正倉院展2023

正倉院展

正倉院展はコロナ禍以降、予約制になっていますのでレイトチケットを予約、平日だと入場は16時からで500円割引されて1,500円になります。インバウンドで一杯の「ひがしぬき商店街」を抜け、修理工事が始まった興福寺の五重塔を眺めながら国立博物館に16:30頃に行くと入口には誰もいません。会場内はそれなりに混雑していますが17時で入場がストップになるので、どんどん人が減っていきます。

螺鈿装飾された鏡と琵琶は目玉ということもあり人気ですね。面白かったのが常陸国から送られた白の反物です。古代の税制で租庸調を習いましたが、調とは繊維製品を納めるのが基本で布で納めると調布と呼ばれます。展示されている反物は調布そのものでした。あと道鏡直筆の文章がありました。「鏡」は独特の書体のサインで鏡とはよめませんね。道鏡は孝謙上皇の病気を治したことから寵愛を受け、道鏡を天皇の位につけようとした時に和気清麻呂が阻止した事件で有名です。道鏡は物部氏系の弓削氏で、孝謙上皇がたびたび行幸した由義宮はJR志紀駅のすぐ近くにあります。

志貴県主神社

志貴県主神社

東高野街道から少し離れたところにあるのが志貴県主神社。県主(あがたぬし)って日本史で習いましたね。県主という言葉に反応して東高野街道からはずれて訪れました。

ヤマト朝廷が任じた地方官で国(国司)の下が県(県主)になります。一帯には志貴県が置かれ、志貴県主が管理していました。実際は地域の実力者を追認するイメージでしたので、けっこう羽振りがよかったようです。古事記には、いい家に住んでるんじゃないかと雄略天皇にいちゃもんをつけられる志貴県主が登場します。

■タイパ重視で総社となる
志貴県主神社近くに石器時代から続く国府遺跡があります。奈良時代になると河内国の国府が置かれ、国府遺跡は有力候補ですが、まだ見つかっていません。国府が置かれたことで志貴県主神社は総社になりました。国司が赴任すると一宮から順番に任地の神社を挨拶回りするのが慣例でした。

タイパ重視なのは昔も変わりません。全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府の近くの1ケ所に集めることで、総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。岡山県の総社市には美作国の総社神社があります。そら1つの神社を回っただけで全部OKなんでお得ですね。今も四万六千日(しまんろくせんにち)なるもんがあって1日のお参りだけで46,000日分の功徳があるというラッキーデーです。

東高野街道をゆく(道明寺)

道明寺

近鉄・道明寺線の名前の由来になっているのが道明寺です。天覧相撲に勝った野見宿禰を祖とするのが土師(はじ)氏で道明寺あたりを本拠地にしていました。もともとは土師氏の氏寺である土師寺と土師神社が中心で道明寺天満宮(土師神社)近くには土師寺時代の五重塔礎石跡などが残っています。当時は大伽藍だったんですね。道明寺天満宮の一角には元宮・土師社があり、野見宿禰が祭られています。明治の神仏分離で道明寺は天満宮と別れ東高野街道を隔てた西隣に移されました。

道明というのは菅原道真の幼い時の名前だそうで、本当ですかいなあ。道真が大宰府に向かう時に道明寺にいた伯母を訪ねたそうです。土師氏は西大寺近くの菅原の地にも住んでいて、道真の曽祖父の菅原古人の時に菅原氏を賜っています。お母さんは伴氏です。

東高野街道をゆく(薄田兼相の墓)

薄田兼相の墓

薄田兼相(すすきだ かねすけ)は秀吉の馬廻り衆でしたが大坂冬の陣で失態をおかします。剛勇の武将として有名だったので豊臣方の期待も高く、阿波座近くにあった博労ヶ淵砦の守将を命じます。ところが、遊女屋で遊んでいる最中に、砦を徳川方に陥落されてしまいます。

