早良親王

祟道天皇陵
祟道天皇陵

大和山村館から少し行ったところにあるのが崇道天皇陵です。

野村萬斎が安倍晴明役だった映画が「陰陽師」。後に羽生結弦選手がこの陰陽師の振り付けでオリンピック連覇を成し遂げました。安倍晴明のライバルが道尊で、最後には早良親王を復活させます。この早良親王が崇道天皇です。天皇にはなっていないのですが、祟りを恐れて延暦19年(800年)、崇道天皇と追称されました。

■早良親王とは
兄が桓武天皇で平安京へ遷都する前に長岡京遷都が行われました。この時に長岡京建設の司令官である藤原種継暗殺事件が発生します。早良親王は、この事件に連座していると疑いをかけられ乙訓寺に幽閉。淡路国に配流される途中、無実を訴えるため絶食し、現在の守口市あたりで亡くなりました。

ここから宮廷などで怪異があいつぎ、早良親王の祟りと噂されるようになります。

■崇道天皇陵
早良親王が死に際し石を9つ投げ、落ちたところに葬って欲しいと告げて絶命したという言い伝えがあり、それらのうち8つがこの地で見つかり、親王の陵が造営されたと言われていますが、本当の被葬者は誰か分かっていません。

天皇陵は山の辺の道沿いにあり、天皇陵の前の池には万葉仮名で書かれた歌碑がありました。

正倉院展

正倉院展
正倉院展

午後に予定していた仕事が日延べになったので、これ幸いと奈良へ。

正倉院展です。昼間に入ったら人だらけですので夕方のオータムレイトチケット狙いです。奈良国立博物館に着いたのが16:30過ぎで、入場待ち時間はありませんが、まだ会場内が混雑していますで休憩コーナーでビールを飲んで時間をつぶし17時に入場。

会場には日本史の教科書に載っていた「鳥毛立女屏風」が六扇すべて揃っていました。往時はヤマドリの羽毛が貼られていたので、この名前がついたんですね。

古文書コーナーには薩摩国正税帳があり、そこに遣唐使の文字が!第二船が唐から薩摩にたどりついたようで食糧などを渡した記事です。この時の第一船には玄昉、吉備真備が乗っていました。当時の記録に、しっかり遣唐使という文字が書かれているのを見ると感激しますねえ。

鳥見の霊畤(大嘗祭)

鳥見の霊畤(大嘗祭)
鳥見の霊畤(大嘗祭)

カレンダーが祝日じゃなかったので、すっかり仕事だと思っていました(笑)。

本日は新天皇の即位。皇位継承に際しては大嘗祭(だいじょうさい)が行われ、行う場所を霊畤(れいじ)と呼びます。日本で最初に大嘗祭を行ったのが神武天皇で場所は鳥見山にある鳥見の霊畤で、現在の桜井市にあります。戦国時代は城跡となって霊畤の場所は外山城の郭になっています。

他に天皇家に伝わる三種の神器(八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉)も重要です。ただし、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に納められているため崇神天皇の時代に鏡と剣のレプリカが作られた、勾玉と共に宮中に伝わったとされています。

■三種の神器のドタバタ
ところが源平の戦いで平氏が逃げる時に安徳天皇とともに三種の神器が持ち出されてしまいます。壇ノ浦の戦いで入水する時に三種の神器も海に沈み、なんとか鏡と勾玉は救い出されましたが剣は見つかりませんでした。後鳥羽天皇は発見の祈祷と捜索を命じますがダメでした。この時にいろいろと理屈をつけて別の剣をレプリカとします。

次に起きるのが南北朝の戦いで南朝方が三種の神器を持ち出してしまいます。この頃から天皇自体が徳であり三種の神器は必要ないという論理が展開されだします。

薬師寺は藤原京からの移築ではなかった

本薬師寺
本薬師寺

平城京跡で太政官跡(首相官邸のようなもの)とみられる建物の土台が見つかるなど考古学のニュースが届いています。藤原京跡では本薬師寺で東西幅約15メートルという巨大南門の跡が見つかりました。

