筒井さんの故郷

筒井城

近鉄電車・橿原線で西大寺から八木に向かう途中に高架駅があり、これが筒井駅。近くにはパナソニックの奈良工場があります。このあたりが筒井という土地で、ここを本貫にしたのが筒井氏です。有名なのが筒井順慶で大河ドラマ「「麒麟がくる」では駿河太郎が演じていました。大和の覇権を争う松永久秀(吉田鋼太郎)とバチバチやっていました。

■元の木阿弥
筒井順慶のお父さんが筒井順昭で大和の有力国人でした。ところが28歳で亡くなることになり、わずか2歳の筒井順慶が引き継ぐことになります。死を悟ったった順昭は重臣などを集め、まだまだ大和が安定していないので死んだことを秘し、その間自分に似ている盲目の法師・黙阿弥を身代わりにするよう命じます。一周忌を終え、順昭の死が公表されると黙阿弥は恩賞を受け取って元の法師に戻ります。これが「元の木阿弥」の語源となっています。

筒井順慶の後は従弟の筒井定次が継ぎます。秀吉政権となり伊賀へ改易となったことから伊賀上野城には筒井時代の天守閣跡が残っています。

柳生さんの故郷

柳生

柳生さんの故郷といえば柳生十兵衛などで有名な柳生の里です。大河ドラマ「春の坂道」では家康・秀忠・家光に仕えた柳生但馬守宗矩が描かれていました。「柳生一族の陰謀」も有名ですね。

柳生さんは元々は菅原氏で平安時代に柳生庄を管理したことから柳生と名乗るようになります。途中、没落しますが後醍醐天皇から再び柳生の地を賜り、戦国時代を生きぬくことになります。柳生宗厳(石舟斎)は大和を支配した松永久秀の配下となります。台頭してきた筒井順慶と松永久秀が辰市城で戦い、この時、柳生は松永側で戦いますが松永側が破れます。筒井とは後に和睦しますが柳生の里に逼塞します。この時、新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい、新陰流の奥意を極めることになります。これが運命の分岐点になります。自身も鍛錬していた徳川家康との縁ができ、柳生家は将軍指南役になっていきます。

■意外な松下嘉兵衛との縁
秀吉が信長の前に仕えていたのが松下嘉兵衛で親戚が井伊家でした。松下嘉兵衛の娘が柳生宗矩に嫁ぎ、つまり柳生十兵衛の母になります。井伊直虎も武田に井伊谷を奪われた時、親戚だった松下家に身を寄せていた可能性があります。秀吉は松下嘉兵衛時代に浜松で下積み生活をしてたので、小牧長久手の合戦では、秀吉を皮肉って「茂るとも羽柴は松の木の下かな」という句が歌われていました。秀吉は旧恩を忘れず松下嘉兵衛を引き立てています。

菅原さんの故郷

喜光寺

近鉄・尼辻駅を北西に、もしくは大和西大寺駅から南西に行くと菅原町があります。暗超奈良街道のすぐ北で古代は人が集まる場所でした。菅原町に観光客はほとんどいませんが菅原天満宮と喜光寺があります。

■行基の喜光寺
喜光寺はもともと行基が建てたお寺です。当時の僧は寺で経典を勉強するのが当たり前でしたが、行基は貧しい人には宿泊と食糧を提供するための布施屋(近鉄奈良線と大阪線が分岐する布施駅はこの布施屋からきています)を作り、橋や道路整備なども行い、民衆に布教していました。政権にとっては危ない非公認集団でした。ところが聖武天皇が河内の知識寺に行った時に知識(ボランティアのような協力のこと)に感激し、行基の活動を認めて協力を要請。大仏建立に貢献することになります。行基が亡くなったのも喜光寺です。

