橘諸兄旧跡(井手町)

橘諸兄旧跡(井手町)
奈良時代、天然痘によって藤原四兄弟が次々と亡くなり、藤原氏の影響が落ちたことで頭角をあらわしたのが橘諸兄。東大寺の大仏で有名な聖武天皇の補佐を行います。
藤原氏復権のため九州で藤原広嗣の乱が起きます。この時に有名な聖武天皇の伊勢行幸が始まります。天武天皇の壬申の乱をなぞった道筋で、古代史の大きな謎になっています。聖武天皇は結局、平城京には戻らず、恭仁宮遷都が行われます。さらに奥に入った紫香楽宮で大仏建立の詔が行われます。
橘諸兄の本拠地である井手町から恭仁京はすぐ近くで、聖武天皇も井手町にある玉井頓宮を訪れています。橘諸兄旧跡といっても碑だけですが丘の上にあり、竹林がなければ井手町を見下ろせる絶景の場所にありました。
息子が藤原仲麻呂と対立し橘奈良麻呂の乱を起こしますが計画が事前にばれ、処分されます。弓削道鏡(恵美押勝)の時代になったことで、今度は藤原仲麻呂の乱が起きます。そういえば去年、八尾で弓削道鏡の由義宮跡がとうとう発見されたというビッグニュースがありました。

姓や氏長者って何なの?

斎藤さんの故郷 斎宮
京都府の南にある井出町で有名なのは橘諸兄の旧跡。山城・井出城はマニアには有名ですが、一般的にマイナーな存在です。
そうそう橘諸兄、日本史で習いましたね!
■本貫って何?
姓で有名なのは源平藤橘です。その橘氏の初代氏長者(橘氏の筆頭)が橘諸兄になります。武家に足利氏、新田氏、多田氏という名前がありますが、みな、姓は源氏。誰もが源だと呼ぶ方も大変です。そこでつけたのが名字(苗字)。
下野国にあった足利荘の出身だったので土地の名前をつけて足利氏と名乗ります。名字(苗字)の由来となった土地を本貫と呼びます。ですので多田氏の本貫は摂津国の多田で、姓は源です。
■斎藤さんの故郷 斎宮
藤原氏も同様で伊勢国の藤原なんで伊藤となります。こっちは国レベルなんで、けっこうアバウトですね。伊勢の斎宮頭だった藤原叙用(のぶもち)に由来するのが斎藤(斎宮頭の藤原)です。
近鉄で普通しか止まらない斎宮駅近くに「全国の斎藤さんの故郷 斎宮」とでっかい看板を出せば、伊勢神宮へ行く途中の斎藤さんが絶対に気になって地域活性化になるんですが、明和町の人は、動きませんね。和歌山の藤白神社は鈴木さんの故郷として全国から集客しているのにもったいない!
■豊臣秀吉 あんたはえらい!
源平藤橘に新しい姓が増えたことがあります。それが豊臣。もともと秀吉は征夷大将軍を狙っていて信長に追放されていた足利義昭(源氏の氏長者)に頼みましたが断られます。
方向転換し、源氏ではなく藤原(近衛)となり関白に就任します。ところが天下人となっても藤原の氏長者には頭があがらないことになります。そこで朝廷から豊臣という新しい姓をもらい、自分が氏長者になってしまいました。よう、こんなことを考えつきますなあ。

新幹線から見える大塚山古墳

大塚山古墳
東海道新幹線で京都駅を出て、野洲川を越えると左手に見えるのが大塚山古墳です。新幹線に乗るたびに見え、前から気になっていたので実際に行ってみました。
大塚山古墳は新幹線のすぐ横にあり、帆立貝式古墳になっています。帆立貝式古墳とは円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳のことを言うそうです。それほど高くもない円丘の周りには濠と堤がめぐっていました。このあたりは大岩山古墳群といって3世紀後半~6世紀にかけて継続的に古墳が築かれた土地になります。
近江には琵琶湖があり、古代においては水上交通がメインですから栄えていたし外国との交易ルートもありました。野洲から近い彦根市の稲部遺跡では古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡が見つかっています。これが纒向遺跡の大型建物跡に次ぐ規模でしたので栄えていたんですね。