本薬師寺は聖武天皇が奥さんの鵜野讚良(持統天皇)の病気平癒を願って作ったお寺で本尊は薬師如来です。本薬師寺の伽藍配置は西ノ京の薬師寺とまったく同じで藤原京から平城京へ遷都した時に西ノ京へ薬師寺を移築したという説があります。今回の発掘では2つの南門の構造が全然、違うことが分かり、西ノ京の薬師寺は移築ではなく新築説が有望になりそうです。当時、部材はよくリサイクルされており長岡京遷都の時は難波京の大極殿などが長岡京に移築されました。

本薬師寺は武士が台頭する11世紀頃までは存続したようですが、そのあとは廃れたようで金堂などの礎石だけ残っています。となると藤原京と平城京の2つで薬師寺を管理していたので経費がかかりますがお金はどうしたんだろう。本薬師寺は近鉄・畝傍御陵前駅から東に歩いた集落近くの田んぼにあり、少し南へ歩くと飛鳥です。

卑弥呼の墓?箸墓

箸墓
箸墓

纏向遺跡にあるのが箸墓古墳です。遠くには二上山も見えます。 

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という舌をかみそうな名前の女性のお墓で実は三輪山の神様、大物主神の奥さんです。もっとも邪馬台国・畿内説では卑弥呼の墓と言われています。 

箸墓は最古級の前方後円墳で造られたのが土器の年代分析などから3世紀中ごろまでさかのぼる可能性が強まり、248年頃に亡くなったとされる卑弥呼の時代と合致するともいわれています。桜井市では「卑弥呼の里」として町おこしをしています。 

もっとも諸星大二郎の「妖怪ハンター」では耳成山が卑弥呼の古墳になっていましたが

ここが邪馬台国?纏向遺跡

纏向遺跡
纏向遺跡

奈良盆地には楼閣が描かれた土器が見つかったことで話題の唐子・鍵遺跡があります。環濠集落でしたがこの唐子・鍵遺跡が自然消滅した頃に纏向遺跡が作られます。 

三輪山のふもとに広がる広大な日本最初の都市で邪馬台国・畿内説では纏向遺跡が邪馬台国最有力候補となっています。特にJR巻向駅のすぐ近くで発見された大型の掘立柱建物群は卑弥呼の王宮ではないかと話題となりました。先日、行ったら案内板もできて柱跡もわかるようになり、きれいに整備されていました。 

纒向大溝と呼ばれる運河による水運があり、関東から九州までの各土地の土器が出土しているため、全国各地から権力者が集まっていたと考えられています。ひょっとすると国会のような会議を開いていたかもしれません。今は単なる奈良の田舎ですが、ここが大和政権発祥の地でした。 

与楽乾城古墳

与楽乾城古墳
与楽乾城古墳

飛鳥から越智に抜ける街道沿いにあるのが与楽乾城(ようらくかんじょ)古墳です。ずっと山奥に向かって与楽古墳群があります。 

掘削されたこともあり、だいぶ崩れていましたが整備されていました。奈良県では高さ最大(5.1mのドーム型玄室)の横穴式石室を持つ古墳で入口は鉄扉で閉じられていますが、近づくと内部に電気がついて石室内を見ることができます。ただ、ほとんど観光客が来ない場所で、地元住民は車で移動しますから貝吹山へハイキングで行く人ぐらいしか立ち寄らない古墳です。あとは古墳マニアですね。 

被葬者は東漢氏の首長墓といわれています。真弓鑵子塚古墳など、ここらへんは東漢氏の死者の谷だったんですなあ。

真弓鑵子塚古墳

真弓鑵子塚古墳
真弓鑵子塚古墳

牽牛子塚古墳から少し行ったところにあるのが真弓鑵子(かんす)塚古墳。畑の中にこんもりとした山があり、ここが古墳です。鑵子(かんす)とは湯釜のことで玄室の形が湯釜に似ていることから名づけられています。真弓は地名です。 

