奈良町を歩くと家々の軒先に赤いぬいぐるみが列になってぶら下がっています。身代り申です。
奈良町はかつて元興寺の敷地内で、火災で焼けてしまった本堂跡に建っているのが庚申堂。庚申とは人のお腹のなかには「三尸の虫」という虫がいて、庚申の日の夜に人々が寝静まってから体からぬけだし、その人がしてきた悪事を天帝に告げにいくといわれています。
天帝が天の邪鬼に命じてその人に罰を与えるので、人々は三尸の虫がぬけださないように寝ずに過ごす習わしがありました。上方落語の「宿屋仇」などのテーマにもなっています。
さらに心配な人は天の邪鬼が嫌いな「身代り申」を吊るし、三尸の虫の嫌いなコンニャクを食べて悪魔を退散させます。庚申の日に徹夜する風習はなくなりましたが身代り申をつるし信仰は奈良町に残っています。
元興寺は蘇我入鹿が建立した日本最古の法興寺を平城京へ移転したものですが、不思議なことに元の法興寺はそのまま残っています。また元興寺は童子による鬼退治で有名ですが、この童子がやがて法師となり、故郷へ帰って建てたのが尾張元興寺。金山駅のすぐそばにあります。
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奈良の正月
大晦日から正月にかけて津へ帰省していましたが、仕事でしょっちゅう津へ行っているので新鮮味はほとんどなし(笑)。
2日、3日は奥さんの実家の奈良へ。
最近は猿沢池近くの飛鳥苑に親類中が集まって一泊しています。飛鳥苑には露天風呂があり朝6時からやっていますので毎年、入っています。露天風呂の目の前に興福寺の五重塔があり、朝6時には興福寺の鐘がなり、なかなか風情があります。黎明の中で見る五重塔もオツですねえ。
朝から飛鳥苑のすぐ近くの奈良町を散策しましたが、観光客が多いですねえ。円安の影響か海外からの観光客も多かったです。
正倉院展
正倉院展、いつもは平日の夕方に行くのですが、今年はうまく予定があわず本日、奥さんと出かけてきました。といっても混む昼間ではなく、オータムレイトチケットの時間帯。
オータムレイトチケットというのは閉館の1時間30分前より入場できる当日券で、今日は日曜で19時まで開館してますから17:30から入場できます。また800円の割引券にもなっていてお得。(通常は1,100円)
さすがに日曜なのでオータムレイトといえども少し混んでいました。 もっとも入場の待ち時間はなし。また18時半ぐらいに入口近くまで戻ると人はほとんどいませんので崑崙や酔胡従の伎楽面も間近で見られます。
正倉院展では毎回、写経生の古文書を楽しみにしているんですが、今年はなかったですね。その代わり恵美押勝が書いた、東大寺封戸処分勅書がありました。力強い筆跡の文章で最期には藤原恵美朝臣と記載。恵美押勝といえば藤原仲麻呂のことで、日本史に出てきた藤原仲麻呂の乱(孝謙天皇・道鏡と対立しクーデターを起こそうとして失敗した事件)の張本人。
以前、写経生が夜中に起こされて正倉院から武器を取り出した古文書が正倉院展で展示されましたが、これが藤原仲麻呂の乱に備えたものでした。写真は閉館間近の奈良国立博物館です。
うまし うるわし 奈良(新薬師寺)
明日は雨になりそうですので、今日のうちに奈良へ。
山を越えたら生駒ですので、奈良までは30分ぐらいで着きます。猿沢の池から頭塔横を通って新薬師寺へ。十二神将と萩で有名ですが萩はまだはやかったですね。十二神将は奈良時代のもので全て国宝。十二支の守護神としても信仰されています。境内は暗く、天井からのライトとロウソクの炎で幻想的です。
奈良は秋の行楽シーズンに入ったためか修学旅行生などで一杯。興福寺の国宝館駐車場にも観光バスがずらっと並んでいました。国宝館には板彫十二神将立像があるんですが、展示のやり方が変わり、一直線にずらっとではなく三面に並べる展示に変わっていました。これから観光客がますます増えるシーズンですね。
三条通の中谷堂(高速餅つきで有名)前にはいつものように観光客が鈴なりになっていました。
→ うまし うるわし 奈良
奈良へ
奈良へ。
近鉄で西大寺駅を過ぎると平城京跡が見え、復元された大極殿、朱雀門、遣隋使船が車窓から見えます。東院庭園の真向かいにはイトーヨーカドーが見えますが、昔は奈良そごうの建物でした。豪華絢爛な隠し会長室があったことで有名です。
平城京時代から一等地で、当時は長屋王の邸宅跡。ですので「そごう」が破綻した時には長屋王の呪いだと、まことしやかに噂が流れました。
近鉄奈良駅で古くからの診断士仲間と合流し、駅から徒歩すぐの野菜ダイニング「菜宴」で昼食。日替わりがなかなかよかったですね。夕方から仕事が入っていたので途中で抜けて、大阪へ戻ってきました。
春日大社 初詣
1300年前の借用証書 金利18%と消費者金融なみ
大乗院庭園(奈良)
本薬師寺跡
土曜日に畝傍御陵前駅近くでセミナーでしたので、近くにある本薬師寺跡へ行ってきました。写真は塔跡から見た畝傍山です。
大和三山に囲まれた地域で古代には藤原京がありました。西ノ京に薬師寺がありますが、平城京遷都の時に移転しましたので、、ここは「本薬師寺跡(もとやくしじあと)」と呼ばれています。
本薬師寺跡は住宅街を抜けたところにあり、入口に案内がなければ通り過ぎるところでした。小さなお堂と金堂の礎石が残っています。周囲は湿地帯になっていて2つ盛り上がったところがあり、ここが塔跡で、こちらにも礎石が残っています。伽藍配置は西ノ京の薬師寺と同じだったんですね。
680年、、天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后【後の持統天皇】の病気平癒を祈願して建立されました。従来は平城京への移転説が主流でしたが、発掘調査によるとしばらく併存していたようで、今は西ノ京の薬師寺は移転ではなく新築説が有力です。ただ本薬師寺と同じ古い瓦が出たこともあり、、西塔は藤原京からの移築だったとする説もあるようです。
ここが邪馬台国? 唐古・鍵遺跡
専門家派遣の帰りに田原本町へ寄ってきました。
ここには弥生時代の環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡があり、楼閣が描かれた土器が見つかったことで有名です。
「出雲と大和」(岩波書店)では田原本町を邪馬台国に比定しています。田原本町という場所は、まさにヤマトの中心地。
都がおかれた飛鳥の地はヤマトの中心部ではなく、少し高地になっていて、中心部からかなり離れた土地です。なんでこんなところへ都を作ったのかなと不思議なんですが、当時、中心部は湿地帯だったという説もあります。
もしくは、唐古・鍵遺跡あたりの部族と、なにかあったかもしれません。神武東征以前にヤマトにいた部族としてはナガスネヒコとニギハヤヒ(物部氏の先祖)ですので、根城にしていたのが田原本町だったのでしょうか。
唐古・鍵遺跡には姫川のヒスイや尾張、吉備の土器も入ってきていて交易の中心地のようでした。この後にできる巻向遺跡も各地から土器が集まっていますので、唐古・鍵遺跡の経済面を継承したかもしれません。
ミュージアムもあり、いろいろな土器が飾られていました。中には土器に犬の歯型がついていて、土器を焼く前に犬がいたずらしたようです。ネズミがひっかいた跡が残っている土器もありました。