勧請したんだから共に圧力をかけるのに参加するようにと呼びかけます。ところが男山衆は宇佐神宮から直接、勧請したので関係ないと返事します。

もともと男山に以前から石清水という名前があったとも主張するので、大安寺では元岩清水八幡宮というようになりました。こうなると饅頭などの本家争いと同じですねえ。

大安寺

南都七大寺、御存じですよね。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の七寺です。

大安寺
大安寺

■引越ばかりの大安寺
大安寺はとっても古い寺で創建は聖徳太子です。仏教修行の道場として平群郡額田部に作られた後、最初の遣唐使を送った舒明天皇の時代に百済川の畔に移転して百済大寺となりました。これが発掘で見つかった吉備池廃寺と言われています。この後に高市郡にまた移転して高市大寺となりましたが場所は分かっていません。はたまた674年に飛鳥に移転して大官大寺となります。九重塔が建つ大伽藍でした。

710年、藤原京から平城京への遷都にあわせて、またまた移転して大安寺になります。よく引越をする寺ですが、ようやくこの地に落ち着きました。大安寺は大きな伽藍で南には七重の東塔と西塔がそびえていました。戦乱などで衰微し今は最盛期の約1/25の境内になっています。

■普照
大安寺は総合大学のようなものでしたので、たくさんの僧が学んでいました。その一人が普照(ふしょう)です。聖武天皇の命で授戒できる高僧を求め興福寺の栄叡(ようえい)と共に唐へ渡ります。栄叡は唐で亡くなってしまいましたが、普照は鑑真和上を無事に日本へ連れてくることができました。苦労話が、井上靖の「天平の甍」に描かれています。

辰市神社

辰市神社のあたりに平城京の東市がありました。神社の少し東側に物資を運ぶための東堀川が流れていましたが、今は水田などになり影も形もありません。

辰市神社
辰市神社

辰市神社の祭神は武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬし)で、それぞれ鹿島神宮と香取神宮の神さんです。春日大社を造る時に関東から神様を勧請しますが、この時に神さんは白鹿に乗ってきました。ですので奈良の鹿は神鹿として大切に保護されています。

春日大社といえば藤原氏(中臣氏)の神さんですが、侍従の中臣氏が住居を神託によって占ったところ神木が西北の地に落ちたので、辰市周辺に住居をかまえ、祭ったのが今の辰市神社になるそうです。辰市神社の場所は奈良市杏町(からももちょう)で杏(あんず)は昔、「からもも(唐桃)」と呼ばれていました。もっとも「あんず」は宋の言葉のようです。

富本銭

西市近くの九条公園で1969年(昭和44年)に出土したのが富本銭です。その後も5枚ほど出土しましたが、決定的になったのが飛鳥池工房遺跡での発掘で、飛鳥で富本銭が鋳造していたことが分かりました。

富本銭
富本銭

それ以前は表面に文様がない無文銀銭が使われていましたが天武天皇が貨幣経済を目指すために銀銭ではなく銅銭を使うよう683年に詔が出します。そこで、和同開珎など皇朝十二銭と呼ばれる12種類の貨幣を鋳造されましたが、新しい貨幣が発行するたびに政権はデノミ政策を実施します。せっかくお金を貯めても価値が1/10になるので貨幣の信用がなくなり、やがて貨幣そのものが造られなくなります。

■キャッシュフローをまわしていたのは渡来銭
そこで中国から銭が輸入されます。推し進めたのが平清盛で宋で作られた銭の1割ほどが日本に入ってきたようです。江戸時代に慶長通宝や寛永通宝が国内でできるまでの400年間は宋銭のような渡来銭でキャッシュフローが回ります。

貨幣経済に着目していたのが織田信長で旗印は永楽通宝(永楽帝の時代に造られた銭)。戦後時代の武将は金勘定が分かっていないと戦ができませんでしたが江戸時代となり朱子学などの影響で「武士は食わねど高楊枝」となります。「晴天を衝け」で金勘定がわかる渋沢栄一が活躍するはずです。幕府にも人物がいて勘定奉行である小栗忠順が積極通商を推し進め明治の礎となった横須賀造船所を造ります。小栗忠順はあまりにもキレる人物だったため逼塞していたのに新政府軍が殺してしまいます。

平城京 西市

710年、藤原京から平城京に都が移されます。都には政府直営の東市と西市が作られます。

西市
西市

平安京では米、麦、油、塩、海藻、魚といった食料品。他にも繊維製品、衣類、食器、文房具、薬なども売られていました。太刀や弓などの武器も売られていて平城京でも同様だったのでしょう。

■長屋王商店ではホカ弁を売っていた
藤原四兄弟の陰謀で自刃させられた長屋王も市に店を出していて、弁当と酒を出品していたようです。お米がたくさんあったので付加価値があがるように邸宅内で酒や飯に加工していました。お米は笥に入れて売っていたようで、今でいうホカ弁ですね。荷物が多いと運搬もしていたようです。

