北条義時のお墓

いざ鎌倉シリーズ。

北条義時のお墓

と言いながらお墓の話題が続いています(笑)。今度は「鎌倉殿の十三人」の主人公、北条義時のお墓です。源頼朝墓のすぐ近くなんですが、観光客の数は、がたっと減ります。「鎌倉殿の十三人」では後妻の伊賀氏に毒殺された風になっていましたが、本当かどうかは分かりません。なんせ62歳で亡くなっていますので、当時としては長生きです。

吾妻鏡に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記載されていたことから、2005年に北条義時の法華堂跡の発掘調査が行われ墳墓堂(法華堂)の遺構が見つかります。遺構は埋戻しされたために調査で見つかった柱跡などが地表に示されています。

■承久の乱
北条義時といえば承久の乱ですね。目をかけていた実朝暗殺などに怒った後鳥羽上皇が義時追討の命を出します。城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で武士を集めると西国武士が1700ほどが集まりましたが、朝廷の権威をあまりにも過大評価していました。朝敵扱いになっても東国武士は立ち上がり京都を攻め、後鳥羽上皇に味方した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。敗北した後鳥羽上皇は戦争放棄、軍備の放棄を宣言、古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

ただ西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが徳政令につながり、ますます御家人を苦しめることになり、幕府滅亡の遠因へとなっていきます。

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