藤原京・朱雀大路

何もない田園ですが藤原京・朱雀大路跡で、朱雀大路は発掘で幅21メートルの大路だったことが確かめられています。遠方に大和三山の一つである耳成山があり、持統・文武・元明の三代にわたって白鳳文化が花開きました。まさに「天上の虹」(里中満智子)の舞台ですねえ。そうそう日経新聞「私の履歴書」の連載も続いています。701年の大宝律令により倭国から日本へと国号を変え、律令を基にした中央集権国家となります。

藤原京・朱雀大路
藤原京・朱雀大路

藤原京建設では中国の古典「周礼」に記述されている理想の都城を参考にしたようで宮殿を真ん中に置きました。663年、白村江の戦で有名ですが唐・新羅連合軍と戦ったことから唐とは長らく国交断絶。702年に30年以上途絶えていた遣唐使を派遣したら唐の長安の宮殿は一番北側にありました。「天子南面す」が基本だったようです。今さら都を作り変えることもできないので平城京から宮殿を一番北に置く形になります。

サンパルがいよいよ建て替え

神戸・三宮にあるサンパルが、いよいよ建替工事に入るということで、神戸に行ったついでに見てきました。ほとんどのテナントが撤去していました。

サンパル
サンパル

2013年~2016年の3年間、サンパル6Fにあった「ひょうご産業活性化センター」で経営相談をやっていましたので毎週、行っておりました。阪神電車で行くと東口からミントや地下スーパーを通って雨の日に濡れずに行くことができました。もっとも朝はスーパーが閉まっているので濡れないといけないのですが(笑)

ランチはサンパル1Fにあった金魚で日替わりランチを食べていました。古書店もあったし、隣のダイエーにはジュンク堂(ダイエーはなくなりました今もジュンク堂はあります)もあり、めちゃくちゃ環境がよかったですね。1Fには大きくて安い事務用品専門店もありました。そうかサンパルがなくなるのかと、しみじみ。

淡路へ

今は昔、ニフティーサーブという摩訶不思議な仕組みあり、エフライセンスに集いし若者たちが...

ニジゲンノモリ
ニジゲンノモリ

というわけでパソコン通信時代に各地域にあった中小企業診断士・勉強会の全国オフ会が令和の時代になっても続いております。今年は淡路が舞台でした。遊びあり勉強ありでニジゲンノモリを訪問。ただ遊んでいるわけではなく、参加者の知り合いがパソナ勤務ということで贅沢に園内を案内いただきました。なんやかんやで1000人の雇用につながっているそうです。

元気な一団は地球の平和のためにゴジラ退治に向かっていました。もっと元気な一団はドラゴンクエストの謎解きに挑戦したのはいいのですが、思いのほか時間をとられ、結局、次の会社訪問から合流することになってしまいました。

磐余甕栗宮

雄略天皇の息子が第22代・清寧天皇です。雄略天皇が倭王「武」ではないかと言われていますので倭の五王の次の時代の天皇となります。在位期間がわずか4年間で妃も子供もいなかったので実在しなかったのではという説もあります。清寧天皇の後は雄略天皇に殺された市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)の子で播磨に逃げていた兄弟(仁賢天皇、顕宗天皇)が即位します。

御厨子神社
御厨子神社

実在したかどうか分からない清寧天皇の宮が磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)。磐余池を高台から見ることができる場所に御厨子神社(みずしじんじゃ)があり、ここが磐余甕栗宮と言われています。境内には真っ二つに割れた岩があり、柳生にある一刀岩のようです。あちらは鬼滅の刃人気になっていますが、こちらは誰もいません(笑)。

磐余玉穂宮

Googleマップで見ると若櫻神社(履中天皇磐余稚桜宮跡)のすぐ近くに継体天皇磐余玉穂宮跡とあります。磐余池のすぐ横で、現地へ行ってみましたが畑が広がり何もありません(笑)。

Googleマップ
Googleマップ

継体天皇は応神天皇の5世の子孫とあり、5世ともなると血統の薄さは1/32ですね。大和朝廷で何らかの事態があったようで越前や近江を拠点としていた男大迹王を招いて継体天皇となります。当時は水運が物流の要でしたので宮は淀川沿いに造られました。

樟葉宮(即位した場所)-京阪・樟葉駅から東に歩いた高台にあります。
筒城宮ー同志社大学・田辺キャンパスにあります
弟国宮ー阪急・長岡天神駅から行けるのですが、まだ行ったことありません

