算定基礎届を提出

算定基礎届
日本年金機構から算定基礎届の提出についての書類が届いていました。
算定基礎届は社会保険料の計算に使われます。会社に勤務すると毎月、給与が支払われますが残業代などで変動します。そこで4月、5月、6月の給与を合計して平均を出したものをもとに標準報酬月額が決まります。
つまり4、5、6月の給与をもとに、その年の9月から翌年8月の社会保険料が決まります。給与には残業代、通勤費、各種手当などが含まれますから3~5月の残業が多いと社会保険料が高くなるといわれるのは、この算定基礎届に起因しています。
ウチは固定の役員報酬だけで、標準報酬月額の変更もないので何の問題もなく提出しておきました。

奥州藤原氏終焉を見つめた平泉館(柳之御所)

平泉館(柳之御所)
初代、藤原清衡が作ったのが平泉館(ひらいずみのたち)で3代秀衡が再整備しました。源頼朝が大軍で平泉を攻めてきた時、4代泰衡が自ら平泉館に火を放ち炎上しました。後世、柳之御所と呼ばれるようになります。
■平泉館をめぐる空堀
発掘によって会議や接待などに使った2つの大きな建物と厩などの附属建物や庭園が見つかっています。平泉館は奥州藤原氏の政庁でした。また平行する2本の空堀が見つかっています。
2本の空堀は時期が異なり、併存していないようで、3代秀衡の頃は平泉館を囲む形で幅10メートル、深さ4メートルの空堀が巡っていました。この秀衡時代の空堀の一部が復元されています。こうなると中世城郭ですね。空堀は延長すると500メートルもあったそうで3ケ所で橋がかかっていました。
■奥州藤原氏の終焉
藤原秀衡は京都、鎌倉とも距離をとった局外中立でしたが、源頼朝にとって奥州は源頼義、源義家以来の源氏にとって遺恨のある土地ですから、ぶつかるのは必定。そこで藤原秀衡は流浪していた源義経を平泉に招き入れ、17万騎の武士団をまかせることにしましたが、義経が平泉入りして9ヶ月に死去。
このチャンスを逃さず源頼朝は自ら軍を率いて平泉に進軍。4代泰衡は義経を討ち取り、首を差し出しますが、頼朝の目的は違っていますので奥州藤原氏は滅びることになります。この歴史の舞台がこの平泉館でした。

源頼義が戦勝祈願した中尊寺・八幡堂

八幡堂
陸奥守に任じられた源頼義は奥州を目指します。
衣川柵の手前、月見坂(平泉)の脇に八幡堂がありました。月見坂は中尊寺の本堂へ至る上り坂になっていて、八幡宮は月見坂のすぐ脇にありますが、皆さん素通りするところになっていて誰もお参りしている人はいません(笑)。
現在のような中尊寺の伽藍が整備されたのは藤原清衡の時代ですが、当時すでに中尊寺は開山し、いくつかのお堂があり、その一つが八幡堂でした。
■八幡宮で戦勝祈願
源頼義は、進軍中に戦勝祈願をあちこちで行っています。陸奥国守に任命される前、源頼義は相模国守でしたので、奥州へ出かける前に相模国にある鎌倉の鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)に戦勝祈願をしています。また杉並区の大宮八幡宮もこの時の進軍がゆかりでできた八幡宮です。八幡といえば武運の神様なんで、戦勝祈願には最適でしょう。
織田信長も桶狭間へ向かう途中、榎白山神社、日置神社、熱田神宮で戦勝祈願をしていました。尾張にも若宮八幡社などがあるんですが通り道じゃなかったんですかねえ。
■安倍首相は安倍氏の末裔
月見坂の八幡堂ですが、中尊寺を超えれば、すぐに衣川柵での戦いが待っていますから、源頼義は、かなり熱心に安倍氏追討を祈願したことでしょう。前九年の役で滅ぼされた安倍氏ですが、末裔が安倍晋三(内閣総理大臣)となります。と本人が講演で言っています。