祟道神社

神社検索にとっても便利な法人番号検索サイト!「崇道」と入力するとヒットするのな9件で奈良に4件あります。

祟道神社
祟道神社

ですが出てくるのは奈良市内の4社だけ、法人番号検索サイトに出てこない小さな社がけっこうあり、昔、御所を歩いていた時に崇道神社を見つけました。

崇道天皇とは天皇に即位していない早良親王のこと、非業の死を遂げて怨霊となったため崇道天皇と追称されました。映画「陰陽道」で安倍晴明と戦っていました。

早良親王の容疑は桓武天皇の命で長岡宮を造営していた藤原種継暗殺事件です。結局、桓武天皇は平安京に遷都しますが、遷都の理由の一つが奈良仏教界の影響力低下を狙ったこと。当時の仏教界はテロ組織みたいなものですから暗殺も不思議ではありません。早良親王は奈良仏教界とも近かったので、まったくのシロというわけでもなさそうです。ただし無実の罪で殺されて怨霊になったということで崇道神社や御霊神社として祀られることになります。

山口神社

杵築神社と奈良に多いのが山口神社で法人番号検索サイトで検索すると全国39件中15件を占め、2番目は鳥取で7件です。同様に多いのが水分神社でこちらは48件中、18件、御県神社にいたっては5件すべてが奈良です。

鴨山口神社
鴨山口神社

奈良平野を取り巻く形であるのが御県神社で、さらにそれを取り巻くように山口神社があり、さらに高地の分水嶺に配置されているのが水分神社で同心円状になっています。御県は「みあがた」と呼んで、天皇の食事に供える農作物を栽培した朝廷の直轄地になります。

伊勢神宮の式年遷宮の最初が山口祭で新社殿の用材を切り出すにあたって「山の口に坐す神」に祈るお祭りです。山口神社は山の神と関係しているのでしょう。奈良の神社は奥深いですねえ。

杵築神社

磯城郡川西町吐田にある杵築(きづき)神社です。300mほど離れた所から大和川の改修によって移転しました。

杵築神社
杵築神社

この杵築神社の祭神はスサノオノミコトで、なぜか奈良県にたくさんあります。今は便利なツールがあって国税庁法人番号公表サイトで「杵築神社」と入力して検索すると44件ヒットします。その中で奈良県内が半分以上の24、次に続くのは大分と岡山の3なんで奈良がダントツです。

■さてクイズです。

日本一有名な杵築神社と言えばどこでしょうか?

ピンポン!そうです。出雲大社です。

古代から杵築大社と呼ばれてきましたが、明治4年に出雲大社へと改称されました。この時に祭神もスサノオノミコトから大国主に変更になっています。もっとも平安時代ぐらいまでは大国主が祭神だったようです。杵築大社がある島根には津和野しか杵築神社が見つかりませんでした。

でもなんでスサノオノミコトを祀る杵築神社が奈良に多いのでしょうか?

梅原猛「神々の流竄」ではヤマタノオロチは「大和のオロチ」で三輪山の神さんだと論説していましたが、後年、出雲から大量の銅鐸、銅剣、銅矛が大量に見つかったことから、やはりヤマタノオロチは出雲だということになっています。

でも杵築神社がなんで奈良に多いんですかねえ。

奈良湖

山の辺の道
山の辺の道

GWだというのに、ずっと家に籠ってセミナー準備。早く寒くなって山城シーズンになんないかなあ

そうそう推古天皇の後を継いだ舒明天皇の不思議な歌が万葉集に載っています。天の香具山に登って国見をした時の歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ」というフレーズが出てきます。奈良に海原はないので香具山の麓にある埴安の池を歌ったのではというのが定説です。

でも天の香具山からカモメが飛ぶ海原が見えたらどうでしょうか。

■古代、奈良湖があった
奈良盆地、縄文時代の遺跡は微高地で見つかりますが盆地の中心にはありません。弥生時代になってようやく見つかるようになります。古代、奈良湖があり弥生時代に水位が下がってきたようです。日本で一番古い官道と言われる山の辺の道が山麓を巡っているのは、残っている湖や湿地帯を避けるためのようです。また蘇我氏や葛城氏など古代の豪族が盆地の周辺を本拠地にしていたのも同じ理屈でしょう。舒明天皇の時代にも奈良湖の痕跡が残っていたようです。

邪馬台国説がある纏向遺跡には南北2本の運河がありましたし、斉明天皇も香具山の西から石上山(天理市)まで10数キロの運河を作りましたので奈良湖の痕跡をうまく活用して実現したのでしょ。

巨勢寺跡

近鉄・JR吉野口駅から少し歩いた丘にあるのが巨勢寺跡。

巨勢寺跡
巨勢寺跡

飛鳥、御所、五條、吉野へそれぞれアクセスできる便利よい場所にあります。巨勢寺の創建は聖徳太子と言われ、飛鳥時代の瓦が出土しています。

巨勢氏の氏寺だったようで巨勢氏は武内宿禰の次男が祖で蘇我氏と関係があったのでしょう。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時には巨勢氏は蘇我連合軍に加わっていました。巨勢氏は朝鮮半島との外交・軍事に従事していました。

巨勢寺跡近くに檜隅と呼ばれる地域があり、ここは東漢氏の本拠でオンドル跡が見つかっており、渡来系氏族が多く住んでいました。国際都市だったようです。