池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡
池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡は和泉にある弥生時代中期の環濠集落で池上町と曽根町の地名から名付けられています。2つの町にまたがる広大な遺跡です。 

環濠(つまり堀)は二重となっていて、つまり城の原型です(笑)。環濠の中には大型建物を中心とした祭りの場で、隣では青銅器や鉄器を作っていた工房がありました。環濠の周りに居住地があり、つまり用途によって区切られていました。市街化調整区域みたいなものですねえ。 

池上・曽根遺跡は平地につくられましたが、やがて高地性集落となっていきます。水田耕作に有利な平地から高台に集落ごと移動するのは倭国の大乱(魏志倭人伝では大乱をおさめるために邪馬台国の卑弥呼を奉じたとなっています)で守りやすい高台にしたというのが通説だったのですが、どうも古代の関西では大地震などによる洪水の影響が大きかったのはと言われています。

曽根城(和泉)

曽根城
曽根城(曽根神社)

和泉の曽根神社にあったのが曽根城。

曽根神社の案内版には曽根城を築いたのは玉井源秀とありますが玉井源秀(壱岐守)は千原城主のはずなんで「泉州志」にある玉井駿河守の可能性が高いでしょう。いずれも和泉三十六郷士の一人です。

和泉の玉井氏の本貫は和泉国和泉郡にあった玉井邑のようです。和泉三十六郷士のうち玉井一族は玉井壱岐守、玉井遠江守、玉井駿河守の3名です。皆でまとまって行動することもあり共和国のような感じでした。信長の支配下になった時は、そのまま従い所領は安堵されます。ただ石山本願寺の戦いに駆り出され、第1次木津川口海戦で毛利水軍に大敗した時に郷士のほとんどが討死しました。

曽根城の周りに低い土塁が巡り、これが城跡の痕跡となります。

堀城(中嶋城)

堀城(中嶋城)
堀城(中嶋城)

阪急の十三駅を西に行ったところにあるのが十三公園で隣には北野高校があります。単なる公園なんですが、ここが堀城(中嶋城)跡ではないかと言われています。堀城は中津川を堀替わりにしていたようですが、淀川改修事業で中津川がなくなってしまい正確に城がどこにあったのか分かっていません。 

■深井の戦い 
今は消えてしまった城跡ですが、城の名前はいろいろな文献に登場します。まず”深井の戦い”というのがあります。”深井の戦い”とは現在の堺で行われた戦いで摂津中嶋郡の分郡守護である細川政賢と和泉守護である細川元常が堺に上陸し天王寺城を攻めようとしましたが対抗する畠山高国らが深井城(残っていません)に籠ります。深井城で戦いが行われ畠山高国らは敗走し、この時に中嶋城まで攻め上がったと出てきます。深井城は堺市中区にあり、ここから十三ですので、かなりの距離があります。 

■桂川原の戦い 
堀城の名前は京都の桂川一帯で行われた”桂川原の戦い”でも出てきます。細川晴元の命をうけた三好長家、三好政長が阿波より堺に上陸し、中嶋の堀城を占領し越年したと記録されています。 

堀城は他にも石山本願寺と細川晴元との戦いに登場したり足利義昭が滞在したという記録もある城なんですが、今は遺構もそんな看板もなく、ただGoogleマップに堀城(中嶋城)跡と出るだけです。

二田城

二田城
二田城

南海「松ノ浜駅」から南東に向かうと蓮華寺があります。ここが二田(ふつた)城跡。

二田という地名は物部氏の一族である二田氏に由来する名前で二田氏は物部氏の祖である神饒速日尊(にぎはやひのみこと)が降臨した時に、従った二田造の子孫といわれています。まあ河内、和泉といえばやっぱり物部ですねえ。

大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向臣の讒言(裏にいたのは鎌足と中大兄皇子)によって山田寺で自殺した時に首を切ったのが物部二田造塩で、このあたりの出身ではと言われています。もっとも筑前国鞍手郡二田郷の説もあります。

南北朝時代には和泉三十六郷士の一人である磯上氏(南郡加守郷の国人)が二田城を築いたようで泉州志には和泉郡二田館主として磯上無仁入道の名前が出てきます。城には堀が巡っていましたが、今では暗渠になってしまい水路は「ホリノカワ」と呼ばれています。

慶安の御触書で有名な慶安元年(1648年)に百万遍の知恩寺から派遣された上人が開祖となって蓮華寺が建立されました。

三里城

三里城の入口
三里城の入口

生駒近辺の山城は、ほとんど登ったと思って戎光祥出版「近畿の城郭」を見ていたら平群駅近くに三里城があるのを発見。さっそく登ってきました。 

【三里城への道】 
平群駅をずっと東に行くと、安明寺叶堂があります。お堂はなく礎石しか残っていません。この叶堂から山道に入り、川沿いの道を登っていくと「右 まや道」という石標があり、ここを登っていくと写真のように道に大きな石があります。 

