ITベンダー座談会

itc201210.jpg三重県産業支援センター会議室でITC三重の定例会を開催。 

ITC三重の会員で地元のITベンダーに勤めておられる4人をパネラーにいろいろと質問をぶつける座談会を開催しました。 

20代の頃、大阪でシステムエンジニアやプロジェクトマネージャーをやっていましたが、三重県のITベンダーの状況についてはよく分かっていません。ですので前からいろいろ聞きたかったのですが、ようやく実現しました。企画の言いだしっぺでしたので私がコーディネータを担当。 

ITベンダーといっても様々ですね。大手はJ-SOXの関係で内部統制はしっかりしていますが、管理面ではコストがかかりそうです。質問はいろいろで業界標準に比べて安いのか高いのか、リーマンショックの影響はどうだったのか、ぶっちゃけ儲かっているのか等、いろいろお伺いしました。こりゃAllAboutの記事にもできそうですねえ。一番、タメになったのは私です。(笑) 

社団法人 三重県情報通信基盤整備協会が解散するので、三重県にはITベンダーの団体がなくなってしまいます。ITC三重は基本的にコンサルティングの集まりですし、情産協もないし、どうなるんでしょうね。

10代目パソコンを注文

cfj10201210.jpgセミナーなどで遠方へパソコンを持っていくことが多いので、堅牢でコンパクトなLet’s Noteを愛用しています。Rシリーズがなくなったので、現在はJシリーズを使っているのですが3日ほど前から無線LANがつながらなくなりました。 

メーカーのFAQコーナーを参考にしながらドライバーなどを入れ直してみたのですが復旧せず、BIOS画面でも認識されないのでハードエラーのようですね。メーカーに問い合わせても同じ返事でしたので週末に修理に出すことに。 

修理中、パソコンがないと仕事になりませんのでネットで新しいパソコンを注文。数えてみたら新しいパソコンで10代目になります。最初に買ったパソコンがMac SE HD40(当時のハードディスクは40メガバイト)で50万円ほどしました。白黒ではなくカラーいいと買ったMac LCが35万円。さすがに昔に比べたら安くなりましたが、高い買い物ですね。 

明日、パソコンが届くようなので、せっせとデータ移行の準備をしております。

真田幸村 最後の地

aijinnjya201210.jpg先日、四天王の古書市へ行ったついでに安居神社へ寄ってきました。四天王寺・西大門から西にずっと坂になっていて、坂の途中に安居神社があります。ちょうど一心寺の前になります。 

一心寺の裏側が天王寺公園になっていて、公園の中に茶臼山古墳があります。大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」が行われました。 

茶臼山の戦いでは真田幸村の突撃で、家康軍は総崩れ、旗本も逃げ出し、この時に本物の家康は死んだという説があり、 堺市の南宗寺には「家康の墓」があります。大阪人は太閤さんを滅ぼした家康を嫌いなので、プリンセス・トヨトミめいた話がまことしやかに残っています(笑)。 

真田軍の攻撃であわてふためいた家康の本陣は大混乱。三方ヶ原の戦いで信玄に敗れて以来、倒れることがなかった旗指物が倒れてしまいました。大久保彦左衛門が家康からの質問に「いいや、倒れなかった」と頑固に主張して徳川家の名誉を守った逸話が残っています。 

後詰がない真田軍も追撃が続かず、真田幸村はこの地で討ち取られました。境内には真田幸村戦死跡之碑が残り、六文銭の旗がはためいていました。 

真田幸村の突撃は敵方の多くの書物に残されており、島津は「真田は日本一の兵」と記録しています。 

宣長ってどんな人?

motoori201210.jpg松阪にある「オーダシャツのHashimoto」へ寄った時に「宣長ってどんな人?」という冊子をもらってきました。橋本さん、ありがとうございます。 

宣長とは本居宣長のことで、今年は古事記編さん1300年ですので、注目はやっぱり本居宣長でしょうね。古事記は712年にまとめられましたが、伝わっている古事記は1371年に書き写された「真福寺本古事記」が一番古いものになります。と言うことは原本に何が書かれていたかは定かではありません。他の話が入ったり、間違った字で写していることもあります。 

