海住山寺のサンクコスト

海住山寺

恭仁京近くに、海住山寺への案内がありました。山の中腹にある寺ということで、山の方を見ると、確かに中腹に白く巨大な看板のようなものが見えます。ちょっと登れば着きそうだなということで坂を登りはじめます。ようやく白い看板にたどりつくと高台なので眺めがよく加茂の街が一望できます。

■サンクコスト
たどりついた看板に海住山寺と大きく書かれていますが、単に参道の案内で、お寺の場所は、かなり坂を登ったところにあります。「えー、どうする! せっかくここまで登ったんだから最後まで登るか」と考え、坂登りを続けます。この、もったいないと考えることをサンクコスト(埋没費用)といいます。サンクコストとは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用を指します。今後に関する意思決定では、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断するのが王道ですが、そうはいきませんねえ(笑)。

ということでエッチラオッチラ登って五合目を通過。またかなり登って、ようやく海住山寺にたどりつきました。 聖武天皇の勅願で創建した寺のようで国宝の五重塔などがあります。

広小路キャンパス

京都の少し前の地図を見ていたら立命館大学・広小路キャンパスが載っていました。目の前には京都府立医大があり、御所の北側には同志社大学があります。京都は10人に一人が学生という「学生の街」で市政的に言うと税金が入らない層がたくさんいることになります。

広小路キャンパス

立命館大学・広小路キャンパスは1981年までありました。ある年齢層までには「二十歳の原点」(高野悦子)の原点ですね。赤い線は京都市電で、1977年に京都市電・河原町線がなくなり、翌年に京都市電全線がなくなります。

立命館大学・広小路キャンパスの少し北に昔、勤務していた専門学校があり、この界隈を10年ほどウロウロしていました。河原町今出川に地図専門店があったんですね。少し上がったところに善書堂という古本屋がありましたが、今は閉店しています。そうそう京都府立医大近くに荒神橋があり、伊藤蘭が出ていた「ヒポクラテスたち」(大森一樹監督)の冒頭はこの荒神橋からスタートしていました。

薩摩藩伏見屋敷

薩摩藩伏見屋敷

今は石碑しかありませんが丹波橋駅からずっと西に行ったところに薩摩藩伏見屋敷があります。寺田屋で襲われた坂本龍馬が深手をおって材木屋に隠れ、お龍が助けを呼びに行った先です。龍馬はこの薩摩藩邸に運び込まれます。傷がある程度、癒えると薩摩藩の計らいでリハビリのため、お龍と霧島(九州)へ向かいます。これが日本最初の新婚旅行になります。高千穂峰では天の逆鉾を抜こうという、迷惑行為をやっています。当時はSNSがなくて良かったですね。

NHK大河ドラマ「篤姫」ではが京の近衛家に仕えていた老女・幾島(松坂慶子)によって篤姫(宮崎あおい)が、お姫様養成のための特訓が行われた場所です。鳥羽伏見の戦いでは御香宮神社に本陣を置いたため、伏見屋敷は会津藩によって焼かれてしまいました。そうそう、龍馬は経済感覚が強く、討幕に動き出したら長崎運上所の金をおさえるよう土佐藩の佐々木高行事前に言っております。鳥羽伏見の戦いがはじまった時に亡き龍馬に従っておさえました。金がなけえば戦はできません。

琵琶湖疎水

琵琶湖疎水

琵琶湖から流れる水は瀬田川しかなく、瀬田川が宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に注ぎます。滋賀県人がよく使う脅し文句が「琵琶湖の水止めたろか!」という言葉。実際に3Dモデルを使ってシミュレーションをした人がいて、瀬田川の堰をとめると滋賀県の沿岸部と水田地帯がことごとく水没してしまいました。滋賀県にとっては経済的に大打撃になり、琵琶湖の水を止めるのは諸刃の剣です。よく似た話は奈良にもあり、大和川が大阪に流れだす亀の瀬で地滑りで起きて、自然ダムができると古代にあった奈良湖が誕生することになります。

シュミレーションでは琵琶湖の水位が30mあがると鉄道トンネルから琵琶湖の水が流れ出しました。瀬田川の堰をとめるのと同時に琵琶湖疎水もとめなくてはなりません。琵琶湖疎水は明治時代に作られ、蹴上発電所の電気で京都市電が走り、日本初の営業用電車となりました。山科駅の北側に琵琶湖疎水が流れていて散策路になっています。

髭茶屋追分

髭茶屋追分

「これやこの 行くも帰るも 別れては...」で有名な逢坂の関を超えて、山科に入ると髭茶屋追分があります。道が二手に分かれていて右に降りて行くと山科駅前を通って蹴上から三条大橋に至る京都への道です。左に坂を降りていくと京街道が始まり、大宅一里塚を通って、いわゆる東海道57次になります。