■菅原氏誕生の地
さて菅原という地名はかなり古く、推古天皇以前からの地名で、ここに住んでいたのが土師氏です。天応元年(781年)に土師氏が住んでいる菅原の地名をとって菅原姓への改称を申請し、認められ菅原氏が誕生します。新刊で出たばかりの「桓武天皇」(岩波書店)を読むと、論功行賞の意味もあり桓武天皇の方から改称せよと命じたようですね。さて菅原氏と言えば有名なのが菅原道真です。実家が菅原だったので、ここで生まれたと言われています。大宰府に左遷され怨霊になったことで菅原天満宮が建立されました。

高橋さんの故郷

石上神宮から奈良方面へ布留川沿いの山の辺の道を歩いていくと、途中で布留川を渡る橋があります。ここが高橋です。万葉集に「石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」と歌われていて、「石上の布留の高橋のように、心も高々に、しきりに妻が私を待っているだろう。もう夜は更けてしまった」という意味になります。川まで降りるとかなりの高さの橋で、すぐ近くにハタの滝があります。ここが高橋さんの名前の由来になっている土地の一つです。

遣隋使と遣唐使

■日本書紀に記載されていない最初の遣隋使
最初の遣隋使派遣は600年で、無礼な国書を送ったと隋に評価されたため隋書には記録されていますが、日本書紀ではないこといなっています。(笑)これではまずいと冠位十二階、十七条憲法の制定など政治改革を行い、外交使節が迎えられる小墾田宮を造ります。

607年、小野妹子が有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書をもって隋を訪問します。煬帝はおこりますが、ちょうど隋は高句麗と争っており日本を味方につけておかなければなりません。そこで隋は倭を「化外慕礼」の国として国交を開きました。「化外慕礼」の国とは中国の支配外だが中国の文化や商品を求めてやってくる国という意味です。

■揉み消した小野妹子
答礼として煬帝の勅使として裴世清が派遣され、小野妹子も一緒に戻りますが、煬帝から預かった返書を百済で盗まれてなくなってしまいました。まずいことが書いてあったので揉み消したのでしょう。

■Wスタンダードだった遣唐使
隋は長く続かず唐となったため、今度は遣唐使が派遣されます。隋と同様に遣唐使は中国に対する朝貢外交でしたが国内向けには対等外交ということにしていました。ですので唐から使節を派遣したいという話は必死で断っていました。つまりダブルスタンダード外交を展開していました。

丹波市駅

丹波市駅

奈良の古地図を見ていると丹波市駅を発見。まだ関西鉄道の頃ですね、現在の天理駅になります。大阪から丹波市駅へ行くには奈良駅経由となり時間がかかり、金額も高くなります。不便な点は今も同じですね。そこで途中の法隆寺駅で降りて徒歩で天理に向かう参拝客もいました。これは商売になると1915年(大正4年)に法隆寺駅から丹波市駅を結ぶ天理軽便鉄道が作られます。法隆寺駅から平端駅までがなくなり平端駅から天理駅までが現在の近鉄・天理線となります。

東の端には物部氏の武器庫だった石上神宮が見えています。昭和29年に市町村合併で天理市が誕生し、市名に宗教団体の名称が使われている唯一の市となります。

浮御堂

荒池

奈良の古地図を見ていると奈良ホテルの北に荒池があり、道路をはさんだ東側にも荒池が拡がっています。ちなみに奈良ホテルにあったのが鬼薗山城で、遺構は残っていません。東側の瑜伽神社裏側には西方院山城の一部が残っていて虎口や土塁を確認できます。この城は古市氏が築いたところ完成3日後に筒井氏に攻められ落城したと記録に残っています。

古地図を見ると東側の荒池の東側は畑になっていますが、今はここに鷺池があり、真ん中に浮御堂があります。檜皮葺き、六角形のお堂で、いかにも奈良という感じですが、あれって後から作ったんですね。調べると浮御堂ができたのは大正5年(1916)で奈良公園そのものは明治22年(1889)に整備されました。

