正倉院展

正倉院展
正倉院展

午後に予定していた仕事が日延べになったので、これ幸いと奈良へ。

正倉院展です。昼間に入ったら人だらけですので夕方のオータムレイトチケット狙いです。奈良国立博物館に着いたのが16:30過ぎで、入場待ち時間はありませんが、まだ会場内が混雑していますで休憩コーナーでビールを飲んで時間をつぶし17時に入場。

会場には日本史の教科書に載っていた「鳥毛立女屏風」が六扇すべて揃っていました。往時はヤマドリの羽毛が貼られていたので、この名前がついたんですね。

古文書コーナーには薩摩国正税帳があり、そこに遣唐使の文字が!第二船が唐から薩摩にたどりついたようで食糧などを渡した記事です。この時の第一船には玄昉、吉備真備が乗っていました。当時の記録に、しっかり遣唐使という文字が書かれているのを見ると感激しますねえ。

大和窪之庄城

大和窪之庄城
大和窪之庄城

帯解駅を南東に行くと八坂神社があり、ここが大和窪之庄城。

住宅地の一角ですが神社の周りを土塁や堀切がめぐり、城跡がそのまま残っています。このあたりは東大寺領窪庄があったところで、鎌倉時代以降は、窪城氏が窪荘の下司として管理していました。大和は国人どおしで争っていましたので窪城氏は筒井氏や十市氏、古市氏、福住氏などと縁戚関係を結んでいました。応仁の乱後は古市氏との関係を深め、永正3(1506)年に古市方として高樋氏の居城・高樋城を攻めたところ、後詰めの筒井氏に窪之庄城を焼かれてしまい没落してしまいます。

やがて窪城氏は筒井氏に従ったようで永禄11(1568)年には、筒井方の与力として登場します。ところが織田信長が松永久秀に細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万兵の援軍をつけ大和に攻勢をかけます。筒井氏の城である筒井城、森屋城、豊田城とともに窪之庄城は、また落城してしまいます。

ただ、信長軍は浅井長政の裏切りや石山本願寺の戦いなどもあり、松永久秀の主力軍もそちらに出ていた間隙を狙って筒井氏は窪之庄城を奪回します。松永久秀は足利義昭に通じたようで元亀元年(1570年)に武田信玄と結んで信長に謀反を起こし、信長包囲網に参加します。元亀2(1571)年に筒井氏を攻めるため大和最大の合戦である辰市城の合戦が行われます。この時に活躍したのが窪城氏の軍で、多くの首級をとり、松永軍は信貴山城へ撤退していきます。

大和窪之庄城は2つの郭からなっており八坂神社側が東殿と呼ばれる郭で、隣が西殿と呼ばれる郭になっています。西殿は分家である窪城西氏の居城でした。2つの郭の間には大きな堀切が残っています。西殿の方はだいぶ崩れていますが、八坂神社本殿を取り巻く東殿は土塁や堀が明確に残っています。

積読を減らす

積読
積読

新聞に学校読書調査の結果が出ていて、1ヶ月に1冊も本を読まない人の割合が増え、今や半数近くという結果だそうです。本を毎日読まないと禁断症状(酒じゃないです)がでる身としては信じられない結果ですねえ。

日本政府の借金が増えるのは「入る<出る」になっているからです。本の柱が現れて積読状態になるのは「入る>出る」になっているからで、至極まっとうな理屈です。

中小企業に日々、改善策をアドバイスする中小企業診断士としては、もちろん改善しなければなりません。まず日本政府と同様にプライマリーバランスをプラス化するための施策を考えなければなりません。そこでキンドルの導入です。

電子書籍なので、とりあえず物理的な本の増殖を抑えられます。最初はうまくいっていたのですが、本はページをめくらないと読んだ気がしないという長年の慣習には勝てず、この本の柱のどこかに埋没してしまい、いまだに発見に至っていません。キンドル、本当にどこへいったのかなあ。

