脇坂安治陣跡

脇坂安治陣跡

松尾山城の麓にあるのが脇坂安治陣跡。

土塁に囲まれた郭跡があり、かなりの軍勢が駐屯できましたが、小早川秀秋が攻めてきたら、あっという間にやられますね。

脇坂安治は賤ヶ岳の七本槍の一人で、洲本藩主になった時に壮大な山城・洲本城と造ります。脇坂安治は家康側でしたが大坂にいた時に石田三成が挙兵したために、やむをえず西軍として参加します。小早川と一緒に西軍を攻め、家康も事情は分かっていたようで戦後処理でも所領は安堵になりました。脇坂家は龍野をおさめることになり明治まで続きますが、おかげで古文書が伝わり、最近、秀吉と脇坂安治がやりとりした文章が見つかります。

伊賀をおさめていた脇坂安治に京都御所造営の材木調達なんかより戦働きしたいとサボっていると、しっかり材木を出せと叱責している秀吉の手紙です、子飼いのきやすさが伝わる手紙になっています。

松尾山城

松尾山城へ

松尾山城

小早川秀秋が本陣をおいていた城で、主郭からは関ケ原が一望できます。松尾山城は廃城になっていた城を修復して使ったもので、主郭の周辺には5つの郭があり、かなり技巧的で見ごたえあります。関ヶ原の戦いでは松尾山城には伊藤盛正が入っていましたが、小早川秀秋が追い出して入城します。

■不遇だった秀秋
小早川秀秋は秀吉の甥っ子で豊臣秀次につぐ後継者候補でした。ところが秀頼誕生によって運命が狂わされます。毛利一族の小早川家に養子に出され、秀吉に領地を減らされたり散々な目にあいます。そら豊臣家には恩よりも恨みの方が強いでしょうね。

決戦日前日に1万5千もの軍勢を松尾山城へいれます。関ケ原には大谷刑部しかおらず、大垣城を守っていた石田三成ら西軍の面々は小早川に対抗するため、関ケ原へ移動します。戦いが始まると小早川秀秋は日和見をして、家康に鉄砲を打ちこまれるシーンがドラマに出てきますが、実際はさっさと東軍についていたようで、ただし山を下るのに1時間ほどかかります。小早川勢に向けて陣を構えていた大谷刑部は攻撃を跳ね返しますが、結局は破られてしまいます。

関ケ原勝利の立役者になり岡山55万石となりますが、無類の酒好きで子供の頃から飲んでいたため22歳の若さで病死しています。無嗣断絶だったため小早川家は改易となりました。

お茶屋屋敷・赤坂宿

岡山にある家康本陣の近くを中山道が通り、赤坂宿がありました。関ヶ原の戦いが終わった慶長10年(1605)に赤坂宿の高台に築かれたのが、お茶屋屋敷です。この年は家康と秀忠が上洛し、家康から秀忠へ征夷大将軍が引き継がれた年です。将軍職を世襲し豊臣方に政権を渡さないという意思表示したと、よく映画やドラマで描かれますが、秀吉は関白(公家の頂点)になっているので秀頼が関白職を継げば問題ないと考えていた説もあります。

■屋敷ではなく城
さて、お茶屋屋敷は家康が造った上洛用の宿泊施設です。屋敷という名前がついていますが完璧に城です。四方を土塁と堀で囲み、隅には櫓がありました。今は土塁と堀しか遺構がありませんが、中には岐阜城の麓にあった信長の居館などを移築して使っていました。お茶屋屋敷は家康は秀忠が使っていましたが、将軍が上洛する機会が減り、維持費が大変なことから建物などを取り壊されました。

街道筋にいくつかこういったお茶屋屋敷が造られ、近江・野洲に永原御殿跡がありますが、ここも完璧な城でした。

関ケ原の戦い 岡山家康本陣

岡山家康本陣

家康が全国の大名に東軍につくよう江戸から勧誘の手紙をせっせと送っているところに、福島正則ら先発隊が岐阜城をわずか1日で落城させたという報が届きます。そんなに早く落ちるとは思っていなかった家康は、家康が着くまで待てと先発隊に飛脚を出し、中山道を進んでいる秀忠軍にも美濃に急ぐように連絡します。あわてて江戸から出陣し東海道を進んで到着したのが大垣赤坂にある岡山です。岡山の頂上に家康の馬印があらわれたことで西軍に動揺が拡がります。

大垣でレンターサイクルを借りて岡山本陣を目指しましす。まあまあの距離があります。低い山ですが寺の敷地で登れなくなっていました、残念。そんな情報はしっかり出しておいてよ。本陣をおいた岡山は低山ですが、当時は高い建物がなかったので石田三成側からの物見からはよく見えたでしょう。さすがに岡山は大垣城から離れすぎていて家康の旗印を見るのは無理ですねえ。西軍では家康出現の動揺をおさめるために島左近が一計をたてて杭瀬川の戦いを行い、東軍との初戦に勝ち士気を高めました。

