上ノ山城

上ノ山城
上ノ山城

鳥屋城とともに越智谷の北側を守っていた山城です。上ノ山城というのは仮称で最近、城郭跡と認定され「近畿の城郭5」に出ていました。 

上ノ山城の頂上には威徳天神社があり、越智氏が勧請したようです。北越智町の集落に神社への参拝道があるんですが、これが分かりにくい入口で神社の燈篭が目印になります。頂上まで参拝道が続いており、登っていくと威徳天神社があります。神社からは御所や葛城方面がよく見えます。 

神社境内が削平地になっていて郭跡になっていました。一部には土塁があり、境内奥をずっと行くと堀切がありました。切岸を中心に守る山城のようです。

越智城

越智城
越智城

南北朝から戦国時代にかけ大和で活躍したのが大和四家で越智・十市・箸尾・筒井の四氏でした。越智氏は大和源氏の源親家が平家追悼の戦功によって越智、掖上、根成柿、柏原(御所)の土地をもらい越智粉盛荷ノ岳に居住して越智氏というようになります。

越智氏の居館のあった場所は三方が丘に囲まれ前面には川が流れる要害の地でした。現在は畑になっていますが、オヤシキという地名が残っています。囲まれた丘の上には郭が造られ要害になっていました。

南北朝時代、越智氏は南朝側の中心勢力でがんばっていましたが室町時代、筒井氏と大和の覇権を争い、幕府が筒井側についてこともあり多武峯の戦いで敗れ、越智氏は没落します。ところが遺児が河内守護畠山氏の助けで越智氏を再興し、その後もずっと筒井氏や大和へ侵入してきた松永久秀と戦い続けます。その拠点だったのが越智城です。

鳥屋城

鳥屋城
鳥屋城

貝吹山城を下ると越智谷の北側にある鳥屋町へ出ることができます。ここからは大和三山の一つである畝傍山がすぐ近くに見え遠くには金剛山地が見えます。越智氏の本拠である越智谷の北側には丘陵地が拡がり、丘陵地の先にあるのが春日神社です。眺めがよい高台にあり、ここにあったのが鳥屋城で越智谷への北側の侵入を防いでいました。

越智氏一族に鳥屋氏がいて、この鳥屋氏の城が鳥屋城のようです。ただ城に関する情報はほとんどなく、情報がないなか、とりあえず春日神社へ登ってきました。なかなか見事な山城で春日神社境内が主郭になっていて土塁などが残っていました。藪になっていますが、隣にも郭が続き、橿原高校に向かって郭が続き、こちらが大手道のようでした。

専門家が語る、飲食店のキャッシュレス導入メリット

エプソン販売さんがキャッシュレス決済時代に向けて20~50代男女500名(キャッシュレスをしている人)の実態調査をしたのですが、その分析結果が本日、プレスリリースされました。

~管理コスト削減にも…専門家が語る、飲食店のキャッシュレス導入メリット~
ということで専門家として登場しています。

→ 話題の「キャッシュレス決済」利用してみてわかった! 利用者の実態調査を公開

貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

飛鳥から越智谷に向かう途中にあるのが貝吹山城です。乾城古墳の脇に貝吹山城への案内板が出ていて山道を登っていくと城跡に入れ、主郭には碑が建っていました。現在は木が茂っていますが往時は360度見渡せて眺めがよかったでしょう。

堀切などがあまりなく、たくさんの郭と切岸で構成された山城です。帰りは白壁塚古墳という案内がある山道へ入っていくと途中から藪道になったのですが、なんとか北越智町へ降りれました。

貝吹山城がいつできたかは分かっていませんが越智氏が築いたと言われています。文献によく出てくる城で1573年(天文6年)に河内、山城南部の守護代である木澤長政に攻められます。また天文15年には筒井順昭(筒井順慶のお父さん)の攻撃で開城し、以降は筒井方の城となります。越智氏は1549年(天文18年)、1557年(弘治3年)の2回にわたって貝吹山城を奪おうとしましたが失敗。その後は大和に進出した松永久秀の城となりましたが、1566年(永禄9年)に越智氏が奪還します。永禄11、12年にわたって松永氏の攻勢によって、また開城します。

取ったり取られたりの貝吹山城ですが1580年(天正8年)に織田信長が「大和一国破城令」を出し、郡山城以外の城が破壊されます。この時に貝吹山城も破城されたようです。

