白樫城(湯浅)

白樫城(湯浅)
湯浅の山城といえば湯浅城。
ほかにも広城がありますが、さすがにこの時期、本格的な山城に登るのは無理です。ほかにないか探してみると白樫城がありました。しかも湯浅駅のすぐ裏。というわけで湯浅へ行ったついでに登ってきました。
場所は満願寺です。現在の境内に白樫氏の館があったようで、裏山に詰城がありました。現在は墓地になっていて上まであがると湯浅の街が見渡せます。墓地のさらに奥に城跡がありそうなんですが、藪だらけでさすがに断念。
白樫城は、紀伊国守護職であった畠山氏に仕えていた白樫五兵衛実房が1522年に築城したようです。しかし1585年の秀吉による紀州征伐により落城しました。

沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀の国みかん船”

広村堤防
湯浅といえば醤油発祥の地だけでなく、”稲むらの火”でも有名です。
安政南海地震が発生し津波が襲った時、濱口梧陵という庄屋さんが藁の束(稲むら)に火をつけて避難路を確保し村人が助かった史実です。2次被害を防いだだけでなく、偉かったのがその後、住人の多くが家や職を失い、村人は津波の再来におびえて、他の村へ移住する者も出りました。そこで庄屋さんは私財を投じて堤防造りを行います。村人に日当仕事を与えることにもなりました。こうして出来上がったのが広村堤防で、今も海岸沿いに残っています。写真の道路の両側にあるのが堤防です。この庄屋さんがヤマサ醤油の当主です。
湯浅と言えば、もう一つ。”沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀の国みかん船”、そう紀伊国屋文左衛門です。この紀伊国屋文左衛門が生まれたのも湯浅です。紀州出身の松下幸之助が建てた紀伊國屋文左衛門生誕の碑が残っています。

「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅

湯浅
お仕事で醤油発祥の地・湯浅へ。少し時間があったので町をぶらついてきました。
鎌倉時代の禅僧が宋で修行して金山寺味噌を持ち帰り湯浅の人に製法を伝えます。味噌を造る過程でそれまで捨てていた、野菜から染み出した水分が、とても美味しいことに気づき、これが醤油の発祥となります。
この湯浅の出身だった濱口儀兵衛が銚子に渡り、できたのがヤマサ醤油です。ですので「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地が湯浅となります。
日本遺産にも登録されたそうです。大和ハウスが湯浅を舞台にしたテレビCMを流していましたが、醤油醸造の「角長(かどちょう)」が今も残り、醤油を船で積みだした大仙堀には醤油発祥の地と看板があがっていました。街中に醤油の匂いが漂うのがいいですねえ。
→ 共創共生「湯浅町・醤油少年」 

筒井城

筒井城
大和を中心に活躍した戦国武将といえば筒井順慶、河内から大和に攻め込んできた松永久秀と戦っていました。大和の国人が筒井側、松永側などに分かれて戦ったため大和一帯は戦場となり、あちこちに環濠集落ができることになります。東大寺大仏殿を焼け落ちたのも松永久秀との戦いの一つです。
松永久秀は足利義昭を奉じて上京してきた織田信長にいち早く恭順してしまい、大和の一任を認めてもらいます。あとがなくなった筒井順慶は落ち延びてチャンスを待ち、松永久秀が織田信長を裏切った時に足利義昭に接近、辰市城の戦いで宿敵・松永久秀を打ち破ることに成功します。明智光秀のあっせんもあり織田信長からは大和守護を任じられ、この後、織田信長の戦いに駆り出されることになります。
筒井順慶が危なかったのが本能寺の変。明智光秀はいろいろと恩をかけた筒井順慶は味方についてくれるだろうと考えていましたが、順慶は日和見することなく中立を選びました。明智光秀は洞ヶ峠に出陣し筒井順慶を待ちましたが現れませんでした。後世、なぜか「洞が峠をきめこむ」という日和見をあらわす慣用句として使われるようになります。
■激戦の舞台 筒井城
近鉄・筒井駅の近くにあるのが筒井城です。筒井一族の城で常に激戦の舞台となり、城を取ったり取られたりした平城です。城は微高地になっていますが周りは湿地帯で攻める方は大変。水攻めの舞台となった備中高松城や忍城と同じような形態の城です。今は農地と住宅地になっていますが、堀や土塁の一部が残っています。
筒井順慶は居城を筒井城から近くの大和郡山に城を築き移します。やがて秀吉の時代になると、秀吉の弟である秀長が大和郡山城へ入り、筒井順慶は国替えとなり伊賀上野城を築きます。伊賀上野城には筒井時代の天守台跡が今も残っています。
昔、筒井康隆の小説に「筒井順慶」がありました。

