小山田高家が討死した処女塚古墳

処女塚古墳
ひょうご産業活性化センターでの窓口相談の後、処女塚古墳に寄ってきました。
阪神・石屋川駅を降りて少し歩いたところにあるのが処女塚(おとめづか)古墳。
万葉集で歌われた古墳として有名です。きれいな娘がいて、かぐや姫のように、たくさんの若者から求愛され、なかでも2人の若者が求婚で争います。娘は立派な男たちが自分のために争うのを見るのはイヤと、嘆き悲しんで亡くなってしまいます。そして2人の若者も後を追ってしまいます。
処女塚古墳から少し離れた西と東にも古墳があり、それぞれ西求女塚古墳、東求女塚古墳と言い、2人の若者の墓と言われていますが、そんな馬鹿なことはなく、この地域をおさめた豪族の墓でしょう。前方後円墳になっていて前方部は道路も古墳に沿ってカーブしています。
この古墳は足利尊氏と新田義貞の戦いでも舞台となりました。湊川の戦いで楠正成が倒れ、生田に陣をしいていた新田義貞は敗走します。この処女塚古墳で、足利軍に追いつかれて、あわやという時に新田義貞の家来だった小山田高家がかけつけ、自分の馬に新田義貞を乗せて逃がします。処女塚古墳で足利軍を足止めしますが、討死してしまいます。

船場経済倶楽部で講演

船場センタービル
大阪府よろず支援拠点での仕事が終わってから船場センタービルへ移動。
船場センタービルにある船場経済倶楽部・ビジネス活性塾でセミナーをしてきました。Web活用シリーズという6名の中小企業診断士が講演するシリーズで、第1回目を担当。講演テーマは「ホームページを活用した販売力強化」でした。
船場センタービルは地下鉄本町駅から堺筋本町駅まで1kmも続くビルで1号館から10号館まであります。ビルの上は阪神高速が通っています。船場センタービルの地下は地下鉄と直結しているし居酒屋街ですので、しょっちゅう通っているんですが、地上は久しぶりです。外側はリニューアルされていますが、中はあいかわらず雑多なお店がずらっと並んでいます。
天牛堺書店をのぞいたら、たまたまセールをやっていたのですが、時間がなかったので、ざっとだけ眺めて船場経済倶楽部へ。船場経済倶楽部は4号館の4階にあるので、エレベーターで待っていたら、乗ったのは3階までしかいかないエレベータ。4台のエレベータがあり、左側の2台に乗らないと4階にしか行かないというダンジョン(迷路)になっています。

地域経済分析システム(RESAS)

RESAS
地域経済分析システム(RESAS)がスタートしました。
RESASとは各都道府県・市区町村のデータをまとめて分かりやすく提供されているもので、市町村の比較もできます。試しに創業比率でやってみました。津市、東大阪市、名古屋市を選んで見てみましたが、同じような傾向ですね。名古屋市の創業率が高いのですが、今、住んでいる東大阪市が津市よりも創業率が低いのは意外でした。
今、各市町村では創業支援事業計画を作り産業競争力強化法に基づく認定を受けて、創業スクールなどを行っていますが、当然、認定を受けたところと受けていないところでは創業率に有意な差が出てこないとおかしいので、担当者は大変です。
施策の効果があったかどうかを市町村比較される時代になってしまいました。全国のよろず支援拠点のモデルとなったf-Biz(富士市産業支援センター)がある富士市の創業率を見てみましたが、効果は出ていませんでした。もっとも最新の情報が2012年ですので、この後のデータが公開されると、かなり伸びているのかしれません。

楠正成の阪本城(小倉山公園)

阪本城
昨日、八宮神社へ行ったついでに坂を登ったところにある大倉山公園へ行ってきました。
明治時代に大倉財閥を作った大倉喜八郎の別荘があり、後に神戸市に寄贈されたので大倉山公園という名前になっています。今は神戸市中央図書館や野球場があります。
大倉喜八郎は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館や帝国ホテルを作り、他にもいろいろな会社を設立していますが、大倉火災海上保険が今の「あいおいニッセイ同和損害保険」になっています。
この大倉山公園ですが、高台にあり、楠正成が造った阪本城跡と言われています。九州から攻め上ってくる足利尊氏に備えるために造ったそうなんですが、詳しいことは分かりません。実際に坂を上がってみると、山城の郭のような部分がけっこうあり、十分に攻城戦ができそうです。
徳川光圀が正成の墓に碑を建て、後に湊川神社となったところは坂を降りたすぐの所にありますが、すぐ近くに攻城戦ができる丘があるので湊川の戦いは大倉山公園で行われたのでしょう。太平記の映画やドラマで、海岸沿いで足利軍と楠軍が戦うシーンが出てきますが、湊川神社近くが戦いの舞台なら、城攻めだったんでしょうね。
戦国時代、荒木村重が織田信長を裏切った時、荒木村重の花隈城を攻めるため、信長側の池田信輝が砦を構えた場所でもあります。今は何も残っていません。