真弓鑵子塚古墳は墳丘が二段になった円墳ですが、最大の特徴は玄室の広さで床面積は奈良県内では見瀬丸山古墳(34㎡)に次ぐ28㎡の広さ(畳18畳分)があります。石舞台古墳は27㎡で、それよりも広いですね。横穴式石室になっています。 

被葬者はわかっておらず、このあたり古墳ではミニチュア炊飯具など渡来系要素をもつ遺物が多いことから東漢氏首長一族の川原民直宮(かわはらのたみのあたひみや)ではないかという説があります。 

東漢氏は阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団で、軍事力があったため蘇我邸の警備などもしています。真弓鑵子塚古墳を東に行った檜隈が東漢氏の本拠地でした。東漢氏の子孫からは坂上田村麻呂が出ます。また上杉の名跡を継いだ上杉謙信はもともと長尾景虎という名前でしたが、この長尾家が東漢氏の子孫となります。

牽牛子塚古墳は斉明天皇陵?

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

巨大古墳時代が終焉をむかえ、王墓は八角墳(正八角形の古墳)に移行していきます。道教に八角形が天下八方の支配者という考え方があり、王墓や首長墓などに活用されていきます。

■益田の岩船は失敗作?
飛鳥駅の西側の丘をずっと登っていくと牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)があり、ここも束明神古墳と同じ八角墳です。牽牛子とは朝顔(アサガオ)の別称で、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造になっています。2つの墓室といえば、有名なのが同じ飛鳥にある益田の岩船。

巨石に2つの穴が空に向かってあいていて古代から何に使った巨石か分かりませんでした。松本清張などは拝火教(ゾロアスター教)の拝火壇説を唱えていました。最新説では、もともと古墳の石室を加工しようとしていたところヒビが入ったため、そのまま放置して古墳の場所も移して牽牛子塚古墳になったのではといわれています。

■牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇
牽牛子塚古墳は円墳だと思われていたのが発掘調査の結果、八角墳ということがわかり、注目を集めたのが被葬者。日本書紀に合葬したという記録があり、斉明天皇・間人皇女ではないかと言われています。古墳は今、整備中です。

斉明天皇とは中大兄皇子のお母さん。舒明天皇が亡くなった後に皇極天皇として即位します。乙巳の変では切られた蘇我入鹿が皇極天皇に向かい「私に何の罪があるのか」と叫んだと記録されています。孝徳天皇の時代となり飛鳥から難波京に遷都しましたが、孝徳天皇亡き後、また飛鳥に戻り即位(史上初の重祚)し、斉明天皇となります。

■先日、発表された四天王寺の亀形石造物
斉明天皇といえば飛鳥で運河などの大規模な土木工事を盛んに行いました。また飛鳥の観光スポットになっている酒船石や亀形石造物も作っています。そうそう先日、この飛鳥の亀形石造物と同じ時代に造られたのが四天王寺の亀井堂にある亀形石造物と発表されていました。昔から経木流しに使われていたのがあの亀形石造物がまさか斉明天皇時代だったとは驚きでした。

草壁王子のお墓?束明神古墳

束明神古墳
束明神古墳

飛鳥からずっと西に行くと真弓の丘があります。佐田の地にあるのが束明神古墳。佐田集落の一番奥の高台に春日神社があり、神社の境内に束明神古墳があります。 

これがなんと八角墳!7世紀後半に造られた古墳です。被葬者はわかっていませんが、佐田では束明神古墳が草壁皇子(岡本天皇)の墓と伝わっています。万葉集や続日本書記にも佐田丘陵に草壁皇子に葬られた事が記載されており、ましてや八角墳ですので可能性は高そうです。明治時代に天皇陵の比定がはじまりますが、天皇陵に指定されると村の立ち退きがあると噂がたったため束明神古墳の石室上板を隠し、役人が古墳の上から鉄の棒をいれて石室を確かめる探査を免れたそうです。ですので、現在比定されている岡本天皇陵は南に300mほどずれたところにあります。 

草壁皇子といえば天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子で、大津王子が殺された後、王位継承の本命でしたが即位することなく28歳の若さで亡くなります。