2分間隔で電車が来る東山線

nagoya201210.jpg名古屋市新事業支援センターへ行くのに近鉄名古屋駅で降りて、地下鉄・桜通線に乗り換えています。今日は朝から名古屋大学の研究室へ行く用事があったので近鉄を降りて、桜通線への連絡口ではなく東山線へ。 

朝の地下鉄東山線・名古屋駅って行ったことがなかったのですが、めちゃくちゃ混雑しています。改札の前に行列ができているのにまずビックリ。改札の先がつまっていて、行列はずっと続きホームに降りる階段もずっと行列です。ただし地下鉄は2分間隔で走っているので、そう待たずにホームに降りることができました。 

この2分間隔は東山線全区間で、この短さは日本一なんだそうです。東京のメトロ丸ノ内線は1分50秒間隔ですが、これは一部区間になります。東山線って、めちゃくちゃすごいダイヤなんですね。あれほどの行列でしたが車内は御堂筋線のようにギュウギュウではなく、少しゆったりしています。すぐに電車が来ることもあって、一杯になりそうになると待つ乗客が多いことが影響しているようです。 

東山線の本山駅で乗りかえて、環状線のように1周している名城線へ。一駅乗ると名古屋大学という駅です。ここの3号出口は名古屋大学キャンパスに直結。濡れずに大学構内に入れます。 

駅から大学まで学生街が広がるというのが定番なんですが、3番出口にそんな風情はありませんねえ。

津城下図

tsu_kotizu201210.jpg三重県産業支援センターで昼休みに中日新聞を見ていると津城下図が発売されたという記事を発見。発売されたのは寛永期(17世紀)、享保期(18世紀)、嘉永期(19世紀)の3枚です。享保期については去年も発売され、たまたま新聞で見つけたのですが、10日ほど経って買いに行ったら早々に売り切れていました。今回は発売開始3日後の金曜に少し時間ができたので津市役所へ出かけて買うことができました。嘉永期は1000部、寛永期、享保期は500部の発売で、金曜日時点で既にだいぶ減っていました。3枚ともゲットできたのはラッキー。 

日曜日は雨でしたので、しみじみと津城下の古地図を眺めていました。実家から三重県産業支援センターへ行く時、近くにある大市神社にお参りした後、神社の裏口を出て、まっすぐ続く道を通っています。郷社「大市神社」は、江戸時代「川松明神」という名前。 

道は庭岩禅寺、八百亀商店(八百屋さん)、佛眼寺、天理教津大教会の横を通って百五銀行本店の裏側で岩田川にぶつかります。古地図を見ると同じ位置に道があり庭岩禅寺や佛眼寺の名前が見えます。何とと言うことはない道なんですが江戸時代から、ずっと続いている道なんですね。 

現在はありませんが岩田川の中には島があり、位置的には中部電力・津支店あたりのようです。 

古地図を眺めて歩くとブラタモリ気分が味わえます。あの番組、復活しないかなあ。 

ボン・ビーバン10月11月号に執筆しています

ボン・ビーバン
全国信用組合中央協会が発行している情報誌「Bon Vivant」(ボン・ビバーン)10月・11月号に執筆しています。全国の信用組合の店頭や、また渉外係が配布されていますので機会がありましたら、ご覧ください。
今回のテーマは「更新しないホームページはつぶれた会社と思われる」で、ホームページはほったらかしにせず、季節やタイミングにあわせて更新しなければなりません。
ホームページに載せるコンテンツがない、何を載せたらよいか分からないという話を時たま聞きますが、そういった時はお客さんからよくある問い合わせをQ&A方式で記載しましょう。いわゆるFAQです。FAQの内容を充実させると必然的にページ数が増え、キーワードからの流入が増えます。

堂島 古河ビル

furukawa201210.jpg堂島へ行く用事があったので懐かしい古河ビルへ寄ってきました。サントリー本社のすぐ近くにあります。 

新卒で入った会社が株式会社SRA。当時はソフトウェア・リサーチ・アソシエィツという長たらしい名前でした。西日本営業所があったのが、堂島グランドビル。1階には第一勧銀と本屋・オーム社が入っていて銀行や本屋にすぐ行けて便利でした。特にオーム社は仕事で使うコンピュータ系の本が揃っていてよかったですね。地下には紅茶専門の喫茶ムジカがありました。 

当時は阪急京都線・上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降り、地下街を20分ほど歩いて堂島グランドビルまで雨に濡れずに行くことができました。梅田のだっだ広い地下街は初めて行ったら絶対に迷いますね。あまりにすごいので「梅田地下オデッセイ」(堀晃)というSF小説までありました。 

