岐阜へ行った時に一番楽しみにしていたのが織田信長居館跡。
場所は金華山ロープウェイの裏側にあります。ここにあったのが織田信長の居館跡。と言っても観光客はほとんどいません。発掘された虎口(入口)が復元され、他は発掘中です。
後奈良天皇の法会の財源問題で岐阜へ赴いた山科言継の日記が残っていますが、信長に連絡をとろうと右筆(秘書)の武井夕庵に頼むと、信長は山上の城にいて、「老人の身で山登りは大変だろうから、明日、麓の邸宅で会おう」、と信長から返事がありました。
山科言継と織田信長が会ったその邸宅が織田信長居館跡です。しかも、三河の徳川家康にも頼みにいくという山科言継に、「老人の身でこの酷暑のなか、三河まで行くのは大変だから家康には飛脚をとばして資金を調達するから、この岐阜で待っておればよい。」と飛脚で資金調達を助けてくれました。織田信長の実像について見直しが行われていますが、こまやかな気遣いをする人物だったようです。
山科言継の後、この邸宅を訪れたのがポルトガルの宣教師ルイス・フロイス。キリスト教布教の許しをえます。最初に会ったのが邸宅跡で、美しい庭園がいくともあると本国に報告しています。この庭園が、現在も行われている発掘で見つかり、邸宅跡からは金箔瓦も出土しています。安土城以前に金箔瓦を使っていたんですね。迎賓館のような存在だったようです。
月: 2014年11月
稲葉山城(岐阜城)
先週、セミナー前に行った稲葉山城(岐阜城)。
さすがにセミナー前に金華山を登るのはやめてロープウェイに乗りましたが、高所恐怖症にはたまりませんね。岐阜城は昭和31年に造られたお城で、中は史料展示室になっています。一番上は展望台になっていて、濃尾平野が一望できます。名古屋駅前のツインビルもよく見えますので、戦国時代は織田軍の動きもよく分かったでしょう。
稲葉山城は難攻不落の城といわれた割には、よく落城しています。まずは竹中半兵衛に策略で落とされ、次は織田信長。「絵本太閤記」では秀吉が稲葉山城攻めで戦功をあげ、これ以降、瓢箪を馬印にしたという話があり、岐阜城にも千成瓢箪発祥の地という岩がありましたが、眉唾モノでしょう。
最後の落城は関ヶ原合戦の前哨戦で、織田秀信(三法師)が守る岐阜城を池田輝政と福島正則に攻められて落城。池田輝政は岐阜城の城主だったこともあったので、有利でした。
城のあちこちに戦国時代の跡があり、ちょっと脇に入ると野面積みになっている古い石垣があり、堀切も残っていました。昔の郭跡はレストランなどが建てられていますが、そう大きな城ではないですね。
正倉院展
正倉院展、いつもは平日の夕方に行くのですが、今年はうまく予定があわず本日、奥さんと出かけてきました。といっても混む昼間ではなく、オータムレイトチケットの時間帯。
オータムレイトチケットというのは閉館の1時間30分前より入場できる当日券で、今日は日曜で19時まで開館してますから17:30から入場できます。また800円の割引券にもなっていてお得。(通常は1,100円)
さすがに日曜なのでオータムレイトといえども少し混んでいました。 もっとも入場の待ち時間はなし。また18時半ぐらいに入口近くまで戻ると人はほとんどいませんので崑崙や酔胡従の伎楽面も間近で見られます。
正倉院展では毎回、写経生の古文書を楽しみにしているんですが、今年はなかったですね。その代わり恵美押勝が書いた、東大寺封戸処分勅書がありました。力強い筆跡の文章で最期には藤原恵美朝臣と記載。恵美押勝といえば藤原仲麻呂のことで、日本史に出てきた藤原仲麻呂の乱(孝謙天皇・道鏡と対立しクーデターを起こそうとして失敗した事件)の張本人。
以前、写経生が夜中に起こされて正倉院から武器を取り出した古文書が正倉院展で展示されましたが、これが藤原仲麻呂の乱に備えたものでした。写真は閉館間近の奈良国立博物館です。
大阪中小企業診断士会 交流会
昨晩は天満橋にあるドーンセンターで大阪中小企業診断士会の交流会を開催。
大阪中小企業診断士会は大阪府中小企業診断協会とは別に独立コンサルタントで構成された団体で、150名ほどの会員がおります。
会員通しの親睦を深めるため、昨年度まで2ケ月に1回程度、交流会を開催していたのですが、今年度から年2回の開催に変わっています。というわけで上期の交流会を昨晩開催しました。最終的には46名が参加。
福田理事長の挨拶では「中小企業診断士の日」を作る話も飛び出していました。各グループやプロジェクトからの近況報告のあとに、部屋を模様替えして立食形式でパーティを開催。無事に終わりました。
下期の交流会は4月4日(土)の予定です。