永福寺跡

いざ鎌倉へ。

永福寺跡

鶴岡八幡宮から、けっこう歩いた所に永福寺跡があります。こんな所まで来る酔狂な観光客はほぼおらず、広い境内を地元の人がジョギングしています。永福寺跡を見て、平泉にある毛越寺跡や無量光院跡みたいだなと思ったあなた!正解です。

頼朝が義経と義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした後に建てた寺が永福寺です。合戦で亡くなった義経や藤原泰衡らを供養するための寺でした。火事で焼失した後、発掘調査で池の前に3つの堂が並び立つ壮大な寺院だったことが分かり、基壇などが再現されています。ほんまに平泉の毛越寺跡みたいですねえ。

中学生の時に図書館にあった「義経記」を読むと金売吉次が義経を平泉に誘うシーンが出てきます。現実は義経のお母さんである常磐御前が再婚したのが藤原長成で、義経はしばらく長成に養われた後、鞍馬寺に預けられました。陸奥守がこの長成の親戚で、この親戚の娘が藤原秀衡の妻になっていました。ですので秀衡と義経は遠い親戚だったんですね。

また奥州藤原氏の祖となったのが前九年の役で敗れて殺された藤原経清。平将門を破った藤原秀郷の後裔と言われています。西行が2度、平泉を訪れていますが西行はもともと北面の武士で、先祖は藤原秀郷。そんな縁があったんですね。

北条義時のお墓

いざ鎌倉シリーズ。

北条義時のお墓

と言いながらお墓の話題が続いています(笑)。今度は「鎌倉殿の十三人」の主人公、北条義時のお墓です。源頼朝墓のすぐ近くなんですが、観光客の数は、がたっと減ります。「鎌倉殿の十三人」では後妻の伊賀氏に毒殺された風になっていましたが、本当かどうかは分かりません。なんせ62歳で亡くなっていますので、当時としては長生きです。

吾妻鏡に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記載されていたことから、2005年に北条義時の法華堂跡の発掘調査が行われ墳墓堂(法華堂)の遺構が見つかります。遺構は埋戻しされたために調査で見つかった柱跡などが地表に示されています。

■承久の乱
北条義時といえば承久の乱ですね。目をかけていた実朝暗殺などに怒った後鳥羽上皇が義時追討の命を出します。城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で武士を集めると西国武士が1700ほどが集まりましたが、朝廷の権威をあまりにも過大評価していました。朝敵扱いになっても東国武士は立ち上がり京都を攻め、後鳥羽上皇に味方した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。敗北した後鳥羽上皇は戦争放棄、軍備の放棄を宣言、古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

ただ西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが徳政令につながり、ますます御家人を苦しめることになり、幕府滅亡の遠因へとなっていきます。

大江広元の墓

いざ鎌倉シリーズ

大江広元の墓

三浦氏のやぐら近くにあるのが大江広元の墓。「鎌倉殿の十三人」では栗原英雄氏が演じていました。源頼朝は力で勝っても文章能力がない武士では政権運営はできないと考えており、京都から落ちぶれてはいるが能力のある官僚を招きます。それが大江広元で、頼朝亡き後の承久の乱では鎌倉武士の鎌倉での迎撃論を抑え込んで、出撃するように説得します、これがなければ歴史が変わっていたかもしれません。ここで武家政権が盤石となります。

大江広元の本当の墓は伝として伝わっていますが、ここは島津が江戸時代に建てたもの。大江広元の息子の一人が相模国毛利荘(厚木市)をもらって毛利季光と名乗っていました。武士になると宣言し、毛利家の祖先となります。文官より武官のほうが格上だったようです。島津忠久は島津氏の祖で、一説では源頼朝の子ではないかと言われています。そこで大江広元の墓を中心に両側に毛利季光、島津忠久の墓が並んでいます。島津による、「うちはすごいんだ~あ」というアピールでしょう。

三浦氏のやぐら

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三浦氏のやぐら

「鎌倉殿の十三人」では山本耕史さんが三浦義村を佐藤B作さんが三浦義村のお父さんの三浦義澄を演じていました。三浦義村はクセのある人物として描かれていましたが、梶原景時の変、畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦、実朝暗殺、伊賀氏事件など鎌倉で起きたあらゆる事件にからんでいます。北条義時が病死し、後を北条泰時が継いでからは宿老として幕府を支えています。最後は病死でした。

三浦氏は北条氏と並ぶような存在となったため、宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされます。ただ吾妻鏡にしか出てこず、三浦氏は北条と安達に騙し討ちされたではないかという説もあります。この三浦氏を弔った「やぐら」(横穴墳墓)があります。さすがに、こんなところまで来る観光客は数人ですね。

船場総研・総会

宴会

中小企業診断士の勉強会「船場勉強会」のOB組織が船場総会で、Nifty-Serve時代から続いています。毎年、総会を開催していますが、今年はなかなか場所が決まらず、結局、予約できたのがラミ本町エマという場所。本町駅に近い商業ビルの上にあるのですが、これが分かりにくい。ひたすら地図を握りしめて入口を探して、たどりつきました。

同じように地図を握りしめた面々が集まり、まずは近況報告。話たがりや途中でチャチャ入れが多いので、近況報告が全然進まず、結局、総会の3/4が近況報告。メンバーも高齢化しているので病気や介護の話が多かったですね。ようやく今後の計画を決めて閉会。終わってからは心斎橋商店街を巡ってから船場センタービル地下で宴会です!