八宮神社(神戸)

八宮神社
日が長くなってきたので、ひょうご産業活性化センターの窓口相談が終わってから八宮神社へ。
八宮神社は生田裔神八社の1社。生田裔神八社というのは生田神社を囲むように点在している裔神八社で一宮神社から八宮神社まであります。数字の順に巡ることを八宮巡りといい、厄除けになるといわれています。
六宮神社は八宮神社の近くにあったんですが、明治初期に道路拡張のため八宮神社に合祀されました、ですので八宮神社にお参りすると六宮神社にもお参りしたことになります。
そうそう三宮神社が神戸・三宮の名前の由来になっていて三宮神社といえば備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らに銃撃をあびせ、撃ち合いとなった神戸事件の舞台となりました。
ひょうご産業活性化センターが入居しているサンパルの近くに一宮神社、二宮神社、三宮神社があり、既にお参りしていますので、残りは四宮神社、五宮神社、七宮神社の3つとなりました。ちょっと遠い所にある神社ばかり残りました。

河内寺廃寺跡

河内寺廃寺跡
今日、届いた東大阪市政だよりに河内寺廃寺跡の史跡公園整備をスタートするという記事が掲載されていました。
近鉄で難波から奈良へ向かう時、瓢箪山駅を超えると生駒山に沿って左にカーブし、山裾を登りはじめます。この左にカーブをする時、西側(生駒山の反対側)、住宅地の間に空地が見えます。ここが河内寺廃寺跡。もっとも看板も案内も何もないので地元の人でも、ほとんど知りません。
飛鳥時代後期に造られた古代寺院で、四天王寺形式(塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形)でした。造ったのは百済の渡来人の末裔だった河内直(かわちのあたい)一族。河内郡の長官でした。すぐ近くを東高野街道が通る交通の要衝でしたし、少し高台でしたので古代は眺めがよかったでしょうね。
河内寺廃寺は国の史跡指定を受けたこともあり、史跡公園として整備されることが決まりました。一般公開は2017年になる予定です。

取次会社が大変

本
先日、ドワンゴと経営統合したKADOKAWA(角川書店や中経出版などの出版社を持ちます)がアマゾンと提携し、4月から書籍・雑誌の直接取引を始めました。
出版業界では出版社は卸である取次会社(日販、東販、大阪屋、粟田出版など)を介して書店に届けるのが基本ですので中抜きになります。アマゾンは取次会社のマージンを減らすことができ、安価で販売できますが、書籍などは再販制度があるので定価販売は変わらないでしょう。
町の小さな書店は取次に頼らざるをえませんので、取次がを落ちると、いろいろ影響が出てきそうです。この取次会社が生まれたのは明治時代。東京堂、北隆館、東海堂、良明堂、上田屋の5社ができました。大戦中は国策で1社に統合され、日配(日本出版配給株式会社)が生まれます。大戦中は紙もないし、本も少ないという状態で返本率は0.1%となり、ある月には返本率がゼロという今ではとても考えられない数字が実現されました。今は大体、40%ほどの返本率になっています。
戦後になって解体され、東版(東京出版販売)、日版(日本出版販売)、中央社、日教販(日本教科書図書)、粟田出版が生まれます。ユニークな取次だったのが鈴木書店。出版社の窓口にいた井狩春男氏が毎日、手書きの情報誌を発行していました。それが「日刊まるすニュース」。出版社にファンが多く、まとめたものが本になっています。この鈴木書店、なくなってしまいました。
また地方・小出版流通センターという取次があり、名前の通り、地方や小さな出版社の本を扱う取次です。ここが神保町のすずらん通りに「書肆アクセス」という直営店を出していて普通の本屋ではお目にかかれない本が並んでいました。地方別に整理されていて、関西の本もありますが、関西の本屋にまず並んでいない本を東京で見つけることができます。神保町に行くと、よく行っていたんですが残念ながら2007年に閉店してしまいました。

