中村一氏時代の駿府城が見つかる

駿府城

朝、ニュースを見ていると駿府城発掘調査で秀吉時代の金箔瓦と天守台が見つかったと報じていました。

秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼした後、徳川家康に後北条氏の遺領となった関東への国替えを命じます。この家康を封じるために各所に子飼いの大名を配置しますが。駿府に入ったのが中村一氏で、この時に築城されたようです。

この中村一氏ですが、まだ和泉や紀州が秀吉に敵対していた時代に大坂の南のおさえとして岸和田城主となります。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉軍主力が尾張へ展開している間隙をぬって、根来・雑賀衆、粉河寺衆が攻めてきます。岸和田城の攻防戦を何とかもちこたえ、秀吉軍と共に貝塚の千石堀城、積善寺城など相手の拠点を次々に落して紀州征伐となります。

南海電車に蛸地蔵駅がありますが、駅名の由来はこの時の岸和田城の攻防戦で落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ落城を救ったという伝説からきています。

中村一氏は秀吉の信頼あつく駿河一国をまかされ、関ケ原の戦い合戦前に亡くなります。この中村一氏時代の城跡ですか~あ。見てみたいな~あ。静岡からセミナーの話でも来ないかなあ(笑)。

掛川古城

掛川古城
もともとの掛川城は今の場所ではなく、5分ほど歩いたところにありました。それが掛川古城です。
今川氏が朝比奈氏に命じて子角山(ねずみやま)の尾根に造りました。この後、龍頭山に新たに城を造り、移動することになります。これが新幹線の車窓から見える現在の掛川城です。
掛川古城には建物などは残っていませんが大きな郭が2つ残っています。主郭跡には徳川家光の位牌を祀る天王山龍華院・大猷院殿霊廟があり周りには土塁が残っています。もう一つの郭跡は公園になっていて遊具などが置かれていました。隣が小学校ですが、かなりの高度差があります。
見事なのは郭と郭の間にある大きな堀切で、遊歩道になっていました。城があった頃は木橋を渡していたのでしょう。掛川城は観光客で一杯でしたが、さすがに掛川古城には誰もおりません。

家康が学び江戸城にいかした掛川城の戦い

掛川城
新幹線が掛川駅を通過する時、車窓から掛川城の天守閣が見られます。再建された天守閣ですが、復元天守には珍しくコンクリート造りではなく木造になっています。今、名古屋城ですすんでいる復元天守と同じですね。
掛川城は室町時代、駿河の守護大名だった今川氏が遠江進出を狙い、重臣だった朝比奈氏に命じて築城させました。秀吉の時代には徳川家康のおさえとして、山内一豊が城主をまかされます。ところが関ケ原合戦時には家康の味方をして掛川城を提供し、褒美として土佐一国の領主となります。
■今川氏真を守り抜いた掛川城
今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、今川家を率いたのが今川氏真です。去年の大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」では尾上松也が演じていました。今川氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康から挟み撃ちに遭い、駿府館を捨てて朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びます。
結局、掛川城は徳川軍に包囲されてしまいます。家来に裏切られて滅んだ武田勝頼や朝倉義景と違い、今川氏真は家来に恵まれていました。朝比奈泰朝は最後まで主君を守ります。和議で北条への今川氏真の亡命を認めさせると開城します。
■掛川城の戦いで学んだ家康
昨年、発見されたのが徳川家康が築城した時の江戸城の縄張りを書いた江戸始図。堅牢な要塞のような本丸が描かれていました。掛川城の戦いは絶望的な籠城戦でしたが半年間持ちこたえている間に状況が変化し、家康は北条と武田と敵対することになり、今川氏直と和睦します。
鉄砲の時代となると籠城戦では守り切れないというのが当時の常識でしたが、掛川城の戦いで後詰め(応援)がなくても状況変化で生き残れることを家康は学びました。これが江戸城の縄張り(設計)にいかされることになります。

信長のマイナスイメージ戦略に利用された高天神城

高天神城
All AboutのRed Ball終了後、掛川へ移動して一泊。
朝、浜岡原発の方へ向かうバス(一人だけでした)に乗って、歴史にしょっちゅう登場する高天神城へ行ってきました。お城ジオラマ復元堂でも有名な山城です。
高天神城はよく整備されて遊歩道や看板もたくさんあり、とっても楽に登れる山城です。一城別郭の城として有名で2つの尾根筋に郭群が二つあり、それぞれが独立した構造になっていますが、この二つの城が連結して高天神城になっています。
古くから城が造られていましたが、歴史で有名なのは徳川家康の支配下になってから、なんせ武田信玄が攻めても落とされなかった名城です。ところが武田勝頼に城を奪われてしまいます。勝頼は信玄以上に優秀でした。
■信長による武田勝頼マイナスイメージ戦略
この後、織田信長の命を受けた徳川家康が高天神城の周りに砦群を作り、持久戦に。高天神城を守っていた岡部元信は降伏を申し出ましたが信長は許しません。この当時、敵の動きで動くに動けなかった武田勝頼は援軍を送れませんでした。結局、岡部元信は残った兵をまとめて最後の攻撃に出撃し玉砕してしまいます。
ここぞとばかり、信長は”武田側で戦っても勝頼は助けてくれない”とイメージ操作をはじめます。SNSによる拡散はできませんので、もっぱら手紙と口コミです。織田、徳川、北条が攻め込んだ時に武田側で裏切りが続出したのは、このイメージ戦略の結果でした。
と言っている信長自身も自軍だった上月城の尼子氏を助けられず見捨てていますので、勝頼と一緒なんですが(笑)信長は別所長治、荒木村重、松永久秀などにずっと裏切られていますのでマイナスイメージは今さら関係なかったようです。