ここが城の入口です。少し戻ったところから左手に細い山道があるので、ここから藪の中に入って、結局は切岸、つまり崖を登ります(笑)。ずっとひたすら頂上を目指すと郭や見事な横堀を通って主郭にいたります。 

【三里城】 
三里城は誰が造った城か伝わっていませんが、松尾寺へと通じる街道を見張る目的があり、すぐ近くに椿井城がありますので、おそらく嶋氏ゆかりの城だったのでしょう。平群は島左近(石田三成家臣で関ケ原の合戦で討死します)で町おこしをしています。松永久秀が大和を支配した頃には松永方として改修されたかもしれません。 

先日、オープンストリートマップを教えてもらったので、さっそくやろうとしたら竹藪の中ではGPSが全然、違う方向を指していました。よほど眺めがよい山城でない限りは難しいですね。

綾井城

綾井城
綾井城

高石駅からずっと住宅街を歩くと専称寺という寺があり、ここが綾井城跡です。単郭の平城で郭の周りは堀が巡っていたようですが、現在は山門前の堀跡だけが残っています。「沼間日向守綾井城址」と書かれた高石ロータリークラブの白い木標があり、寺の山号も城蹟山になっています。

綾井城は和泉国の国人である田代氏によって鎌倉期に造られ、南北朝の頃は北朝方の守護・細川清氏の命を受けていたようです。戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており沼間伝内は織田信長に従い、織田信長の水軍と石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の 配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。

文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。昔の絵図には一部の堀は二重になっていました。

私たち普通の勉強会に戻ります

ITC三重
ITC三重

「私たち、普通の勉強会に戻ります!」 
往年のキャンディーズみたいですな~あ。例えが古いですねえ。 

ITコーディネータが集まって組織していた勉強会「ITC三重」を8年前にNPOへとリニューアルしたのがNPO ITC三重です。いろいろと事業を行うために法人格が必要で、順調だったんですが、NPOといえども事業をやるのなら税金を払わないといけません。 

8年ほどたつと順調だった事業も少し低調となり、これで税金を払うのはもったいないな~あ、ということから総会で解散決議を行うことになりました。この後、手続きとしては清算となり余った剰余金は県への寄付となります。まあ、県にいわせると毎年、きっちり報告書を出してしっかりやっているNPOはほとんどなく優良NPOだったそうです。理事長お疲れさまでした。 

NPOはなくなりますが普通の勉強会として新たに存続します。メンバーはITコーディネータだけではなくITに係っているいろいろなメンバーが参加しています。IT業界は人材不足が顕著で今日も68歳のSEの話題などが出ていました。

合同会社エムアイティエスの自転車がカンボジアを走っています

カンボジアに自転車を
カンボジアに自転車を

知合いの安田さんがReady Forで「教育のチャンスを守る。カンボジアの子ども達に通学用自転車を!」というクラウドファンディングを毎年やっており、私も一口協力したのですがプロジェクトは無事に成立し、カンボジアに渡った安田さんから現地での自転車贈呈式の写真が届きました。 

贈られた自転車の前カゴには支援者の名前が入ったプレートがつけられます。というわけで合同会社エムアイティエス(LLC MITS)のロゴをつけた自転車がこの写真で、今頃カンボジアのどっかを走っているはずです。今年もクラウドファンディングが行われます。

水間鉄道

水間鉄道
水間鉄道

南海・貝塚駅と水間観音駅との間の5.5kmを結んでいるのが水間鉄道。単線で途中の名越駅で行き違いをします。 二両編成のワンマン列車で貝塚駅と水間鉄道駅以外では後ろの車両の扉は開きません。

水間鉄道沿いには根来衆の出城が並び、まず石材駅近くにあったのが積善寺城。行き違いをする名越駅のすぐ横にあるのが高井城で少し歩くと千石堀城があります。ここは秀吉の紀州攻めで有名なのが千石堀城の戦いが行われたところです。終点の水間観音駅まで乗ると根福寺城へ行けます。城好きには便利な路線ですねえ。

ファイティング・コンサルタンツ研究会

ファイティング・コンサルタンツ研究会
ファイティング・コンサルタンツ研究会

昨日はファイティング・コンサルタンツ研究会で深井駅にある株式会社ユニバーサルCEへ。社長がメンバーなので、ここを根城にしています。

メンバーが討議している間にパソコンで原稿を書こうとしていたら、早々と討議は打ち切り。中百舌鳥駅へ出て昼からやっている立ち飲み屋へ行こうという決議に変わっておりました。オイオイ、原稿が~あ!

というわけで立ち飲み屋へ、それだけで終わらず白木屋へも行って散会。おかげで今日は朝から原稿作成に追われることに、山城登りのベストシーズンなのに~!

まあ、ついでに電子申告もさっさとやって終わってしまいました。E-Taxの画面ですが、けっこう分かりやすくなっていますねえ。確定申告は終わりましたが、次は法人決算が待ってます!