積読を減らす、いい方法はないかな~あ。

大和今市城

大和今市城
大和今市城

JR奈良駅から2つ目の駅が帯解(おびとけ)です。安産祈願の寺として有名で美智子上皇后など皇族もよくお参りしています。この帯解駅近くにあるのが大和今市城です。

大和の国人に今井氏がおり、今市氏の居城が大和今市城でした。最初は筒井氏に仕えていましたが、筒井氏が越智氏などに敗れたためいったん没落します。大和今市城は越智氏のものとなり、家臣の堤氏によって城の改修が行われます。やがて復活した筒井方が攻め込み、大和今市城は落城。今市氏が復活して城主に返り咲きました。

現在、城跡は住宅地となり明確な遺構は残っていませんが堀の一部がガマ池となり、外堀は遊歩道になっていて、往時の郭跡などを楽しめます。

やがて松永久秀による大和進攻で、今市は焼き討ちにあっています。織田信長が「大和一国破城令」を出し、大和郡山城のみとなりますので、大和今市城はこの時には廃城になったのでしょう。

船場総研 秋の陣

船場総研
船場総研

中小企業診断士の勉強会に船場勉強会があり、そのOB組織が船場総研です。2009年に船場総研・10周年イベントを行ったので、よく考えたら今年は20周年じゃないの?誰も言い出さないなあ(笑)。

烏丸四条に新しくできた京都経済センターに集合。今回は但馬さんによるSPトランプを使ったコミュニケーション研修です。自分の性格分析をするんですが独立組が多いためか、けっこう論理的思考が強いメンバーが多いことが判明。研修後は京都経済センターツアーで7階の京都商工会議所からぐるっと回って、ついでに2階のポケモンセンターへ寄っておりました。

室町通りにある廃校になった小学校を利用した京都芸術センターや風呂敷専門店を巡って、最後は三条木屋町の「四季の味 浜町」で宴会して散会。

時代祭り

時代祭り
時代祭り

時代祭りが順延になったことで久しぶりに見ました。大学時代以来ですから40年ぶりぐらいですかねえ(笑)。

錦の御旗と維新勤王隊列を先頭に江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡る行列です。

徳川城使上洛列、織田公上洛列、楠公上洛列など、よく考えたら、「田舎から都へよう上ってきはったな~あ」という、あくまでも京都至上主義目線。井上章一氏の「京都ぎらい」の世界ですなあ(笑)。

室町幕府執政列には足利将軍の後ろに山名や細川が付き従い、「お前らが都を燃やしやがって」という目で見ておりました(笑)。先導役が伊勢氏で最新の研究では、この伊勢氏の一族が戦国大名・北条早雲となります。

交通量が多い烏丸通の半分を占拠しての行進なので、信号制御しながら、ゆっくり進むので気の長いお祭りになります。せかせかした都会の中で悠長な時間が流れるのがよいですねえ。

大和南郷城

大和南郷城
大和南郷城

藤森環濠を少し北に行くと南郷環濠があります。堀跡が水路となってよく残っており、村の四方を取り囲んでいます。南郷環濠の南東角が、「城の内」と呼ばれ南郷氏の居館があったところで住宅地に南郷城跡の碑がありました。

南郷氏は国民でした。国民というのは春日社・末社の神主をつとめていた地侍で大和の南が多く、北は衆徒と呼ばれる興福寺に属する地侍がいて、どちらも国人と呼ばれていました。神仏習合時代ですので興福寺も春日社も実質的に同じです。

■興福寺が守護
大和は興福寺が守護でしたが、今の興福寺のイメージとは違って宗教団体というより軍隊です。平安時代には興福寺の僧兵が春日大社の神木を担いで、よく平安京まで強訴をしていました。飛鳥にあった山田寺へ僧兵が押し入って、本尊の薬師三尊像を強奪し、興福寺東金堂の本尊にしたりしています。やりたい放題ですなあ。今、山田寺仏頭は興福寺・国宝館にあります。

