どうする家康

大河ドラマ「どうする家康」が始まっていますが、なかなか面白いですね。時代考証が小和田哲男さんということもあり山城シーンは、けっこうリアルです。

大高城
大高城

家康が丸根砦を落としながら大高城へ兵糧を入れるシーンが出てきましたが、実際の丸根砦は東西36メートル、南北28メートルの単郭になっています。ドラマのように砦の間を進んでいくわけではないですが、砦を攻撃しながら、砦直下の街道を兵糧入れしました。大高城は岡城になっていて、信長と相対するシーンが出てきましたが、高さもバッチリです。ちなみに写真は大高城の郭から見た丸根砦です。ドラマで信長がいた所は今、住宅地になっています。当時、大高城のすぐ横は海になっていて、けっこう史実にリアルです。

■見どころは三方ヶ原の戦いでの選択
家康は寅年生まれだと、自分自身でも宣伝していますが実は卯年生まれという資料も残っていて、また岡崎に入ったものの大樹寺で襲われて自害しようとしたシーンなど、今までの家康のドラマでは、なかなか出てこないシーンも出てきます。

家康、最大の危機は三方ヶ原の戦いで最新の学説では三方ヶ原に向かった武田信玄が方向を変え堀江城の攻略に進んだようです。堀江城は浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えると物流がとめられ浜松城は息の根を止められます。浜松城に籠城しても出撃しても、どちらも悪手ですが、このシーンがどう描かれるかですね。

池田恒利の屋敷跡

小城町
池田恒利といえば池田恒興のお父さんです。
池田恒興は織田信長の乳兄弟(信長の乳母が池田恒興の母)で、信長のそばで戦い続けました。信長に謀反を起こした荒木村重の花隈城をおとした後、兵庫城を造り城主におさまります。本能寺の変の後、織田家の行く末を決める清須会議にも参加し、秀吉側につきます。
秀吉が家康と戦った小牧・長久手の戦いでは遠く迂回して三河を攻める作戦に従事しますが家康に見破られ、戦死します。嫡男も戦死したため、家督は次男の池田輝政が継ぐことになります。そう、今に残る姫路城を造った池田輝政です。
さて池田恒興のお父さんだった池田恒利の屋敷跡ですが、何も残っておらず、ただ地名が小城町となっています。前田利家の城のすぐお隣さんだったんですねえ。

前田利家の荒子城

荒子城
久しぶりに名古屋でお仕事
大阪は晴れていましたが名古屋へ出てきたら雪景色。日が当たっているところは雪が解けていましたが、日陰はアウトバーン状態で危ない、危ない。
場所が荒子だったので、ちょっと早いめに行って荒子城跡へ。そう前田利家ゆかりのお城です。このあたり一帯を治めていました。単郭で堀が巡っていたようですが、遺構は何もなく石碑が建っているだけです。跡地は神社になっています。場所は荒子観音の西南200メートルほどのところにあります。

信長・六角氏同盟

桶狭間
先日、読売新聞に信長・六角同盟の新説が紹介されていました。
桶狭間合戦討死者書上という江戸時代に書かれた書状があり、このなかに今川方の戦死者が2,753人。織田方の死者が990人余りと書かれています。この織田方の死者に272人の近江・六角氏の援軍が含まれていたという記述があり、注目を集めています。
■六角氏
六角氏といえば佐々木氏の一族で、同じ一族である京極氏と争い、北近江が京極氏、南近江を六角氏がおさめることになります。この京極氏を追い落としたのが浅井氏。浅井氏の小谷城には京極丸があり、旧主である京極氏に由来します。
信長が足利義明を奉じて上洛する時、六角氏は信長に対抗します。信長に攻められて破れ、居城である観音寺城を立ち退きます。この観音寺城の横に後年、造られたのが安土城です。信長と六角氏はずっと争っていたのが定説でしたが、この書状の情報が本当なら桶狭間の戦いの時は同盟していたことになります。足利義昭は京都脱出後、一時期、六角氏にかくまわれていたので、この時に足利義昭を介して信長と六角氏が同盟を結んでいた可能性があります。
もし同盟が小牧山城築城あたりまで続いていると、小牧山城の三段の先進的な石垣はテクノクラート集団だった穴太衆を六角氏から借り受けて、実現したものかもしれません。

