纏向遺跡

纏向遺跡
三輪山登拝のあと、近くにある纏向遺跡を見てきました。纏向遺跡は広大な遺跡で運河が2本あり、全国から土器が持ち込まれています。土器で多いのは東海、出雲、吉備、河内地域で各地の首長が集まり会議や祈りをしていたような都市でした。農地などは見つかっておらず、今でいう霞が関みたいなところだったようです。箸墓などは通天閣のようなランドマークになっていました。
地上には何もないのですがJR巻向駅の近くで発見されたのが辻地区の建物群です。国内最大の建物跡が発見され、しかも4棟が中心軸をそろえて東西一直線に整然と並んでいました。2009年には”卑弥呼の宮殿を発見か”と大きく報道された場所で、今は埋め戻されて原っぱになっています。ここが邪馬台国かどうかは分かりませんが、初代大和政権である崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纏向珠城宮、景行天皇の纏向日代宮だった可能性が高いですね。
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三輪山登拝

三輪山
中小企業診断士のグループ船場総研のイベントに参加してきました。
三輪神社のご神体は三輪山そのものですが、登って参拝することができます。まずは三輪神社境内にある摂社「狭井神社」に向かい、受付をすませると三輪山参拝証という首にかける札をもらえます。鈴がついていて、これは熊よけなんですかねえ。
■日向御子って誰?
なかなか急な山道を先導者が休憩もなしに登るので、しんどいのなんの。疲れ果てました。途中に磐座などがいろいろとあり、一番奥にも磐座がありました。手前に社があり、ここに祀られているのが日向御子神。
三輪神社の神様といえば大物主大神で出雲の神様です。大和のど真ん中に出雲神が祀られているのですが近くの纏向遺跡でいろいろな地域の土器が発掘されていますが、東海地域の次に多いのが出雲で、どうも出雲が国造りに多大に貢献していたようです。
崇神天皇の代に疫病がつづいた時に大物主が夢の中にあらわれて、子孫のオオタタネコに祀らせたら疫病はおさまると言われ、河内にいたオオタタネコに祀らせ疫病が止んだという話があります。一説には祭儀のために神武(天皇)を招いた話なんではないかと言われています。神武天皇はどこから来たかと言えば日向です、それで日向御子。
三輪山登拝受付は14時終了ですが、降りている途中14時30分ぐらいに下から神官が登ってきました。全員下山したか確認するのでしょうが、あんな急坂を毎日、登る仕事はいやだなあ、(笑)

ブラック企業の根源は十七条憲法にあった

正倉院展
正倉院展の最後の方に展示されているのが古文書で、回によっては写経生による”飲みすぎたので欠勤します”といった休暇願などが展示されています。昔も今も変わらない宮仕えの様子を見るのを、毎回、楽しみにしています。
今回、展示されていたのが職場改善要求。で6つの要求がありました。
1、紙が少なく書き手が多いので、紙が供給されるまで職員募集をやめること
2、仕事着が汚れているので新品がほしい
3、装丁係と校正係の食事を改善すること
4、毎月、5日間の休暇がほしい
5、机に向かっての仕事で、胸が痛く、脚が痺れるので、3日に1回、薬用に酒を支給すること
6、毎日、麦を支給すること
です。
ただし案文だったようで、実際に要求が行われたかどうかは定かではありません。写経生が働いていた造東大寺司はこんな改善要求が出せるので、ブラックではなかったようです。
ブラックと言えば聖徳太子の十七条憲法に諸悪の根源があって、八条に「八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。」とあります。公務の重要性を言っているのでしょうが、つまり早朝から深夜まで働けということで霞が関の不夜城の現況は憲法にあったのですね。

出入庫管理(正倉院展)

正倉院展
今日はお休みにして正倉院展へ。オータムレイトチケットで入りましたが、さすがに月曜夕方なんで、すいています。チケット売場、入口共に誰も並んでいませんでした。
入ってすぐのところに正倉院から出庫した物、返ってきた物の記録がありました。在庫管理ですねえ(笑)。道鏡や良弁など歴史でよく聞く名前も記載されています。記録の一角にあったのが”藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱”での武器返却記録。
「平城京に暮らす」(吉川弘文館)に、この時の話が掲載されており、たまたま造東大寺司で宿直していた経師(写経生)達がたたき起こされて向かった先が内裏。
当時の造東大寺司長官が吉備真備で、藤原仲麻呂の乱が起きた夜のことです。写経生は成り行きで巻き込まれ、結局、行って戻っただけなんですが乱に貢献したということで、あとから褒美をもらえたようです。
この時に持ち出されたのが正倉院の武具。この返還記録が今回の展示の一部に載っていました。