大和西大寺駅

大和西大寺

近鉄の大和西大寺駅。難波と奈良を結ぶ奈良線と京都と橿原神宮を結ぶ橿原線が平面交差する鉄道ファンにはおなじみの駅です。

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図を見ると駅は影も形もありません。近鉄の前身である大阪電気軌道が上本町と奈良の間に鉄道を通し、西大寺駅を開業するのは1914年(大正3年)です。地図が作られた頃は用地買収や線路の敷設をしていた頃でしょう。次に橿原神宮前までの畝傍線ができ、昭和になってから京都からの線と結ばれ、現在の橿原線となりました。

大和西大寺駅には路線の平面交差だけではなく、車庫まであるので線路を切り替えるポイントが41もある複雑怪奇な駅になっています。橿原線に乗ると西大寺駅のホームに入るまで握り棒などをしっかり持っていないと、数多くのポイントを渡っていく列車に体が翻弄されます。西大寺の北側には伎芸天で有名な秋篠寺があります。西大寺を出ると神功皇后陵の東側の山を通って京都へ向かいます。

暗越奈良街道

暗越奈良街道

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図で尼辻あたりを見ると暗越奈良街道が記載されています。難波から生駒山地の暗峠を越えて平城京に至る街道で、尼辻を過ぎて坂を下れば朱雀門はすぐ先です。

■垂仁天皇陵
尼辻の西側に近鉄橿原線からよく見える垂仁天皇陵がありますが、地図を見ると天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。Googleマップでは上側のまっすぐな道が暗越奈良街道になっていて、どっちが正しいのでしょう。

さらに西に向かうと途中で2つの道は合流しています。垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)に造られていますので古墳を周遊する道が本来の暗越奈良街道である可能性が大です。

■倍塚はフェークニュース
垂仁天皇陵といえば湖の中に田道間守の倍塚があることで有名です。田道間守は垂任天皇の命令で常世の国へ行き、10年かかって「非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」を探し出してきました。ところが既に天皇は亡くなっており、田道間守も自殺し、この倍塚に葬られます。ところが元禄年間の山稜図にこの倍塚は出てこず、幕末の尊王思想が高まった時に古墳を取り巻く堤の一部を、それらしく島に改変した説が有力です。オイオイ!

ちなみに垂仁天皇の娘が倭姫命で伊勢神宮を今の場所に定めた人物です。また甥の日本武尊に草薙剣を与えています。

朱雀門

朱雀門

■朱雀門
平城京の正門が朱雀門で、ここから南の羅城門まで朱雀大路がのびています。平城京には12の門がありましたが、「天子南面す」が基本でしたので南の朱雀門が一番、重要な門になります。現在の朱雀門は1998年に復元され、休日に近鉄電車に乗ると「右手に平城京の朱雀門が左手には大極殿が見えます」とアナウンスされます。

藤原京などでは大伴氏が守っていたため大伴門とも呼ばれていましたが、714年に南方を守護する朱雀の名を冠した朱雀門になりました。外国使節は羅城門をくぐる決まりがありましたので、朱雀大路を進んで朱雀門に至り門前で歓迎会が開催されました。平城京ですが、「へい・じょう」は漢音、呉音の組み合わせでありえず、本当は「ヘイ・ゼイ」か「ヒョウ・ジョウ」のいずれかで呼んでいたはずです。

■SDGs
当時は資材が貴重でしたので、基本的に再利用です。藤原京から平城京遷都となった時、使える瓦は平城京に運ばれ再利用されました。平城京用に新規で焼いた瓦は黒っぽくなっていて、色で平城京の瓦か藤原京の瓦か見分けられます。

大極殿は中心となる建物なので全部新調されました。現在、平城京跡に大極殿と朱雀門が復元されていますが、大極殿には平城京で新調された黒っぽい瓦、朱雀門には藤原京の瓦が使われたことから白っぽい瓦で復元されています。