名古屋城 本丸御殿

名古屋城
名古屋・丸之内で会議でしたので、少し早く行って名古屋城・本丸御殿を見てきました。
本丸御殿は天守閣ともども空襲で焼けてしまい、復元工事が進んでいます。3期に分けて公開しており、この6月から新たに対面所・下御膳所が公開されています。対面所の襖絵には愛宕山や賀茂競馬や和歌浦天満宮が描かれています。和歌浦天満宮といえば紀州東照宮があるところで、名古屋の名所ではないんですなあ。
なんで和歌山なのか調べると紀州藩・初代藩主である浅野幸長の娘「春姫」が1615年に尾張藩・初代藩主 徳川義直に輿入したことに、ちなんでいるそうです。名古屋では春になると婚礼行列を再現した春姫道中をやっているそうで、今年で22回目。名古屋で仕事をしていましたが、そんな行事があったとは初めて知りました。
それにしても1615年といえば大坂夏の陣で後藤又兵衛や真田信繁が倒れ、豊臣家が滅亡した年です。そんな時に家康は着々と手を打っていたんですなあ。
ちなみに万城目学によると、この時に大阪国の母体が生まれています。

小牧・長久手の合戦の舞台 蟹江城

蟹江城
関ヶ原の合戦は美濃の関ヶ原だけでなく東北から九州まで各地で戦闘が行われましたが、小牧・長久手の合戦も尾張だけでなく伊勢などが戦場になりました。
■蟹江城合戦
名古屋から桑名へ向かう途中にあるのが蟹江。蟹江駅の近くの地名はそのものずばり「城」になっています。戦国時代、ここに蟹江城がありました。現在は住宅地に本丸にあった井戸が残っているだけです。この蟹江城で蟹江城合戦が行われました。
家康・信雄陣営と秀吉陣営がこう着状態になった時、秀吉は既に隠居していた滝川一益と一益の息子に加勢を頼みます。滝川一益は清洲城と桑名城の連携を妨害するために途中にある蟹江城の攻略をはじめ九鬼水軍と連携して蟹江城を落城させます。蟹江川をはじめ川が多く、ゼロメートル地帯で湿地帯になっていますから攻めるのは難しかったでしょう。
ここまではよかったのですが、秀吉側の主戦力の投入などが遅れ、織田信雄と徳川家康が蟹江城を攻め、これを開城させます。蟹江城合戦こそが徳川家康の生涯における最も重要な勝利であるという評価もあるような戦いでした。

小牧・長久手の合戦の舞台 岩崎城

岩崎城
専門家派遣のついでに地下鉄・星ヶ丘駅から名鉄バスに乗って岩崎城へ出かけてきました。
現在は公園になっていて立派な模擬天守が建っていますが、戦国時代のいわゆる土の城で、こんな天守はありませんでした。中は博物館になっています。外観がこの模擬天守なんで、あまり期待せずに行ったのですが、城の周りの空堀や櫓台跡、西の曲輪などが見事に残っていました。なかなか見応えがあります。
■小牧・長久手の合戦
こう着状態に陥った小牧・長久手の合戦で、池田恒興が長躯して家康の岡崎を狙おうと進言。これが認められて進軍しますが、第一軍の池田恒興の前に立ちはだかったのが岩崎城。池田隊7000に対し、300の兵で守っていましたので降伏してもよかったのですが徹底抗戦し、玉砕してしまいます。
これが足止めとなり、岡崎を目指す第三軍に家康軍が襲い掛かり、池田恒興、森長可らが討死することになります。
■織田信秀が築城
岩崎城を造ったのは信長のお父さんである織田信秀。ところが家康の祖父である松平清康に攻められて城が獲られてしまいます。この松平清康、矢田川沿いにある守山城にいたところを部下に暗殺されてしまい、松平家は没落し、竹千代(家康)は今川家の人質になることになります。
城は名門・一色氏の一族である丹羽氏の城となり、小牧・長久手の合戦でも丹羽氏が守っていました。