堂島グランドビルの5階か6階に会社があったのですが、手狭だったこともあり、すぐ近くの古河ビルにもオフィスを借りていました。プロジェクトによって移動したのですが古河ビルにいることが多かったですね。古河ビルは地下街と直結しておらず、サントリー本社近くに地下街への降り口があり、雨が降っていたら古河ビルの入口まで走らないといけませんでした。 

プロジェクトが佳境に入ると深夜まで仕事をすることもしばしば。そのまま古河ビルに泊まり込んでしました。冬で寒いからリストを体に巻きつけて寝たこともありましたが、リストはゴワゴワするだけで、暖かくないことを学習しましたね。古河ビルの地下には床屋、郵便局、歯医者があり、こっちも便利なビルでした。 

池の谷古墳(池の谷砦)

ikenotani201210.jpg津の実家から国道23号線を伊勢方面(津)へ行くと垂水という場所があります。 

垂水は津の中心市街を通らずに抜けることができるバイパス道路と合流するところで、いつも混んでいます。ここから南が丘方面に丘を登る道路があり、丘を登ったところにマルヤス南が丘店新鮮館というスーパーがあります。スーパーの後ろが高台になっていて今は住宅地になっていますが、ここにあったのが垂水城(北鷺城)。今は何も残っていません。 

垂水城から少し行ったところに池の谷古墳という前方後円墳が住宅地のど真ん中にあるんですが、ここも高台の上にあります。古墳は見晴らしのよい所に作られましたので戦国時代はよく砦として使われました。この古墳が池の谷砦跡です。 

垂水城は津近辺を支配していた長野氏の城で、南側の北畠と対立していました。この垂水城が最前線の城になります。池の谷砦は垂水城の出城か、北畠側が垂水城を攻めるために作った付城のようです。前方後円墳の円墳と方墳の間に堀切があると現地の案内板に書かれていましたが、ちょっと窪んでいるぐらいで、よく分かりませんね。 

ただ眺めはめちゃくちゃよく、平清盛など伊勢平氏がよく利用していた安濃津の港がすぐ下に見えますし、伊勢神宮への街道も上から見下ろせます。南側を見ると伊勢中川あたりが見渡せ、先日、行った北畠の天花寺城もバッチリ見えますね。織田信長の伊勢攻めでは長野氏は信長側についてので、まさに垂水が両軍の最前線になりました。 

三重県は近畿か中部か

「三重県は西日本か東日本か」で悩んでいる知り合いがいるので、同じようなテーマで「三重県は近畿か中部か?」を考えましょう。 

地理の教科書で三重県は近畿地方と習いましたが、経済産業省の管轄では中部地方になっています。中部と言っても北陸は関西との結びつきが大きいので東海地域(愛知、岐阜、三重)という場合が多いですね。 

三重県は伊賀・伊勢・志摩・東紀州に分かれていて、歴史的に言うと伊賀、東紀州は近畿で伊勢、志摩は中部です。別の言い方をすると鈴鹿の関の西側が関西ですので伊賀、東紀州は関西。伊勢、志摩は関東です。 

不破の関(関ヶ原)、鈴鹿の関より東にある名古屋はれっきとした関東地域。壬申の乱で大海人皇子が不破の関で近江軍と戦いましたが、ここが東西の分岐点。戦国時代には関ヶ原の合戦も起きました。 

結論、「三重県は近畿でもあり中部でもあります」。 

ですので三重県出身者としては近畿&中部で仕事をしているのは、至極まっとうです。ちょっと移動距離が長いのですが。(笑)

現代ビジネスマンのための学問のすすめ

okuno201210.jpg昨日、大阪産業創造館で知的生産の技術研究会・関西セミナーを開催。 

講師は作家 奥野 宣之氏で、新作である『現代語訳・学問のすすめ』を題材に話をしてもらいました。 

「学問のすすめ」は慶応大学を作った福沢諭吉が明治5年に書いた本ですが140年前に書いた本とは思えず、現在と同じような問題が書かれていて140年間、あんまり変わらなかったんですね。 

福沢諭吉の「学問のすすめ」が発売されたのは1872年(明治5年)。江戸から明治になったばかりで当時の人口は3500万人ほど、「学問のすすめ」は22万部売れました。160人に1人が読んだ大ベストセラーでした。 

■赤穂浪士批判 
「学問のすすめ」という題名ながら学問よりも嫁・姑問題やら上司とのつきあい方など多彩な話題が書かれています。出版当時、問題になってたたかれたのが赤穂浪士の批判。吉良邸への討ち入りは私刑であって法を破っている。幕府の片手落ち裁判を問題とするのなら最後まで裁判で争うべきで、私刑でやってしまったら国が成り立たないという論調です。おかしいものはおかしいと批判ですが、福沢諭吉は世間からはだいぶたたかれたようです。 