石山本願寺は10年にわたって信長と戦争していましたし、延暦寺が日蓮宗を攻める天文法華の乱なども起きています。信長、秀吉、家康の宗教政策で戦いと切り離された宗教団体にようやく変貌しました。

■大和四家
大和には有力な大和四家として筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏がいましたが、興福寺の力が落ちてくると大和四家の間で争乱を起こしていました。南郷氏は近隣の箸尾氏には従わずに越智氏に従っていました。明応の政変(1493年)が起きた頃が越智氏の最盛期ですが、越智家栄の上洛に南郷氏も付き従っています。

関ケ原の合戦後、南郷は徳川幕府直轄領となります。家康に仕えていた北見五郎左衛門が代官として南郷城の跡を整備して代官陣屋を築き2万石を支配しました。

藤森環濠集落

藤森環濠集落
藤森環濠集落

藤森環濠集落

松塚環濠集落から北西に行ったところにあるのが藤森環濠集落。西の端にある十二社神社には土塁跡も残っています。藤森集落は多武峰社領だった時期があり、米を談山神社に収納していた関係から本殿も談山神社から移されたと伝えられています。

中世の大和高田は葛下郡と呼ばれ、村の防衛のために環濠集落があちこちに造られましたが、藤森環濠集落には四方を巡る堀跡が今も見事に残っています。戦国時代には陣城として使われたこともありました。

松塚環濠集落

松塚環濠集落
松塚環濠集落

松塚環濠集落です。

戦国時代、大和では興福寺が守護職を務めていて、核となる戦国武将はいませんでした。しかし北では筒井・古市・箸尾氏が、南では越智・十市・楢原氏が、宇陀では秋山・沢・芳野氏が勢力を伸ばし、それぞれが引っ付いたり敵対したりと大和も戦乱の時代でした。

この時代、村や町の周りを堀で囲んで防衛する環濠集落が作られます。寺が中心となると寺内町となります。また戦国時代の堺は堀で囲まれた環濠集落というより城でした。近鉄・大阪線の普通しか止まらない松塚駅を降りると、駅のすぐ近くに嚴島神社(市杵嶋神社)があり、水堀が残っています。町を歩くと道が狭く、まっすぐの道はほとんどありません。また西側は葛城川が堀代わりになり水堀は北、東、南に造られました。北西にある琴平神社のところが高台になっていて櫓代わりになっていたようです。

鳥見の霊畤(大嘗祭)

鳥見の霊畤(大嘗祭)
鳥見の霊畤(大嘗祭)

カレンダーが祝日じゃなかったので、すっかり仕事だと思っていました(笑)。

本日は新天皇の即位。皇位継承に際しては大嘗祭(だいじょうさい)が行われ、行う場所を霊畤(れいじ)と呼びます。日本で最初に大嘗祭を行ったのが神武天皇で場所は鳥見山にある鳥見の霊畤で、現在の桜井市にあります。戦国時代は城跡となって霊畤の場所は外山城の郭になっています。

他に天皇家に伝わる三種の神器(八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉)も重要です。ただし、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に納められているため崇神天皇の時代に鏡と剣のレプリカが作られた、勾玉と共に宮中に伝わったとされています。

■三種の神器のドタバタ
ところが源平の戦いで平氏が逃げる時に安徳天皇とともに三種の神器が持ち出されてしまいます。壇ノ浦の戦いで入水する時に三種の神器も海に沈み、なんとか鏡と勾玉は救い出されましたが剣は見つかりませんでした。後鳥羽天皇は発見の祈祷と捜索を命じますがダメでした。この時にいろいろと理屈をつけて別の剣をレプリカとします。

次に起きるのが南北朝の戦いで南朝方が三種の神器を持ち出してしまいます。この頃から天皇自体が徳であり三種の神器は必要ないという論理が展開されだします。