京都橘大学で情報処理講座

京都橘大学
1年ぶりに京都橘大学へ行ってきました。
以前は学生相手に情報処理講座を担当していましたが、最近はWOC認定看護士講座だけを担当しています。受講生は学生ではなく北海道~四国から集まった現役の看護士さん。教室でいつ倒れても大丈夫です(笑)。
京都駅から大学まで乗り入れている山急バスで行ったのですが、丘の裾野にバスロータリーができていて終点がこのロータリーになっていました。以前は丘の上が終点だったんですが正門が3月から変わったそうです。
ですので丘の裾野から丘の上の方にある情報処理教室まで、ひたすら階段を上がることに。私の母校の京都産業大学のように階段が多い大学に変貌していました。こりゃ通学するだけで体が鍛えられますなあ。今日一日で講座が終わったのでミニ・アスレチックは終了です。

BLAST研究会

BLAST研究会
昨日はBLAST研究会。2002年度大阪地区で実務研修した中小企業診断士仲間が中心となってスタートした研究会で15年以上、続いています。
BLASTという名前は『一吹きの風』を意味していて、沈滞化の激しい日本経済に吹き抜ける『一吹きの風!』という気持ちを込め命名したとありますが、どうしても2003年に流行して世界を恐怖に陥れたウイルス名を思い出しますね(笑)
発表は3本で
『診断士協会と独立5年の振り返り』
『くもぴょんプロジェクト その1』
『スーパー戦隊の組織論』
の出し物のあと、インド料理店で交流会でした。

番条環濠(大和)

番条環濠(大和)
戦国時代は自力救済の時代。自分の身は自分で守らないといけませんので、発達したのが環濠集落で大坂の平野郷や堺など、たくさんあります。環濠集落とは防衛力を高めるたえに村の周りに水堀をめぐらせたものです。奈良の大和郡山の南東にあるのが番条環濠で、今も環濠が残っています。
北、中、南の垣内(区画)に分かれ、それぞれの垣内の出入口は2つしかなく防衛力を高めていました。また水堀も屈曲させ横矢がかかるようになっています。村人の家はすべて環濠に面していて、全村民が均等に防衛していました。
応仁の乱の動乱に大和の国も巻き込まれましたが番条にいた国人の番条長慶は南大和の越智氏ともに畠山義就を支持していました。ところが畠山義就と対立した畠山政長に味方した筒井氏が越智氏を打ち破ってしまったため、番条長慶は館を自ら焼いて番条から脱出してしまったことが当時の日記に残っています。
見捨てられた番条の人々は筒井方に攻められて大勢が死んでしまいました。なぜか番条氏はまた舞い戻ったようです。軍事集落でしたので松永久秀と筒井順慶の争いでは番条環濠は陣所として取り合いになっていました。

大和小泉城(片桐城)

大和小泉城(片桐城)
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として有名な片桐且元。大河ドラマ「真田丸」では小林隆が演じていました。豊臣方と家康の板挟みにあい最後は豊臣方に疑われて茨木城に退去します。「大坂の陣」の後、片桐且元の本家は竜田藩(法隆寺近くにあります)となりますが4代で断絶。
弟の片桐貞隆は竜田藩のすぐ隣にある大和小泉で大名となり、小泉城(片桐城)を築きます。こちらは幕末まで続き、今も片桐氏の子孫が住んでいて、近くの高林庵には隅櫓を模した建物が建っています。
小泉城ですが今は何も残っていません。丘の上に小泉城の碑が建ち、堀が池となって少し残っています。JR大和小泉駅から富雄川を超えた少し先に小泉城があります。