■現在と変わらない世相 
140年も前に書かれた内容とは思えない部分がたくさん出てきます。「政府とは優秀な人物をたくさん集めて、一人の愚か者がやるようなことをする所」と定義されています。個々は東大出など優秀ですが集団化すると愚者となります。現在の膨大な国の借金を積み上げてきた政府をみているとまったくその通り。 

また「愚民の上には圧政があれば、良民の上には善政がある」という言葉があり、政府批判をしても結局は「この国民あっての、この政治」。つまるところ国民が悪いと指摘しています。 

「いまの学者はインプットばかりでアウトプットできないものが多い」という言葉は昔も今も変わりませんね。 

また心事(自己評価)と働き(相対評価)のバランスが大切とも書いてあります。例えば自己評価が肥大になると「時代が悪い」と自分のせいではなく世の中のせいにし始めます。 

生活保護の問題についても書かれていて五升の米を与えると三升を酒に変えてしまう者がいると指摘があり、現在の不正受給問題ですねえ。 

会場に本を持ち込んでいただきましたが、早々と完売 

セミナーの様子です。 
http://tiken-kansai.org/TS12/S12-10.html

宮山城址 三重県に残る小牧・長久手の合戦

miyama201210.jpg先日、久居にある宮山城址へ出かけてきました。 

敏太神社の裏手にある山城で、小牧・長久手の合戦の舞台。小牧・長久手の合戦というと愛知県の小牧、長久手だけが戦場と思っている人が多いのですが、三重県内もいろいろと戦場になっています。関ヶ原の合戦も同様で、前哨戦が津城で繰り広げられました。 

宮山城を守っていたのは木造氏。北畠氏の一族だったんですが紆余曲折があって織田信長の伊勢攻め、つまり北畠攻めに参加しています。そんな経緯もあり本能寺の変のあとは織田信雄につかえていました。 

宮山城は近くにある戸木(へき)城の北を防御するための城でした。小牧・長久手の合戦でこう着状態になったこともあり、秀吉は織田信雄の所領である伊勢攻めを行います。宮山城は蒲生氏郷によって攻められ落城しました。今度は戸木城を攻めるための付城になってしまいました。 

戸木城は165号線をはさんだ反対側、現在の戸木小学校付近にあり、高台だった宮山城からはよく見えたでしょうね。宮山城址は敏太神社の裏手を登ると5分ほどで着きます。お稲荷さんがまつられていて、周りを土塁や空堀が囲んでいて、なかなか見応えがありますね。 

石切神社 日下(くさか) 神武天皇の上陸地

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石切神社へ行くとちょうど秋祭りで太鼓台の宮入をしていました。枚岡神社の太鼓台と違って、クラッカーは鳴るし、花吹雪はあるし、なかなか演出が派手。
いつもはお百度参りでにぎわう境内を、ちょうど日下(くさか)の太鼓台が宮入していました。この日下(くさか)ってとっても古い地名で、神武天皇が東征で、たどり着いたのが日下津。古代、大阪は海で、この近辺に港(津)があり、ここから大和へ攻め入りましたが長髄彦に負けて遠く熊野へ迂回して、大和へ攻め入ります。
神武天皇を助けたのが、神武東征以前に大和へ舞い降りていた天つ神「饒速日命(ニギハヤヒ)」。物部氏の祖先です。その関係なのか石切神社は物部の神様になっています。たぶんこのあたりは古代から物部の土地だったんでしょうね。
→ YouTubeにアップしています(1分ほど)

奈良公園内にあるお城 西方院山城

sika201210.jpg冗談のような話ですが奈良公園の中にお城があります。 

奈良公園には昔から何度も行っていますが、お城がよもやあるとは知りませんでした。少し前に奈良の城一覧を見ていたら奈良公園にあるのを発見。今日は朝から伊賀の企業へ行っていましたので関西本線での帰り、奈良駅で降りて城を見てきました。 

場所は奈良ホテルの向かい側、瑜伽神社の裏手にあります。入口は奈良ホテルの駐車場なんですが、とんでもない場所で、調べて行かなければ絶対に分かりませんね。しかも主郭まで登らないといけないので、ちょっと大変です。でも見応えのあるお城で、二重になった空堀や土橋など見事に残っていますね。主郭からは興福寺の五重塔が見えます。奈良公園の一角なので主郭には鹿がいました。 

このお城の名前は西方院山城(さいほういんざんじょう)。たった3日間という短命のお城でした。城が出来上がった3日間後に筒井氏が攻めてきて落城してしまいました。実は道路をはさんだ向かい側にある奈良ホテルにも昔、城があり、名前は鬼薗山城。遺構は何も残っていません。