南部氏の居城・盛岡城

盛岡城
盛岡市の中心部にあるのが盛岡城で南部氏の居城でした。現在は公園として整備され、石垣や郭跡が残っています。
南部氏の本貫は甲斐国南部郷でしたが源頼朝による奥州平泉攻撃に参陣し、陸奥を領するようになります。南部氏は武田氏と同じ甲斐源氏の系統で鎌倉時代以降、明治まで同じ土地を領有したのは薩摩の島津氏と南部氏だけでした。
■九戸政実の乱
伊達政宗と違い、豊臣秀吉と親交があった南部信成は小田原征伐にも参陣し、所領を安堵されます。奥州仕置の一環でしたが、おさまらなかったのが九戸政実で、室町幕府からは南部宗家と同列の武将と扱われていましたが、奥州仕置により南部家家臣という立場になってしまいます。
そして”九戸政実の乱”が発生します。戦国時代最後、九戸城という山城を舞台にした戦いになり、九戸城が中世終焉の地となりました。乱を平定した後に築城されたのが現在の盛岡城です。
■幕末、藩論が揺れる
幕末、新政府につくか幕府につくかで藩論が分かれましたが、仙台藩の圧力もあり奥羽越列藩同盟に参加。隣の久保田藩(秋田藩)が新政府についたので大館城に攻め入り落城させます。この時に全焼したため大館城(桂城)には堀と土塁しか残っていません。

厨川城(安倍館)

厨川城(安倍館)
■前九年の役
盛岡には前九年一丁目というバス停があります。そう、日本史で習った”前九年の役”の舞台で、今はすっかり住宅地となっています。
前九年の役といえば河内源氏が台頭するきっかけとなった戦い。実質的な独立国家・安倍一族と朝廷側の争いで朝廷から陸奥守として派遣されたのが源頼義。最初、安倍氏は抗戦せず服従策をとりますが、どうも源頼義が陰謀を仕掛けたようで全面衝突となり、これが前九年の役。ところが安倍氏は強く、源頼義は大敗します。そこで源頼義は局外中立を守っていた清原氏を味方に引き入れ、安倍氏は滅びます。
有名な「年を経し糸の乱れのくるしさに」「衣の館はほころびにけり」という和歌が交わされたと逸話があるのが、この前九年の役です。
■安倍氏館(厨川柵)安倍氏館があったところが安倍館町という地名で残っており、ここに厨川柵がありました。この時代のものは残っておらず、鎌倉時代に地頭として工藤氏が派遣された時に厨川柵跡に厨川城が築かれ、現在は住宅地に厨川城時代の深い堀切がいくつも残っています。7つの郭があったようで、主郭のあったところは神社と保育園になっていました。
厨川城は川沿いの切り立った崖の上にあり、他の三方を堀切が巡る形になっています。
■斯波氏
源頼義の子供が八幡太郎義家で共に前九年の役、後三年の役を戦います。この義家が源頼朝、足利尊氏の先祖となります。坂上田村麻呂が築いた志波城は斯波城とも書き斯波郡にあります。ここを本貫(苗字)にしたのが足利氏の分家である斯波氏で、室町幕府では三管領家の筆頭となりました。
斯波氏は越前、尾張、遠江の守護でしたが、越前は守護代(現地の支店長)だった朝倉氏に奪われ、遠江も駿河守護だった今川氏に奪われます。残ったのが尾張で、ここの守護代のそのまた家来だったのが織田信長。結局、尾張からも追い出されてしまいます。

坂上田村麻呂の城 志波城

志波城
志波城とは征夷大将軍である坂上田村麻呂が造営した古代城柵で、蝦夷に対する最前線の城でした。志波城ができたのは蝦夷の首長アテルイを降伏させた翌年の803年(延暦22年)になります。
もっとも蝦夷から見たら、平和に暮らしていた共和国になだれ込んできた、ならず者の帝国軍(坂上田村麻呂軍)ということでしょう。
■征夷大将軍とは
源頼朝、足利尊氏、徳川家康と皆、征夷大将軍です。幕府を開く条件が征夷大将軍になることだと思っている人も多いのですが、そんなことはなく大将軍の一つの役職です。源頼朝が朝廷に大将軍に任命してほしいと依頼したら、縁起が良い坂上田村麻呂を先例としようと朝廷から征夷大将軍に任じられただけです。豊臣秀吉は関白職で、武家も公家も支配していました。
■蝦夷の首長アテルイ
文献に志波城が登場しますが、どこにあるか分からず長らく幻の城でした。東北自動車道建設に伴う発掘で発見、今は公園として整備され南門や築地塀が復元されています。外郭は840メートル四方という広大な城で、自転車じゃないと回れません。
坂上田村麻呂に降伏したアテルイは平安京に連れてこられ、坂上田村麻呂の助命嘆願もかなわず処刑されました。アテルイのお墓は枚方市のどこかにあるようですが詳細は分かっていません。地元の名士ですので、東北本線では急行「アテルイ」が走っています。タカラヅカでは「阿弖流為―ATERUI―」の公演も行われました。
坂上田村麻呂の墓は京都・山科の勧修寺近くに坂ノ上田村麻呂公園があり碑が建っていますが、近年、ここではなく西野山古墳が本命視されています。