障子堀が見事な山中城

山中城
日本100名城のひとつ山中城です。
北条氏の要(カナメ)になる城で、山中城を突破されると箱根を超え、本拠地である小田原城まで一気に攻められてしまいます。
山中城は、かなり大きな山城ですが、きれいに整備されていて、特に西郭の障子堀は見事です。箱根街道が城の真ん中を通っていて、敵が岱崎出丸へ攻め込むと反対側の西郭から攻撃され、反対に西郭に攻め込むと岱崎出丸から攻撃される鉄壁の守りになっています。ところが秀吉軍は通常では考えられない兵力を投入して一気に落城させてしまいます。もっとも大名クラスの一柳直末が討死するなど、攻撃側もかなりの打撃を受けました。なりふりかまわない攻撃だったようです。
”槍の勘兵衛”と呼ばれた渡辺勘兵衛という人物がおり、秀吉の小田原征伐の時は豊臣秀次の家老中村一氏の家臣でした。山中城攻めでは、渡辺勘兵衛が先頭切って岱崎出丸に一番乗りを果たします。本人が山中城攻めの顛末を書いた渡辺水庵覚書が残っていて、覚書によれば岱崎出丸を守備していた北条方はそう多くなく、長い出丸の途中に突入することで、分断に成功し岱崎出丸を落としてしまいます。山中城は秀吉側の総攻撃によって本丸まで一気に攻め込まれて落城し、秀吉は石垣一夜城を築いて小田原城に対峙することになります。
三島駅からバスが出ており、バス停を降りると城の入口です。スーツ姿で登れる山城です。

小田原征伐で最後まで持ちこたえた韮山城

韮山城
今回のメインイベントである韮山城です。
駿河から伊豆へ攻め入った北条早雲が拠点とした城で、早雲は韮山城を中心に伊豆の各拠点の支配を進め、亡くなるまで居城にしていました。早雲以降の北条氏は小田原城に本拠を移します。
秀吉の北条攻めで関東の各支城が次々に落城しますが、最後まで残ったのが”のぼうの城”で有名な忍城と韮山城です。韮山城の城主は北条氏規で、最後まで持ちこたえ小田原城が開城したことから降伏しました。北条宗家は滅びますが、北条氏規の子孫は狭山藩(現在の大阪府狭山市)として明治まで続きます。南海電車のさやま遊園は狭山藩下屋敷跡地に建っていました。
名高い韮山城なんで、よく整備されています。郭内は藪だらけが定番なんですが、きれいに取り払われ木もなく眺めがよいこと。土橋や櫓跡もしっかり残っていました。平山城なのでスーツ姿でも大丈夫です。

浜松城(出世城)

  • hamamatu.jpg

    浜松駅からえっちらおっちら歩いたところに浜松城があります。けっこう駅から遠いですね。 

    徳川家康が武田信玄に備えるために築いた城で、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。31歳の三方ヶ原の合戦にはこの浜松城から出陣し、武田信玄にたたきのめされ命からがら城まで逃げ戻ります。この時、敗戦して憔悴しきっている自分の姿を絵師に書かせ、生涯慢心を戒めるために持ち歩いたと伝わっています。 

    姉川の戦い、長篠の戦い、秀吉と争った小牧・長久手の戦いなど家康の命運を握った戦いも本拠地はこの浜松城でした。家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、徳川家とゆかりが深い譜代大名を配置。幕府の要職につくものが多く、浜松城は出世城ともよばれました。 

    二の丸などは学校などになっていますが、本丸は残っていました。天守閣は再建で、中は博物館になっています。天守閣の下の石垣が野面積みという古い石垣の積み方で、これは家康築城の時代のものです。野面積みは、なかなか残っておらず貴重ですね。 

掛川城

  • kakegawa201307.jpg

    新幹線で掛川駅を通過する時、窓から見えるのが掛川城。駅のすぐそばの丘の上にあります。いつも新幹線で見かけるたびに、いつか行きたいなと思っておりました。 

    掛川城の城主は今川時代から変わっていきますが、一番有名なのが司馬遼太郎「功名が辻」の山内一豊。関東へ移した徳川家康を牽制するために秀吉が掛川城に配置します。秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは家康側で戦い、その功によって土佐の大名となりました。 

    掛川駅から商店街を少し歩くと掛川城の入口。太鼓櫓がみえ、脇を通ると天守への登り道があります。天守の上は眺めがよく、晴れた日には富士山も見えるようですが、あいにくの曇り。ただ風がよく通り、涼しいですね。 

    二ノ丸御殿が現存しており、こちらは江戸時代に再建されてもので重要文化財になっています。中を見学でき、御殿の裏側には当時の土塁が残っていました。

駿府城

  • sunpu201307.jpg

    東京駅から「こだま」で静岡駅へ。自由席なんですが、3連休初日と朝早いせいか座席は満席。 

    静岡駅から少し歩くと駿府城があります。戦国時代はは今川館があり今川家の本拠地でした。若い家康が人質生活をおくったところでもあります。 

    徳川家康が秀忠に将軍職を譲り、大御所となって駿府に隠居して駿府城を建てました。天守閣など当時の建物は残っていませんが、堀はよく残っていますね。本丸の周りの内堀は一部だけ残っていますが、外堀はほぼ江戸期のまま残っています。外堀がこんなに明瞭に残っている城も珍しいですね。東御門櫓門が復元されていて、見学してきました。坤櫓も復元中です。 

    駿府城と言えば有名なのが駿河版。駿府に隠退した家康が作った古活字版で、活字を作って印刷して本を作っていました。これが駿河版です。活字の一部は今も残っていて重要文化財になっていますが駿河版の古典籍がでてきたら一体いくらぐらい、するもんなんでしょうかねえ。