そこで本居宣長が始めたのは古事記と同時期に出来た万葉集の研究。古い言葉を正しく読めるところから始めました。そして35年かけて出来たのが「古事記伝全44巻」、古事記の解説書です。現在の古事記の基本はこの解説書から始まっています。 

■酒は3杯まで 
この本居宣長ですが、筆まめで死ぬまで細かく記録をつけています。家計簿まで残っているので、いつ何をしたかが、よく分かります。若いころはいろいろと羽目をはずしていたようで京都へ遊学していた頃は、よく酒を飲んでいたようで。噂を聞いた母親から、「この手紙が届いた後は、3杯以上のお酒を飲んではダメ」とダメ出しを受けています。 

■参宮幸便 
江戸時代、手紙は飛脚が運んでいましたが、小さな村などに届けるのは日数もかかり大変。そこで全国にいた宣長の弟子が考えたのが参宮幸便。本居宣長の家は参宮街道から一本入ったところにありましたので、伊勢神宮へお参りする人に届けてくださいと預けていました。また伊勢参りの後にできたら返事ももらってくださいと頼んだそうです。 

写真は本居宣長の家の跡地。家そのものは松阪城に移転し、本居宣長記念館になっています。ここからは松坂城が目の前に見えました。 

■松阪の一夜 
師である賀茂真淵と会ったの生涯たった一度。昔の教科書に載っていた逸話ですので年配の方はよくご存知ですね。賀茂真淵は伊勢参りの途中、松阪の新上屋に泊まり、宿から連絡を受けて本居宣長と会っています。この新上屋って、商店街の真ん中にあったんですね。知らなかった、今度、松阪へ行った時に探してみます。 

枚岡神社 秋郷祭り2012

hiraoka2012.jpg今日、明日は河内一ノ宮・枚岡神社の秋郷祭り。河内のお祭りは「だんじり」か「ふとん太鼓」が定番ですが、枚岡は「ふとん太鼓」です。祭は14日、15日の曜日固定ですので、平日にあたることも多く、今年は日曜にうまい具合にあたりました。 

祭が平日になると近辺の企業はもちろんお休み。従業員が、ふとん太鼓を担ぎますので仕事になりません。さすがに小学校や中学校はやっていますが、担ぎ手になっている子供たちは早退したり、休んだりします。先生もよくわかっているので見て見ぬふりとなります。(笑) 

枚岡神社は生駒山の裾野にありますが、けっこう高台です。麓の一の鳥居から急な坂を登るのですが難所の一つが枚岡駅の線路越え。近鉄の係員がダイヤ表を片手に少し長めの間隔の時にふとん太鼓を一気に通します。踏切を抜けるとまた急坂が待っていて登り切るとようやく枚岡神社です。この踏切を23基通しますので、大変です。 

電車は徐行になりますが、なんで駅にこんな人だかりが出来ているんだと怪訝そうな顔をする乗客ばかりですね。

All About「企業のIT活用」あなたも容疑者に!?

All About「企業のIT活用」のガイド記事をアップ
大阪府吹田市の男性が大阪市のホームページに無差別殺人予告の書き込みをしたとして逮捕。同様に伊勢神宮の爆破予告をしたとして三重県津市の男性が逮捕されました。逮捕の理由は威力業務妨害容。威力業務妨害容疑とは威力を用いて他人の業務を妨害する罪で3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処せられます。
2つの事件ともウイルスによって第三者が遠隔操作した模様で2人とも事件と無関係だった可能性が高く、釈放されました。
それにしても怖いのは第三者によってなりすまされることで誰もが身に覚えのない犯罪の容疑者に仕立て上げられるということです。

天花寺城 三重の山城

tengeiji201210.jpg近鉄中川駅から大阪に向けて出発すると川を渡った左側にこんもりとした森が見えてきます。この森は丘になっていて、ここが天花寺城跡。こんな所に山城があるって、全然知らなかったのですが、今、発売されている「三重の山城ベスト50を歩く」に出ていました。 

現在でも名古屋、伊勢、大阪の分岐点になっている交通の要所ですので平安時代には既に城が作られていました。南北朝時代から伊勢国司であった北畠家が支配し、足利幕府の戦いでも天花寺城の名前が出てきます。 