信長のお父さんのお城(末森城)

末森城
名古屋の覚王山まで専門家派遣で行ってきました。
せっかく覚王山へ行ったので駅近くにある城山八幡宮へ。ここは信長のお父さんである織田信秀の末森城があったところです。
信秀は斎藤道三と争いましたが、結局、決着はつかず和睦を結び、跡取りの信長と斎藤道三の娘である濃姫を夫婦にします。信秀は尾張に勢力を拡げ、津島や萱津などの経済力を重視し、これは信長に引き継がれます。
信秀はこの末森城で病死しますが跡取りの信長は那古野城(現在の名古屋城)にいました。この末森城を引き継いだのが信長の弟である信行です。ところが信長に反旗を翻したため、結局は殺されます。
末森城の本郭は神社の境内になっていますが、境内の周りが空堀になっており、きれいに残っています。本当は二重の空堀や馬出しもありましたが、外側の空堀などはなくなっています。名古屋の街中によく戦国時代の平山城が残りました。

善照寺砦

善照寺砦
先日、沓掛城へ行ったついでに善照寺砦へ寄ってきました。
織田信長は今川方だった鳴海城の周りに丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、封鎖をします。
鳴海城は名鉄・鳴海駅のすぐ近くにあり、見晴らしのよい公園になっています。城は台地の西側端に造られていますので織田方を意識した防御になります。もともとは信長のお父さんだった織田信秀に従っており今川に対する城として造られました。室町時代に造られて廃城になっていた城を再利用しましたが、なんで西の端にしたのでしょう。
信長が造った砦ですが、丹下砦、中島砦は住宅地になってしまって遺構はなし、善照寺砦跡だけは公園の形で残っています。善照寺砦を守っていたのは佐久間信盛ですが、砦は台地の東の端、つまり今川に対して造られています。砦はけっこうな高台に造られていて台地の西へ行けば、鳴海城を見下ろすことができそうです。そもそもなんで鳴海城をこっちに造らなかったんですかねえ。
織田信長は清州城を出発し、熱田神宮で兵が集まるのを待った後、丹下砦、善照寺砦、中島砦をへて桶狭間へ向かいます。この桶狭間ですが、昔は桶廻間と呼んでいました。清水が湧き出る地域で、水の勢いで桶がくるくるまわったことから桶廻間という地名がついたようです。

今川義元 最後の夜となった沓掛城

沓掛城
名古屋で専門家派遣でしたので、ちょっと足を伸ばして沓掛へ。ここには今川義元が最後の夜を過ごした沓掛城跡があります。
城主は近藤景春で織田信秀(信長のお父さん)の勢力が強いうちは織田方でしたが、信秀が死ぬと鳴海城ともども今川方になりました。織田家では家督争いもあり、このまま先行きはないと思ったのでしょう。
沓掛城、大高城、鳴海城が今川方となり、境目の城になったのが大高城と鳴海城。織田信長はこの2つの城の周りにいくつもの砦を作り封鎖をはかります。今川方の最前線基地となったのが沓掛城で、今川義元は、ここで軍議を開き、松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを、各武将に陣立てを命じます。
義元もまさか翌日、桶狭間山で討死するとは夢にも思っていなかったでしょうね。桶狭間の合戦の後、織田方の攻められ落城。今川義元の居場所を報告し、勲功一番となった簗田政綱が新しい城主となりました。
沓掛城の遺構はよく残っていて本郭をとりまく堀や2つの郭跡が見事に残っています。