織田信長 居館跡

織田信長居館跡

ぎふ金華山ロープウェーのすぐ近くにあるのが織田信長居館跡。斎藤道三の頃から舘があり、当時の石垣も残っています。信長が迎賓館として大改修しています。現在も発掘調査が続いており、館跡からは金箔を施した瓦の破片が発掘され、ルイス・フロイスの「日本史」に、庭園を見た後に濃姫の金で彩られた部屋を訪れたと記述していることから、濃姫の館と類推されています。

フロイスによると庭園が4つも5つもあり、建物は4階建てで見晴らし台からは町が一望できました。フロイスは岐阜城にも招待されており、エッチラオッチラと登山したんですね。昔の人は本当に健脚です。

公家の山科言継が家康に後奈良天皇の法事への寄付をお願いに三河へ行く途中、岐阜に立ち寄った時は家康には飛脚を送るから岐阜に留まればよいと歓待を受けて1ケ月ほど滞在し、家康からの資金調達にも成功しています。信長は岐阜城と麓の館の間を、よく行き来しており、ほんまに健脚ですなあ。

鷺山城

鷺山城

岐阜でセミナーをしたついでに斎藤道三の鷺山城へ行ってきました。

山城には珍しく歴史が分かっています。鎌倉時代、佐竹秀義(佐竹家3代目)が築城し、室町時代は美濃国守護である土岐氏が使っています。麓には土塁と堀で守られた福光御構が造られ、守護所がありました。守護所はこの後、革手城、大桑城へと移転します。大河ドラマ「麒麟がくる」では大桑城が守護所になっていました。

土岐氏を追い出した斎藤道三が家督を斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居します。濃姫は鷺山城で生まれ、織田信長に嫁ぎ、鷺山殿と呼ばれています。鷺山城は公園になっていて遊歩道がついていて登りやすくなっています。堀切や郭跡などが残っていました。長良川の対面に稲葉山城(岐阜城)が見えます。

観覚寺城

観覚寺城
観覚寺城

応仁の乱から戦国時代にかけて大和では国人どおしの戦いがあり、飛鳥(明日香)も戦場となったため城塞がたくさん造られました。談山神社で有名な多武峰にも城塞群が拡がります。

壁画が国宝となったキトラ古墳の近くに高取町大字観覚寺という集落があります。韓国にある石組みのオンドルを備えた大壁建物が見つかり東漢氏(やまとのあやうじ)の根拠地だったようです。東漢氏は阿知使主(あちのおみ)を始祖とし、子孫には征夷大将軍の坂上田村麻呂がいます。

この観覚寺に造られたのが観覚寺城です。山の頂上に主郭があり、3つある尾根に郭が拡がっています。頂上の竹藪などが伐採されていて見やすくなっていました。観覚寺城近くには紀路が走り、街道を抑えることができました。

南朝側だった越智氏が高取城を築きましたので、本拠地である越智谷と高取城を結ぶ線にあった観覚寺城を造ったのは越智氏と考えられています。

不破の関(関ヶ原)

不破の関
関ヶ原シリーズもいよいよ最終回。
■関ヶ原は壬申の乱の舞台でもある
関ヶ原の戦いよりも900年ほど前にあったのが壬申の乱。徳川家康が最初に陣地を置いたのが桃配り山で、大海人皇子が兵士に邪気を払う桃を配り快勝したことにちなんでいます。関ヶ原は交通の要所で中山道が通っており、北国街道、伊勢街道に分岐しています。この関ヶ原にあった不破の道を封鎖したのが大海人皇子。
壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位して天武天皇になり、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所を設置します。写真は現在の中山道で、ここから急な下り坂になり、坂を下ると藤古川があります。下からみると崖になっていて、この場所に不破の関が作られました。現在も土塁などの一部が残っています。関所というと箱根の関所のようなイメージですが、古代の関所は広範囲に土塁や壁で囲まれた施設で部隊が駐屯していました。
■非常事態には関を閉じる
天皇がなくなったり非常事態が起きると三関が閉じられます。これを、固関(こげん)と呼んでいます。外部から都への侵入を閉じたのではなく、都側の方を閉じました。不破関も東側はなだらかな丘陵で壁があっただけですが、都がある西側は藤古川と急な崖で防衛されていました。
大海人皇子は関東の尾張族の力によって壬申の乱を勝ちましたが、同じように外部の勢力と結びつかないようにしたためかもしれません。威力を発揮したのが藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。藤原仲麻呂はクーデターに失敗し、息子がいる北陸に逃げようとしましたが、愛発関が閉じられ突破できず、結局、琵琶湖で討伐軍に討ち取られます。