味方からは「橙武者」と軽蔑されてしまいます。意味は橙(だいだい)は大きくて色はいいが、正月の飾りにする以外になんの役にもたたない、です。面白い話なんですが1次資料には出てこないのでガセネタかもしれません。一説には薄田兼相は歌舞伎で有名な豪傑・岩見重太郎とも言われています。

夏の陣では道明寺の戦いに出陣し、誉田八幡宮から出撃します。先に出陣した後藤又兵衛に続いて、戦地に到着する予定でしたが濃霧で進軍が難しく、薄田兼相が到着した時には後藤又兵衛は討ち死にしていました。薄田隊も徳川軍に各個撃破され薄田兼相は討ち死にします。東高野街道からちょっと離れたところにお墓があります。

東高野街道をゆく(誉田八幡宮)

誉田八幡宮

応神天皇陵の南にある誉田八幡宮で、祭神はもちろん応神天皇で両親となる神功皇后、仲哀天皇も祭神になっています。応神天皇については実在説、架空説がありますが、なんらかのモデルになった人物はいるようです。神功皇后の三韓征伐はどうかなと思いますが、好太王碑があるので、倭が百済や新羅といろいろと渡り合っていた時代です。応神天皇は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)ともいいます。

誉田八幡宮は簑の辻近くで応神天皇陵という高台もあるので陣をはることが多く、戦場になりました。南北朝時代には楠木正行が陣をおいています。室町時代は畠山政長と畠山義就の後継者争いで誉田合戦が行われます。大坂夏の陣では、薄田隼人正が境内に陣を敷いて出撃していきました。

東高野街道をゆく(白鳥神社)

白鳥神社

東高野街道と竹内街道が交差する簑の辻を北に進むと白鳥神社の参道があります。

■ヤマトタケル
古代の英雄である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東国征討の後、伊吹山の神との対決に敗れます。草薙剣を尾張の奥さんの元においていったのが仇になりました。病気となり大和を目指しますが、能煩野(のぼの 三重県亀山市)で亡くなります。死に際に望郷の思いから歌ったのが「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるわし」です。奈良というとこの和歌ですね。

■白鳥陵
亡くなった日本武尊は白鳥の姿となって飛び立ち、大和琴弾原(奈良県御所市)、河内古市(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。ということで、この3ケ所にお墓が作られます。古市に作られたのが白鳥陵(軽里大塚古墳)です。もともと白鳥陵に神社がありましたが、兵火や慶長の大地震などで衰微し、1784年(天明4年)に現在地に移されました。祭神は日本武尊ですが、八岐大蛇から出てきた草薙剣との関係かスサノオと奥さんのクシナダヒメも祭神になっています。あと明治になって高屋神社を合祀したので、その祭神である饒速日命、安閑天皇も祭神になっています。

石切さんのお祭り

石切神社

土日は石切さん(石切劔箭神社)のお祭りでした。枚岡神社に比べるとこじんまりとしたお祭りです。もっとも、祭り以外は閑散としている枚岡神社と違って、石切さんは毎日、お百度参りや参拝などで賑わっています。

■物部の神様
石切神社も河内にあるので祭神は高屋神社と同じ饒速日命(にぎはやひのみこと)で物部の神様です。一説には神武天皇に抵抗して敗れた長髄彦(ながすねひこ)を祭っているのではという説もあります。河内といえば物部なんですが枚岡神社は別で中臣氏の神様である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭っています。春日大社を創建する時に枚岡神社から勧請されました。

■法通寺跡
祭りにあわせて宝物が穂積殿で公開されていました。「太刀 石切丸」など刀剣が多いせいか、女性が多かったですね。この穂積殿の工事で白鳳時代から室町時代頃まで存在した古代寺院・法通寺の基壇が見つかり、この基壇がそのまま展示されていました。