城郭コーナー(ジュンク堂アバンザ店)

バグは本当に虫だった
堂島アバンザにあるジュンク堂大阪本店へ久しぶりに行ってきました。
コンピュータコーナーへ行くと『バグは本当に虫だった-なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話(ペンコム社)』が面陳列されていました。
ジュンク堂さん、ありがとうございます。
→ バグは本当に虫だった(ペンコム社)
■山城がブーム?
さて人文コーナーには城郭コーナーができていました。続日本100名城などのオーソドックスな品揃えだけでなく、「神奈川中世城郭図鑑」、「戦国の北陸動乱と城郭」、「岩見の山城」などマイナーな本もよく揃っています。
もちろん「近畿の城郭」シリーズ1~4巻もありました。これ1巻が7千円もするので次の第5巻はいつ出るんだと戦々恐々としています(笑)。それにしても城郭コーナーができるほど、山城はブームになっているのかなあ。続日本100名城には高天神城(静岡)や飯盛山城、芥川山城(大阪)といった山城がけっこう入っているので、その影響かもしれません。

大阪中小企業診断士会 総会

大阪中小企業診断士会
昨日は西梅田のハービス大阪で大阪中小企業診断士会・総会がありました。
西梅田は再開発でオシャレな街になっていて、高級自転車や高級紳士服、婦人服などのお店が多いですね。地下の食堂街もオシャレなイタリアンや割烹などのお店が多く、大阪では珍しく立ち飲み屋さんがありません(笑)。
先週、金曜日は大阪府中小企業診断協会の総会があり、基本的に一緒にやるのですが今年度は理事の改選があるので、別々の開催です。大阪中小企業診断士会の最近の会員数は220名を超えたそうです。大阪府中小企業診断協会は確か2000名を超えていますので、約1割が士会にも入っている計算になります。
三重県中小企業診断協会が約100名ですので、軽く倍ですね。

IT導入補助金がはじまっています

2017年から、3年間で中小企業の3割にあたる100万社にITツールを導入して生産性向上をはかることを目的とした「IT導入補助金」がはじまっています。
ITベンダーを通じて代理申請するなど、ふつうの補助金とは変わったスキームになっています。2018年度は3回にわたって募集しますので、ソフト導入やホームページ作成を考えているところは、ぜひ活用ください。補助率は1/2で補助金の上限は50万円です。
15年ほど前に書いた補助金が、だいぶ前になくなっていますので全面的に書きかえしました。
→ IT導入補助金とは?【中小企業向け・2018年版】

掛川古城

掛川古城
もともとの掛川城は今の場所ではなく、5分ほど歩いたところにありました。それが掛川古城です。
今川氏が朝比奈氏に命じて子角山(ねずみやま)の尾根に造りました。この後、龍頭山に新たに城を造り、移動することになります。これが新幹線の車窓から見える現在の掛川城です。
掛川古城には建物などは残っていませんが大きな郭が2つ残っています。主郭跡には徳川家光の位牌を祀る天王山龍華院・大猷院殿霊廟があり周りには土塁が残っています。もう一つの郭跡は公園になっていて遊具などが置かれていました。隣が小学校ですが、かなりの高度差があります。
見事なのは郭と郭の間にある大きな堀切で、遊歩道になっていました。城があった頃は木橋を渡していたのでしょう。掛川城は観光客で一杯でしたが、さすがに掛川古城には誰もおりません。