藤堂高虎、京極高知陣跡(関ヶ原)

藤堂高虎、京極高知陣跡
まだまだ続く関ヶ原シリーズ 第12回は藤堂高虎・京極高知陣跡です。
東軍の第一軍が福島正則隊で、藤堂高虎・京極高知は第二陣になります。不破の関跡あたりまで進軍し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広(美濃垂井城主)と交戦。小早川秀秋軍とともに大谷軍を破っています。
■京極高知
京極高知は名前の通り、近江守護で北近江をおさめた京極氏。浅井氏は京極氏の被官でしたので小谷城には京極丸があり、名義上の盟主を京極氏にしていました。信長が清州城に尾張守護の斯波氏を迎えていたのと同じ構図です。もっとも信長は途中で斯波氏を追放してしまいました。
京極高知の兄が京極高次で奥さんは浅井三姉妹の初。大河ドラマ「真田丸」では姉の淀君への使者として登場するはずです。関ヶ原の合戦の時は大津城城主で西軍の立花宗茂らに攻められましたが関ヶ原の合戦時までねばり、立花宗茂らは関ヶ原に間に合わず結局、西軍の勢力をそぐことに成功します。京極氏は兄弟で家康側として戦いました。
■藤堂高虎
藤堂高虎は最初、浅井の家臣ですので、京極氏は昔の主筋。ともに戦うことになった時、感慨深いものがあったでしょうね藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将として有名ですが、江戸時代、外様だった高虎を家康がめちゃくちゃ信頼していましたので、半分以上は譜代のやっかみでしょう。藤堂高虎は秀長(秀吉の弟)に仕えた時に頭角をあらわし、はじめて自分の力量を評価してもらえる主人と巡りあい、せっせと働いて自身も大名になります。ところが長年、仕えた秀長が病死し、後を甥の秀保が継ぎ、家老として後見します。秀保の代理として文禄の役にも出征しますが、この秀保も若くして亡くなってしまいます。ホトホトいやになったようで、高野山に出家。この時は秀吉が説得して還俗させます。
藤堂高虎といえば旗印にしている三つの白餅が有名ですが、他にもいろいろな逸話が残っています。関ヶ原で敗れた石田三成に声をかけ、わが軍の直すべきところを教えてほしいと言った話は有名です。津藩の初代藩主となります。

福島正則陣跡(関ヶ原)

福島正則陣跡
関ヶ原シリーズ よく続きますねえ。(笑)
第11回目は福島正則陣跡です。
関ヶ原駅から少し西に向かうと松尾という交差点があり、少し南に行った春日神社の境内に福島正則陣跡があります。この神社の大杉は樹齢800年で、400年前の関ヶ原の時にもあり、関ヶ原合戦屏風の真ん中に描かれています。神社も当時からあったようで祠も描かれています。ここらあたりに陣を置いた福島正則は目の前の宇喜多軍とぶつかりますが、宇喜多勢の前衛が大河ドラマ「真田丸」にもきっと出てくるキリシタン武将・明石全登です。
■石田三成がきらいだった福島正則
福島正則は小さい頃から秀吉に預けられ加藤清正らとともに、秀吉の奥さん「お寧」に育てられ初陣は播磨の三木城攻めだったようです。文禄の役の頃から、石田三成とはそりがあわなかったようで、七将による石田三成襲撃事件にも加わっています。
先日、「地形で読み解く真田三代最強の秘密」(朝日新書)を読んでいたら、この襲撃事件の話が載っており、福島正則は三成に襲撃を事前通告していたそうです。石田三成が挙兵するか家康のもとへ行った時に殺してしまおうと考えていましたが、家康はそんな安直な道を選ばず、三成を隠居させることになります。この時、佐和山城へ送り届けたのが家康の次男・結城秀康で三成は結城秀康に秀吉からもらった名刀・正宗を送り、現在まで伝わり重要文化財になっています。ただ、三成の隠居がきっかけで関ヶ原の合戦になりましたので家康も驚いたでしょう。
■名槍を黒田家にとられた福島正則
大河ドラマ「黒田官兵衛」でも描かれていましたが、福島正則が黒田家家臣・母里友信に酒すすめたところ、断られ酔っていた福島正則は母里友信を罵倒し、「これしきの酒が飲めないのか、飲めたら何でもやるぞ!」と言ってしまいます。酒癖が悪かったようですね、自戒しないと(笑)。怒った母里友信が見事に酒を飲みほし、秀吉からもらった名槍をまんまとせしめます。これが「酒は呑め呑め~」の黒田節となります。
関ヶ原の後、福島正則が領地にしたのが広島藩。三成とは反目していましたが、気持ちは豊臣方だったため大坂の陣では江戸にとどめられます。家康が死んだ後、広島城の石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反にとらわれ、結局、福島家はとりつぶしとなりますが旗本としては残りました。