水軍が移り住んだ久留島(津市)

津
津の実家周辺の地名が岩田。今はすっかり住宅地になってしまいました。
岩田は、もともと伊勢神宮の料地であった岩田御厨があった所。御厨とは神の台所という意味で、神饌を調進する場所や神饌を調進するための領地を意味します。
この岩田の一角にあるのが久留島。秀吉の朝鮮出兵では日本水軍の大将が藤堂高虎だったので、村上水軍の一派、来島水軍の将兵の一部が藤堂高虎に従い、そのまま住んだ所だそうです。すぐ近くには伊予町があり、こちらは藤堂高虎の前の領地だった伊予からついてきた町人が移り住んだところ。
そういえば日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎が戦勝報告を伊勢神宮にするために軍艦を引き連れ、上陸したのが津の港。水軍の大将だった藤堂高虎にあこがれていたようです。阿漕駅から伊勢神宮へ向かいました。
岩田と言えば有名なのが「岩田川の戦い」。伊勢の国司だった北畠の三代目が北畠満雅です。南朝方で、岩田川で足利幕府と戦い、討死してしまいます。これにより北畠氏の勢力が弱まりました。
大阪で住んでいる枚岡も南朝方(楠木正成)が敗れたところですし、いろいろとご縁がありますなあ。

船場総研・総会

大阪
夕方から船場総研の総会があるので、少し早い目に出て日本橋へ。家で使っているFAXのリボンがなくなったのでリボンの替えの調達です。
ソフマップに行ってみたら無し。他の家電売場をまわろうと思ったら中川無線も上新も日本橋からなくなって、しっかりアニメの町になっていました。しょうがないから千日前のビッグカメラまで回って買い求めました。しかし春節が終わっても、よく聞こえてくるのは中国語ばかりでした。
総会の場所が引っかけ橋(戎橋)のすぐ店なので心斎橋筋を歩きましたが、日曜の夕方はさすがにラッシュですね。人ばかりでした。
船場総研というのはNifty-Serveにあった船場勉強会(中小企業診断士の勉強会)のOB組織。出来て15年ほどたっているそうですが、誰も把握していない(笑)。大体、会長が総会を忘れていたという実にゆるい会です。飲みながら、今年の行事予定を決めましたが、結局はジャンケンでイベント幹事を決めて終わりでした。(笑)中小企業診断士の集まりと言いながら全然まとまらず計画的ではありません。

楠正行の神感寺城

神感寺城
天気もよいから、前から行きたかった神感寺城跡に行こうと、まずはネットで神感寺を検索。奈良と大阪を結ぶ暗峠から行けることを確かめて家を出発。
枚岡公園から暗峠を目指しますが、せっかくだからハイキングコースを行こうと思ったのがウンのツキ。歩いていると、いかにも土塁が続いていて虎口(城の入口)のような所を発見。こりゃ、見つかっていない城跡ではないかなと藪の中へ(笑)。日本には、まだまだ見つかっていない山城跡がかなりありますので、見つけるチャンスはあなたにもあります!
藪の中を進むと空堀跡と土塁を発見。ところが空堀と思う所がグニャグニャ曲がっています。どうも違うな~あ。昔の山道跡のようでした。気を取り直して暗峠を目指しますが、途中で道を間違えてしまい、結局は標高642mの生駒山頂へ。山頂から尾根伝いに150mほど降りて、暗峠へ。150mも、余計に登ってしまいました。
暗峠から山道に入って神感寺へ。今も小さな寺はありますが、もともとは山岳寺院の神感寺があり、発掘では東西200m,南北250mに大伽藍があったことが確かめられています。神感寺は奈良時代末に創建され、鎌倉時代に大いに栄えます。
南北朝時代には楠木正行が城塞化し、神感寺城になっていました。眺めがよいので見張り用だったのでしょう。四条畷の戦いでは北朝方の佐々木道誉軍に攻められ焼失してしまいます。佐々木道誉と言えば婆沙羅大名で有名ですね。山門近くの藪の中に入り込んでみると、平坦地などが残っていましたが、明確な城跡はありませんでした。