磐余玉穂宮ー晩年になって、ようやく大和に入り磐余池近くに宮を作りました。

磐余若櫻宮

近鉄・桜井駅からまっすぐ南へ行くと谷という土地があり、ここの丘陵上に若櫻神社があります。戦国時代には城が造られ土塁跡がいまも残っています。

若櫻神社
若櫻神社

仁徳天皇の息子である第17代、履中天皇が皇后と磐余の市磯池で遊宴中に、桜の花が盃に落ちたことを機に宮を磐余稚櫻宮と名づけます。この谷にある若櫻神社ではないかと言われていましたが磐余池が発掘で見つかったことから、池ノ内の若櫻神社が濃厚です。

池ノ内の若櫻神社は磐余池跡から東に行った小高い丘の上にあります。階段を登ったところに社殿がありますが、大きな削平地が確保されており、城を造るには絶好の場所ですね。当時の大和朝廷はまだまだ安定していなかったので丘の上を宮にしたのかもしれません。磐余の市磯池は若櫻神社の東側にあった模様で、現在は田園地帯になっています。

天の香久山

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
持統天皇の歌です。

天の香久山

日経新聞「私の履歴書」が里中満智子で、1983年に「天上の虹」を編集者に短めの連載にしてねと言われながら連載開始。結局、32年もの連載となりました。主人公はもちろん持統天皇です。香久山・頂上からは畝傍山や二上山がよく見えます。また国常立(くにとこたち)神社があり、天地創成神話の国土神の最初の神さまです。

香久山は特別な山だったようで長髄彦に敗れた神武天皇は遠く、熊野から大和入りします。この時、密かに天香山の土をとって来させ、平皿八十枚と瓶を作って天神地祇を祀ります。これで勝ちます(笑)。ほんまかいな~あ。特別な力があったのが香久山のようです。

軽の池

近鉄・橿原神宮駅の近くにあるのが石川池(剣池、軽の池)。「軽の池の浦 うらみ行きみる鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに」(軽の池の浦を泳ぎ回る鴨ですらも玉藻の上に独りで寝ることはないだろうに…)という紀皇女(きのひめみこ)の歌が万葉集に掲載されています。池のほとりに孝元天皇陵がありますが、ホンマかどうかは分かりません。

軽の池
軽の池

南北に走る上ツ道が山田道になって東西を走るようになり軽で下ツ道と交差します。交通の要衝ですので飛鳥時代には「軽市」と呼ばれる市場があり、繁華街で出会いの場でもありました。柿本人麻呂も妻を軽市でゲットしたようで、妻が亡くなると軽市の雑踏の中に亡き妻の面影を求める歌を残しています。

軽には懿徳天皇・孝元天皇・応神天皇が宮を置いたと日本書紀に書かれていますが、懿徳天皇・孝元天皇は欠史八代(実在が怪しまれる)なので、ホンマかどうかは分かりません。

雷丘城

山田道を山田寺を超えて、ずっと進むと飛鳥資料館があり、さらに先に進むと水落遺跡のちょっと先に雷丘(いかづちのおか)があります。

雷丘城

柿本人麻呂の「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に 庵りせるかも」で有名ですね。雷丘の近くにあったのが推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)です。雷丘へ徒歩かレンターサイクルで向かうと東側から登ることができ、上に登ると雷城の遺構を見ることができます。久しぶりに飛鳥へ行ったので城跡を見てきました。

戦国時代、飛鳥は戦場となり雷丘も城郭に改良されました。郭との間の空堀や帯郭が残っています。飛鳥時代の遺構はこの時に破壊されてしまったようです。近くには雷ギヨン城があります。

山田寺

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏でありながら、乙巳の変では中大兄皇子、藤原鎌足側につき新政権では右大臣に任じられます。そこで建立を開始したのが山田寺です。上ツ道から山田道に入る所に安倍寺の建立がはじまり、山田道沿いの飛鳥入口にあたる部分に山田寺が建立されます。

山田寺
山田寺

ところが謀反の噂が流れ、石川麻呂に孝徳天皇の軍勢が差し向けられても抵抗せず、山田寺で自害します。石川麻呂は冤罪だったと言われますが諸説あります。なんか山背大兄王の事件とよく似ていますね。

■山田寺仏頭
山田寺の建立は中止されていましたが、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后の菟野皇女(持統天皇)の尽力もあって完成します。興福寺の僧兵が力を持つようになると山田寺に押し入り、本尊を強奪してしまいます。その後、火事などがあり仏頭だけ残り、現在、興福寺国宝館に公開されています。行くたびに「山田寺から奪い取りやがって」と見ています。

■東回廊
山田寺はやがて荒廃していきますが、現在も水気が多いこともあり倒れた東回廊が、そのまま地中に残っていました。復原された形で飛鳥資料館に展示されています。