子嶋城

子嶋城
子嶋城

子嶋城は最近、発見された山城で「近畿の城郭5」に掲載されていました。観覚寺城から谷を挟んだ対面にある子嶋寺背後の丘陵地にあります。城としては単純な郭が連なった形ですが、尾根筋からの侵入を防ぐために堀切があります。

もともとは付近を支配していた子嶋氏の城だったようですが1516年(永正15年)に子嶋氏から高取城を越智氏が奪った時に、この子嶋城も奪われたのではと考えられています。

郭の開けたところからは観覚寺城がすぐそばに見えて、二つの城で越智氏の拠点である高取城方面への防衛を行っていたようです。観覚寺あたりでは1473年(文明5年)に天理を本拠とする豊田氏と1546年(天文15年)には筒井氏との合戦がありましたので、もともと重要拠点でした。

観覚寺城

観覚寺城
観覚寺城

応仁の乱から戦国時代にかけて大和では国人どおしの戦いがあり、飛鳥(明日香)も戦場となったため城塞がたくさん造られました。談山神社で有名な多武峰にも城塞群が拡がります。

壁画が国宝となったキトラ古墳の近くに高取町大字観覚寺という集落があります。韓国にある石組みのオンドルを備えた大壁建物が見つかり東漢氏(やまとのあやうじ)の根拠地だったようです。東漢氏は阿知使主(あちのおみ)を始祖とし、子孫には征夷大将軍の坂上田村麻呂がいます。

この観覚寺に造られたのが観覚寺城です。山の頂上に主郭があり、3つある尾根に郭が拡がっています。頂上の竹藪などが伐採されていて見やすくなっていました。観覚寺城近くには紀路が走り、街道を抑えることができました。

南朝側だった越智氏が高取城を築きましたので、本拠地である越智谷と高取城を結ぶ線にあった観覚寺城を造ったのは越智氏と考えられています。

桑名三重信用金庫

桑名三重信用金庫
桑名三重信用金庫

三重信用金庫の看板が桑名三重信用金庫に変わっていました。桑名信用金庫と松阪を地盤とする三重信用金庫が2/25に合併しています。以前、北伊勢信用金庫と上野信用金庫が合併して北伊勢上野信用金庫が誕生しており、これで三重県内の信用金庫は・桑名三重信用金庫・北伊勢上野信用金庫・津信用金庫・紀北信用金庫(尾鷲)になっています。


地銀は百五銀行とこれまた三重銀行と第三銀行が合併してできた三十三フィナンシャルグループの二行体制で、北からは大垣共立銀行が西からは南都銀行が県境をまたいで攻め込んでいます。

佐田城

佐田城
佐田城

佐田城の口城から西に道を登っていくと佐田の集落に入り、集落にある春日神社境内には束明神古墳があります。春日神社への道を曲がらずにまっすぐ行くと峠道に入り、与楽の集落に抜けることができます。与楽まで向かわず、峠道のピークあたりから東にある頂上を目指すと佐田城に入れます。「近畿の城郭」の縄張図には南から入れる道が書かれていたのですが、そんな道は見つからず必然的に切岸を登ることになります。 

佐田城は山城では珍しく輪郭式になっていて一段と高い頂上に主郭があり、けっこうな広さがあります。主郭の周りを帯郭が巡り、その下の段にも郭がありました。けっこう広い郭でかなりの軍勢を配置できます。越智氏の貝吹山城のすぐ近くなので越智氏の城だったのでしょうが松永久秀側の附城だった可能性もあります。帰りは南の道を探したのですが、結局、迷ってしまい崖をひたすら降りて峠道にたどりつきました。 

佐田城の口城

佐田城の口城
佐田城の口城

佐田城の口城は「近畿の城郭Ⅳ」に掲載されていた山城で曾羽城の帰りに寄ってきました。

場所は高取国際高校横から束明神古墳へ行く途中にあります。束明神古墳から山を登っていくと佐田城があり、佐田城の口城はこの佐田城の前衛だったようです。

佐田城の口城は越智氏の詰城である貝吹山城の南東に位置するので間違いなく越智氏と関係する城でしょう。東側に大きな堀切があり松永久秀や筒井氏から西側にある越智氏の本拠地を守るための城の一つだったのでしょう。谷を挟んだ向こう側にも城郭跡の遺構が発掘調査で見つかっていますので2つの城で街道をおさえていたようです。

城は主郭を中心に構成された割と小規模の城ですが、後世に畑に改変された部分もあり、もう一つ郭があった可能性もあります。