ネットを使って魅力発信

大館商工会議所
大館商工会議所で「ネットを使って魅力発信」というタイトルでセミナーをしてきました。
大館には松下村塾が模築されており、大館の将来を明るく夢のある街にしていくためのトップリーダーならんとする人材を育てる場として大館松下村塾が開講されています。この大館松下村塾でのセミナーでした。
塾長は知的生産の技術研究会でお世話になっている高橋さんで、午前中は高橋さんによるマネジメントゲーム、午後が私の担当でした。
講師の話を一方的に聴くような形態ではなく、受講生自らが考えて、行動を起こすような場をというリクエストでしたので、講義半分、演習半分という形で4時間のセミナーをしてきました。皆さん、熱心に取り組んでおられました。

大館へ

大館
お仕事で秋田犬の故郷・大館へ到着。
ザギトワ選手にマサルを送ったのが秋田犬・大館の秋田犬保存会。そして忠犬ハチ公の故郷でもあります。そうそう忠犬ハチ公の飼い主である上野先生は久居(今は津市)出身で久居駅前に上野先生とハチ公の銅像が建っています。
■大館への道
大館と聞いても土地勘がないので、東北新幹線から在来線に乗ればよいと思ったら、東北本線が盛岡までで、そこから先はIGRいわて銀河鉄道になっていました。

IGRいわて銀河鉄道経由を使って大館へ行くこともできますが、本数がない!というわけで盛岡駅から大館駅へ向かう「みちのく号」に乗車。
高速をひたすら走るものだと思ったら、安代というバス停では途中で高速で降りてバス停に寄ってから、また高速に再度、乗りました。オイオイ。高速を降りて、鹿角あんとらあ前からは延々と地道を走ります。そら盛岡ー大館間が2時間以上かかるはずです。
■地元スーパー「ITOKU(いとく)」
そうそう大館は「えだまめ」の産地でもあります。地元のスーパーであるITOKUの野菜売り場を覗いてみましたが「えだまめ」は時期ではないようで鹿児島県産の「えだまめ」が売られていました。時期といえば大館あたりでは、最近田植えが行われたようで、早場米の産地である三重に比べると2ケ月ほど遅いですね。
充実していたのは精肉コーナーで桃豚や比内鶏などが安く売られています。ITOKUスーパーは秋田から青森にかけて25店舗展開しているそうです。
ホテルの横に広大な空地があり、これがジャスコの跡地。タクシーで聞いたら、地元のITOKUに負けて撤退した後なんだそうです。

大石内蔵助屋敷・長屋門

大石内蔵助屋敷・長屋門
播州赤穂城に元禄時代の建物は残っていませんが筆頭家老だった大石内蔵助屋敷の長屋門だけは残っています。元禄14年3月14日に発生した松の廊下での刃傷事件を知らせるため、早かごが仕立てられ、江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さで赤穂に到着したのが早水藤左衛門と萱野三平。大石内蔵助に知らせるため、この二人が叩いたのが、この長屋門です。
結局、浅野家は改易となり、大石内蔵助は城を明け渡します。残務処理の後、6月に京都・山科へ移動し、遊興にふけったとあります。映画、舞台では敵の目をあざむくためと描かれていますが、本当に遊んでいたのかもしれません。
お大石内蔵助は家再興を画策していましたが、潰えたため江戸に移動し、討ち入りとなります。切腹した赤穂浪士のお墓は泉岳寺にありますが、幕府は泉岳寺から1kmも離れていた高輪大木戸をわざわざ泉岳寺近くへ移転させます。品川宿と高輪大木戸はすべての旅人が通る道で、必然的に泉岳寺がクローズアップされます。旅人を通じて日本中に忠義の話が伝わるようにしたのは、幕府の教育政策だったようです。
赤穂、山科とも大石内蔵助の屋敷跡は大石神社になっています。