家康が学び江戸城にいかした掛川城の戦い

掛川城
新幹線が掛川駅を通過する時、車窓から掛川城の天守閣が見られます。再建された天守閣ですが、復元天守には珍しくコンクリート造りではなく木造になっています。今、名古屋城ですすんでいる復元天守と同じですね。
掛川城は室町時代、駿河の守護大名だった今川氏が遠江進出を狙い、重臣だった朝比奈氏に命じて築城させました。秀吉の時代には徳川家康のおさえとして、山内一豊が城主をまかされます。ところが関ケ原合戦時には家康の味方をして掛川城を提供し、褒美として土佐一国の領主となります。
■今川氏真を守り抜いた掛川城
今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、今川家を率いたのが今川氏真です。去年の大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」では尾上松也が演じていました。今川氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康から挟み撃ちに遭い、駿府館を捨てて朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びます。
結局、掛川城は徳川軍に包囲されてしまいます。家来に裏切られて滅んだ武田勝頼や朝倉義景と違い、今川氏真は家来に恵まれていました。朝比奈泰朝は最後まで主君を守ります。和議で北条への今川氏真の亡命を認めさせると開城します。
■掛川城の戦いで学んだ家康
昨年、発見されたのが徳川家康が築城した時の江戸城の縄張りを書いた江戸始図。堅牢な要塞のような本丸が描かれていました。掛川城の戦いは絶望的な籠城戦でしたが半年間持ちこたえている間に状況が変化し、家康は北条と武田と敵対することになり、今川氏直と和睦します。
鉄砲の時代となると籠城戦では守り切れないというのが当時の常識でしたが、掛川城の戦いで後詰め(応援)がなくても状況変化で生き残れることを家康は学びました。これが江戸城の縄張り(設計)にいかされることになります。

信長のマイナスイメージ戦略に利用された高天神城

高天神城
All AboutのRed Ball終了後、掛川へ移動して一泊。
朝、浜岡原発の方へ向かうバス(一人だけでした)に乗って、歴史にしょっちゅう登場する高天神城へ行ってきました。お城ジオラマ復元堂でも有名な山城です。
高天神城はよく整備されて遊歩道や看板もたくさんあり、とっても楽に登れる山城です。一城別郭の城として有名で2つの尾根筋に郭群が二つあり、それぞれが独立した構造になっていますが、この二つの城が連結して高天神城になっています。
古くから城が造られていましたが、歴史で有名なのは徳川家康の支配下になってから、なんせ武田信玄が攻めても落とされなかった名城です。ところが武田勝頼に城を奪われてしまいます。勝頼は信玄以上に優秀でした。
■信長による武田勝頼マイナスイメージ戦略
この後、織田信長の命を受けた徳川家康が高天神城の周りに砦群を作り、持久戦に。高天神城を守っていた岡部元信は降伏を申し出ましたが信長は許しません。この当時、敵の動きで動くに動けなかった武田勝頼は援軍を送れませんでした。結局、岡部元信は残った兵をまとめて最後の攻撃に出撃し玉砕してしまいます。
ここぞとばかり、信長は”武田側で戦っても勝頼は助けてくれない”とイメージ操作をはじめます。SNSによる拡散はできませんので、もっぱら手紙と口コミです。織田、徳川、北条が攻め込んだ時に武田側で裏切りが続出したのは、このイメージ戦略の結果でした。
と言っている信長自身も自軍だった上月城の尼子氏を助けられず見捨てていますので、勝頼と一緒なんですが(笑)信長は別所長治、荒木村重、松永久秀などにずっと裏切られていますのでマイナスイメージは今さら関係なかったようです。

第17回 Red Ball Japan

Red Ball
All Aboutのガイドの集まりであるRed Ballに参加してきました。
Aboutの「o」が赤色のボールになっているのでRed Ballという名前がついており年1回開催されています。All Aboutは2001年2月にサービスインしたので、いつもは2月にRed Ballが開催されているのですが今年から5月開催になりました。
第1部は今後の戦略など真面目なお話。第2部が懇親会になっています。たくさんのガイドが参加するので入口で担当サイト名と名前が入った名札が配られるのですが、サイト名だけなので、なかには「ED 〇〇」という名札の方もいらっしゃいます。EDというのは不能ということで、ちょっとまずいでしょう(笑)。
名札にはRed Ballの参加回数も書かれていて私は13回でした。なんせふだんは出会いそうもない、その道のプロと出会うチャンスなんで、できる限り参加しています。関西のガイドに皆さんとも久しぶりにお会いして、飲んで食べて帰ってきました。