大津宿から、山科を越えて54次目の伏見となり、淀、枚方、守口の4宿で57次です。東海道が京街道へ延伸して57次として制定されたのは元和5年(1619年)ですので、豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から、わずか4年後になります。参勤交代の大名行列は、この髭茶屋追分から左に入るルートを通るように決められました。

日本ローマ字会 解散

京都にあった日本ローマ字会が3月に解散したんですね。昔ちょっとからんでいまして、理事をやっていた時もあります。日本ローマ字会はメチャクチャ古い会で100年以上の歴史があります。もともとは明治時代に地球物理学者である田中舘愛橘が始めた会で寺田寅彦なども会員でした。

紆余曲折があって京都に本部が移り、梅棹忠夫先生がローマ字論者でもあり知的生産の技術研究会の特別顧問でもあった関係で、私も日本ローマ字会に出入りしていました。ヘボン式でも訓令式でもない99式ローマ字を制定していた頃ですね。その後、また紆余曲折があって東京に本部が移る頃に離れました。

インバウンドや外国からの移民を真剣に考えるのなら漢字をどう扱うかがテーマですね。ある程度はローマ字で代用していかないといけない時代ですが、同音異義語をいかに減らしていくかが課題になります。

太鼓櫓(西本願寺)

太鼓櫓

新選組は最初、壬生にある八木家を屯所にしていましたが、池田屋事件で脚光を浴びたため、幕府からの支援もあり、新規隊員募集で200人を超える大所帯になります。手狭になったので慶応元年(1865年)に西本願寺へ移転します。新選組の隊士がいたのは北集会所で隣にあったのが太鼓櫓です。北集会所は姫路に移築されましたが、太鼓櫓は残っています。

北集会所は約200畳で、200人には狭く、一人一畳のスペースで、医者の松本良順が訪ねた時は隊士の約3分の1が病人というありさま。松本良順は病室を分け、「衛生と滋養」が何よりも大切とアドバイス。土方歳三はさっそく西本願寺にかけあって浴室の整備などを始めます。

西本願寺も困ってたようで新たな屯所を用意して、現在のリーガロイヤル京都がある場所へ移転してもらいました。しかし新しい屯所にいたのは、わずか6ケ月で伏見奉行所に移り、ここで鳥羽伏見の戦いが勃発します。

京都駅ビルはできてから25年

京都駅、よく素通りしていますが久しぶりに駅のホームから出ました。インバウンドが戻っていないので、以前ほどではありませんが、まあまあ混雑しています。JR伊勢丹横の大階段も健在でした。

京都駅ビル

昔、京都で専門学校の教員をやっていた時の校長が三輪泰司先生。非常勤でしたので入学式などのイベント時に顔をあわせていましたが地域計画建築研究所という会社の社長さんでした。都市計画が専門で、京都駅ビルを建替えする時の国際コンペではプロフェッショナルアドバイザーに就任していたのが三輪校長でした。コンペ後に着工され6年ほどの歳月が過ぎて1997年に現在の京都駅ビルができあがります。もう出来て45年になるんですねえ。

専門学校の飲み会で三輪校長からコンペの裏話などを、いろいろと聞いていたのですが、歳とともに忘れてしまいました(笑)。

京都守護職の上屋敷跡

京都府庁の入口にあるのが京都守護職上屋敷跡の碑。

京都守護職の上屋敷跡
京都守護職の上屋敷跡

京都の治安は京都所司代、京都町奉行が担当してきましたが幕末になると尊王攘夷派の過激志士が集まり、だんだんと無法地帯になっていきます。なんせ天誅とか言って平気で人殺しをする連中ですので、危ないったらありゃしない。

というわけで幕府は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下におく京都守護職を置きます。貧乏くじをひかされたのが27歳になった会津藩主・松平容保。正規職メンバーでは、だんだん手が足りなくなり、非正規職員の新選組を守護職御預かりとして治安維持にあたらせました。新選組の映画やドラマでは京都中を駆け回っていますが、そんなことはなくエリア毎に担当制になっていて新選組の担当地域は祇園や伏見でした。まあ浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることもあったようです。

会津藩の本陣は金戒光明寺で京都守護職の屋敷があったのが現在の京都府庁の場所。王政復古の大号令によって京都守護職は廃止されます。

御金神社

秀吉の妙顕寺城へ行く途中にあるのが金ぴかの御金神社。

御金神社
御金神社

鳥居が金ぴかになっていて、しかも参拝者が多かったので、ついでに拝んできました。調べてみると個人の屋敷の敷地に金山毘古命を祭神とする邸内社があったのを神社にしたそうです。金山毘古神は古事記の記載で日本書紀では金山彦神になります。鉱山や金属、刃物の神様みたいですねえ。この金属が転じてお金にまつわる神社になったそうです。

金運アップの神様ということで、いろいろなサイトに紹介されていました。でもキャッシュレス社会が進んだら、どうなるんだろう