高田学苑6年制60周年記念同窓会

高田学苑6年制60周年記念同窓会

津市一身田に真宗高田派の本山である専修寺があり、御影堂などは国宝になっています。西本願寺と変わらないでかい伽藍で、この真宗高田派が運営する高田学苑が昔から中高一貫教育をしていて、スタートして、ちょうど60周年なんだそうです。というわけでメチャクチャ久しぶりに同窓会に出てきました。舞台の中央に「南無阿弥陀仏」と額がかかっているのが仏教系ですね。乾杯の前に合掌・礼拝がありました(笑)。

私は9期生で1クラスしかなかったのですが、今は3クラスになっているそうです。一見知事や竹上市長(松阪市)が卒業生代表で挨拶していましたが、一番びっくりしたのがビデオメッセージで流れていた田村真子アナウンサーで高田の後輩だったんですね。朝から「ラヴィット!」をよく見ています。お父さんが田村憲久・衆議院議員で会場で挨拶していましたが、今はなくなった高田中学3年制の卒業なんだそうです。しかも同窓生の弟だったということを初めて知りました。

会場は津駅前のホテルグリーンパーク津でしたが、終わってから、ぞろぞろと各期の卒業生が津駅前の店に入っていきます。9期生はdaRumAというお店で同期会。コロナなどがあったため10年ぶりになります。2次会から参加する同窓生もいて、久しぶりでした。しかし歳をとると病気と年金の話になりますなあ(笑)。

高屋城(東高野街道)

東高野街道をゆく

高屋に築かれたのが高屋城で、もともとは畠山義就が築城したようです。応仁の乱は足利義政の正室である日野富子が我が子を将軍につけたいというワガママが原因ではなく、畠山家の家督相続が発端で、畠山義就は当事者の一人です。高屋城の中を東高野街道が通るようになっていて東海道を城に取り込んだ北条氏の山中城のようです。

■室町時代の事業承継問題
鎌倉時代は後継ぎとなる惣領以外にも所領を分配していたため、結果的に土地が細分化され困窮したところに、貨幣経済に巻き込まれて幕府滅亡の遠因となりました。そこで室町時代になると惣領が全てを承継する形に改められましたが、家督相続争いが各家で勃発することになります。本人だけでなく家来や外野の思惑もあって支離滅裂な状態に。興味がある方はベストセラーになった「応仁の乱」 (中公新書 呉座勇一)をぜひどうぞ!

不動坂(高屋城)

■戦いばかりだった高屋城
高屋城は河内守護の居城のため畠山氏が長く支配しますが、交通の要衝だったこともあり、力をつけてきた三好長慶などと争奪戦が行われ、城主が頻繁に変わることになります。高屋はしょっちゅう戦場になりました。最後は天正3年(1575年)に織田信長が攻めて落城させ、その後は廃城になったようです。ほとんどが住宅地になっていますが城の遺構があちこちに残っていて、東高野街道が通る近鉄南大阪線の踏切がある不動坂には櫓台跡があり土塁の一部が残っています。

高屋神社

東高野街道をゆく

水盛城跡から東高野街道を北上すると高屋という地域に出ます。街道沿いにあるのが高屋神社で式内社(延喜式神名帳に名前が出ており古くからある神社)です。祭神は安閑天皇で安閑天皇陵がすぐ近くにあります。もう一人の祭神が饒速日命(にぎはやひのみこと)で、物部氏の祖神ですねえ。あとから安閑天皇を祭るようになったのでしょう。

高屋は物部氏の系譜である高屋連の本貫地になっています。河内国は物部氏の本拠でしたので、饒速日命を祭る神社が点在しています。面白いことに東高野街道が石川沿いを流れていて蘇我氏の一族である石川氏の本貫でもあります。乙巳の変の後、蘇我倉山田石川麻呂が台頭しましたが、中大兄皇子に攻められて山田寺で自害しました。

高屋神社は明治になってから白鳥神社に合祀されました。朝の連続テレビ小説「らんまん」でも問題になっていた合祀です。昭和になってから旧社地に復興されました。