頼朝墓

いざ鎌倉シリーズです。

頼朝墓

鶴岡八幡宮から畠山重忠邸宅跡を抜けて行くと白旗神社と石塔があります。相模川で催された橋供養からの帰路に源頼朝は体調を崩します。「鎌倉殿の十三人」では落馬するシーンが描かれていましたが、死因は定かではありません。「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けていて、謎になっています。建久10年(1199年)に頼朝は亡くなります。

亡骸は持仏堂に葬られましたが、江戸時代に薩摩藩主が現在の石塔(頼朝の墓)を建てました。明治になって廃仏毀釈により持仏堂を継承した法華堂が壊されて今は頼朝を祀る白旗神社が建てられています。

鶴岡八幡宮には山のような観光客がいましたが、頼朝墓まで訪ねる人は少数で、ほとんど観光客はいません。

サザン

エボシ岩

茅ヶ崎館で23時頃まで宴会して寝たはずが、朝日で部屋が明るくなると起きる歳になってしまったため5時には目が覚めます(笑)。他のメンバーがグースカ寝ているなか、旅館のすぐ近くにある茅ヶ崎の海岸へ出て散歩。朝早くから釣りやサーフインをする人やランニングする人などたくさんいて、関東人は朝から元気ですねえ。地引網もやっていました。

海岸沿いの道を歩くと烏帽子岩を見ることができます。茅ヶ崎はサザンの聖地になっていて、なんの変哲もない道にサザン通りという名前がついています。そういえば「チヤコの海岸物語」の歌詞にエボシ岩が出てきました。そうそう道の途中に「C」のモニュメントがあって、写真を撮っている人がいたのですがサザンのジャケット写真に使われていたんですね。私は烏帽子岩のモニュメントを撮っていました。

茅ヶ崎館

茅ヶ崎館

江ノ島で過酷なロードが終わった後は茅ヶ崎駅へ移動。海外沿いにある茅ヶ崎館へ。1899年(明治32)に日本郵船・機関長だった人が作った別荘です。現在は和室4室の旅館として営業しており、明治時代の唐傘天井風呂などレトロな旅館になっています。定員12名なので宿を借り切って、まずは旅館内のツアー。樹木希林の「命みじかし、恋せよ乙女」の撮影で使われた和室などを当時のエピソードを聞きながら見学。樹木希林は茅ヶ崎館の女将を演じ、これが遺作になりました。

松竹の撮影所が蒲田から大船に移ったこともあり、東京物語や秋刀魚の味で有名な小津安二郎監督の定宿でもありました。他にも、この宿は本が書けると新藤兼人監督、井筒和幸監督、是枝裕和監督らがよく利用していたそうです。

晩御飯は18:30~21:00頃までの宴会で、最後にすき焼きが出てきて旅館の人が焼いてくれるのですが、煮詰まった所にカレー粉を加えた「カレーすき焼き」は小津監督が自ら来客に振舞ったそうで、名物料理となっています。大変、おいしゅういただきました。

江ノ島

江ノ島

ATコマンド、NifTerm、ComNifty、魔法のナイフ、茄子Rという呪文のような言葉を聞いて、まったく違和感がない一定集団が日本に存在します。この集団の中にさらにFLicという変なフォーラムに参加していた集団がいました。この集団が、さらに細分化し、全国にあった中小企業診断士のオフライン勉強会に参加しているメンバーの残党がいまだに年1回、集まっています。

今年島は江ノの大橋のたもとに集合。江ノ島って初めて行ったのですが坂道と階段だらけなんですね。いやな予感はあたり、ひたすら登ることになります。眺めはいいんですが、炎天下で歩くには苦行です。奥津宮に到着して、今度は下りです。オイオイ、これをまた登って帰るのかなと思ったら、岩屋から船が出ているんですね。観光客で一杯でしたが船もピストン輸送しているので、しばらく待つと江ノ島を脱出できました。

畠山重忠邸宅跡

畠山重忠邸宅跡

鶴岡八幡宮のすぐ近くにあるのが坂東武士の鑑と言われた畠山重忠邸宅跡。碑は建っていますが、碑しかないので誰もいませんねえ。「鎌倉殿の十三人」では中川大志さんが畠山重忠を演じていました。武蔵国男衾郡畠山郷が本貫です。頼朝を助け幕府創業を助けた立役者ですが、やがて北条時政と対立。鎌倉にすぐ来いとの呼び出しに、わずかな手勢で鎌倉に向かう途中、謀反の疑いがあるということで北条義時が差し向けた大軍と激突して討死します。

謀反の疑いは北条時政の讒訴ではないかと、いうことで北条義時は時政を糾弾したと吾妻鏡には記載されていますが、歴史書は勝者のものですから本当のところは分かりません。畠山重忠は吾妻鏡では謹直で真面目な人物として描かれており、梶原景時と正反対。梶原景時は頼朝の汚れ役をやっていたので、メチャクチャ能力は高いのですが、嫌われる役職にいた石田三成によく似ています。となると畠山重忠は加藤清正というところかなあ。