地名の由来となった天華寺が城のすぐそばにあり、天平時代に作られた伽藍がありましたが、織田信長の伊勢侵攻で焼けてしまいました。現在、天華寺は丘の上に移転しています。 

道路の右手に見えているところが主郭のあるところで、藪の中に入ると堀切もしっかり残っていました。ずっと奥に進むと虎口もあり、なかなか見応えがあります。虎口というのは城の入口で、防御の要になるところです。と言っても藪の中にある単なる土の山なんですが(笑)写真を撮りましたが、単なる藪としか見えません。やっぱり現地で見るに限ります。 

現在、道路になっているところも郭があったのですが、すっかり破壊されてしまいました。丘上からの眺めはよく、久居や伊勢湾がよく見えます。反対側は山が連なり、北畠の本拠地である多気につながりますので織田信長との戦いでは最前線になりました。 

四天王寺の古書市で古地図をゲット

kohon201210.jpg四天王寺秋の大古本祭りへ。 

境内に入るとちょうどゴーンと鐘が鳴っていました。北の引導鐘と言うそうで、お堂の鐘の音は遠く極楽までも響くと言われています。お寺の古書市ならではですね。 

四天王寺・西大門の転法輪を回して古書市へ。ここは能「弱法師」の舞台になっているところです。京都・知恩寺の古書市に比べると規模は小さいのですが、いろいろな専門分野の古書店が揃っています。いくつかのお店をまわって古地図をいろいろ買ってきました。その中に吹上に名古屋刑務所があった時代の古地図がありました。 

今、マネージャーで行っている名古屋市新事業支援センターはこの名古屋刑務所跡にあります。当然、100メートル道路もありません。よく見ると吹上に電車が走っていて尾張電気鉄道とあります。ネットで調べると元々は愛知馬車鉄道だったそうで、後に尾張電気鉄道に社名を変更。千種から八事を結ぶ路面電車だったようです。後に新三河鉄道となり昭和12年に解散してしまいました。へ~え、こんな電車が走っていたんですね。 

名鉄瀬戸線(瀬戸電気鉄道)も現在の栄ではなく、名古屋城のお堀を走っていました。 

なんでも相談会(松阪商工会議所)

松阪商工会議所
松阪商工会議所で「なんでも相談会」。
年1回開催しています。相談会前の主催者挨拶を聞いていたら今回で25回目、よく続いています。松阪商工会議所の1階ホールに弁護士、行政書士、税理士、不動産鑑定士など様々な専門家が集まって、事業者はワンストップで相談ができます。毎年、出席していますが今年も新規開業・経営相談を担当していました。
ただ土曜日の関西なので事業者の相談は少なく、一般市民の参加が多いですね。弁護士相談はいつも賑わっています。今日はいつもに比べて全体の相談者が少なく、そら鈴鹿でF1、津と伊勢では祭なので、見に行ったり参加したりしている事業者が多いのでしょう。

断夫山古墳(熱田神宮)

kofun201210.jpg熱田神宮のすぐ近くに熱田公園があり、公園の中には熱田球場があります。公園にはこんもりとした森になっているところがあり、これが東海地域最大の前方後円墳「断夫山古墳」。6世紀初頭に築造されたと言われています。 

先日、行ってみましたが東海地域最大と言いながら全長151メートルほどと、こじんまりした古墳でした。堺の大仙山古墳のように1周2.7kmもあって、1周するだけで息も絶えだえになることはありません。断夫山古墳の外周をまわると、きちんと円や方墳の形が分かり、なかなか見応えがあります。 

古墳に葬られているのは、どうも尾張氏の首長であった尾張連草香(おわりのむらじくさか)のようですね。熱田神宮は尾張氏の本拠地で、宮司は代々、尾張氏が勤めていました。 

壬申の乱の時には桑名まで来た大海人皇子に協力して、大友皇子を倒すのを手伝いしました。と言言うよりも、尾張氏を当てにして吉野を脱出したのが真相のようです。大海人皇子の乳母は尾張の大海氏の娘で、大海氏は尾張氏の同族です。 

昔の熱田神宮と言えば、熱田台地の端にあり、すぐそばが海だったため、断夫山古墳は船から見るよいランドマークになったでしょうね。