薬師寺荘園

薬師寺荘園
先日、大和郡山市の九条町を歩いていると”薬師寺荘園”という看板を見つけました。
薬師寺の荘園でもあったのかと思ったら、どうも地名のようで付近には薬師寺荘園第1号児童公園、薬師寺荘園第2号児童公園、薬師寺荘園第3号児童公園というのまでありました。九条の隣が西ノ京で薬師寺に近いですから昔、荘園があったかもしれません。
いろいろと調べると薬師寺は源氏の氏寺になっていて、薬師寺の俗別当を源氏長者がつとめていました。東大寺も源氏の氏寺になっています。どうも東大寺には手向山八幡宮があり、薬師寺には休ケ丘八幡宮があるからのようです。

1400年前に起きた乙巳の変 入鹿神社

入鹿神社

大和八木駅近くにあるのが小網町と曽我町、蘇我氏の本拠地です。
最近の研究では蘇我氏は葛城氏の一族で、曽我地域を拠点にしていたことから蘇我氏と名乗りました。乙巳の変(622年)のクーデターによって蘇我本家が滅びましたが、蘇我氏そのものは名前を変えて生き残り、有名なのが石川氏です。
蘇我一族
川辺臣氏-十市郡川辺郷
田中臣氏-高市郡田中宮
小治田臣氏-高市郡小墾田宮
桜井臣氏-高市郡桜井豊浦宮、河内郡桜井郷、石川郡桜井宮
岸田臣氏-山辺郡岸田村
高向臣氏-錦部郡高向村
小網町には入鹿神社があり、”全国にここだけ、蘇我入鹿公をまつる神社”という幟がはためいています。伝説では乙巳の変で入鹿の首がここまで飛んできて祀ったのがきっかけで頭痛に霊験があるそうです。
小網町の住人は筋金入りで守ってきたようで、明治時代に入り、皇国史観が中心となった時代に入鹿を祀るのはどうかと政府に言われ、祭神をスサノオに、神社の名前を小網神社に変更しろと言われましたが、拒否したそうです。また明日香村小原は中臣鎌足の母の出身地ですので絶対に縁組しないなどの伝説が残っています。

耳成山から藤原京へ

藤原京
耳成山へ登った後、せっかく大和八木まで来たので少し南にある藤原京跡へ行ってきました。
以前まで藤原京は大和三山に囲まれたエリアに作られたと考えられていましたが発掘調査の結果、めちゃくちゃ大きく、平安京や平城京よりも大きかったことが判明しています。北には玄武大路、南には朱雀大路が整備されていました。北をつかさどる玄武は耳成山です。
藤原京は飛鳥から694年に持統天皇が遷都しました。といっても平城京跡と一緒で、何も残っていません。大極殿の土壇が少し高くなって残っているのと、発掘調査したところの柱跡が再現されているだけです。あとは野球をやったり、運動場になっています。
日本書紀は新益京という名前でした。ここらあたりは藤原という土地名で、飛鳥京と同様に藤原京というのは学術用語です。藤原鎌足はこのあたりの出身のようで中臣から藤原に名前を変えました。

飛鳥苑

飛鳥苑
大晦日から正月にかけては津へ帰省。三重県産業支援センターへは実家から行っているので、あんまり新鮮味がないですねえ(笑)
2日、3日は奥さんの親戚が奈良の飛鳥苑(猿沢の池のすぐそば)に集まります。飛鳥苑の露店風呂は目の前に興福寺の五重塔が見えるのが値打ちですね。ちょうど夜明けにあわせて露店風呂に入ると、朝日をあびる五重塔を風呂から見ることができます。
写真は飛鳥苑のロビーにあった鹿の人形。

本当は十条まであった平城京

羅生門
平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。

正倉院展 天平時代も大変だった

正倉院展
山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。