武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

山住神社(岩倉の語源?)

山住神社

叡電・岩倉駅近くにあったのが山住神社。拝殿はありますが本殿はなく磐座を拝む形になっています。磐座を拝む神社は日本各地にあり、有名なのが日本最古の神社と呼ばれる熊野の花の窟神社。新宮には火祭りで有名な神倉神社があります。奈良の大神神社も三輪山にある磐座がご神体です。

なんでも桓武天皇が平安遷都のとき京都の東西南北にある4つの岩倉に一切経を埋めて、結界をはったという説があるそうです。その一つが山住神社でなんだそうで。石蔵に経典をおさめたとあるので、これが岩倉の語源になったのかなあ。岩倉上蔵城跡にも蔵の字がはいっていて、上蔵という名前が気になりますね。

岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅

京都市街の喧騒から離れた地域にあるのが岩倉です。今は叡山電鉄が走り住宅街になりましたが、昔は隠棲する場所でした。明治維新を取り扱ったドラマで必ず出てくるのが岩倉具視が隠棲していた建物です。

坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らと語り合った鄰雲軒が残っていて中に入れます。岩倉具視は公武合体をすすめ、和宮降嫁を推進したことから尊皇攘夷派から敵視され、岩倉に隠棲します。

岩倉具視は岩倉家の養子ですが、もともと岩倉家の先祖が岩倉出身で、岩倉具視の頃は岩倉とのつながりが薄かったのですが、縁があって廃屋を借りて隠棲することになります。薩摩、水戸、土佐藩士らが鄰雲軒を訪れ、慶応3年の王政復古はこの旧宅からはじまりました。

鄰雲軒などの歴史をガイドさんが説明してくれるのですが、行った時は一人だけで、なかなか贅沢な時間でした。観光客があまり来ない穴場ですね。

篠村八幡宮

篠村八幡宮

鎌倉幕府を滅ぼしたのは誰でしょう?

後醍醐天皇が倒幕を言いだしたのは確かですが、呼応したのは楠木正成など一部の武士です。倒幕できたのは足利尊氏が挙兵したからで、北条氏をよく思っていなかった武士が雪崩をうったように勝ち組にのります。

挙兵した場所が篠村八幡宮で亀岡から京都へ行く山陰街道の途中にあります。神社の横に楊(ヤナギ)の木があり、ここに足利家の二引両の旗をあげて参加する武士の目印にしました。今の木は7代目だそうです。ここから鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題を攻めます。六波羅探題は陥落し北条仲時らは京都から近江に逃れますが番場宿で追いつかれ一族432人が自刃します。鎌倉は新田義貞が攻めました。

有名な篠村八幡宮ですが、訪れる人は少なそうですね、行った時は誰もいませんでした。山陰街道沿いにあるので本能寺へ向かう明智光秀も戦勝祈願をしていますが、尊氏のように新しい幕府を作ることが脳裏によぎったでことしょう。

観音芝廃寺

観音芝廃寺

馬堀駅から少し行くと高台になっていて見晴というところがあります。地名の通り見晴がいいですね。今は住宅街になっていますが奈良時代の山陰道のすぐそばでした。一角にあるのが観音芝廃寺跡です。発掘調査され金堂や講堂跡がみつかり礎石などが復元されています。できたのが7世紀後半なので壬申の乱の頃ですね。300年ほど続きましたが平安時代には廃寺になったようです。秦氏が関わっていたのではと言われています。

■保津川開削
秦氏というと秦河勝が有名で聖徳太子の国造りを助け、広隆寺を創建します。秦氏は土地開発が得意なデベロッパーで、桓武天皇の平安京増設などに貢献します。嵐山にある大堰川の堰(葛野大堰)の原型は秦氏が作ったものです。嵐山までの保津川を開削し船運を整備したのも秦氏と言われています。丹波側の拠点として観音芝寺を作ったのでしょう。

明智越え

明智越え

保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。

亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。

住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。

恋路橋

恋路橋

大河原城がある大河原は宿場町で江戸時代は柳生藩が管轄していました。当時は水運が中心なので木津川の港として発展。本陣や問屋があり、馬借(運送)の詰め所もあり柳生藩から15頭の馬の使用が認められていました。

ここに沈み橋があります。川が増水すると水没してしまう橋のことで、なぜか恋路橋というユニークな名前がついています。橋を渡った先に恋愛・縁結びで知られる恋志谷神社があるところから名づけられています。なかなか雰囲気がある橋なので朝ドラ「カーネーション」などのロケで使われています。

西国街道をゆく(東寺)

東寺

寺が西国街道のゴールです。新幹線で五重塔が見えると京都に来たなという感じになりますが、あの五重塔があるのが東寺です。五重塔の高さですが80mほどで北山通りの標高と同じになります。京都で「上がる下がる」といいますが、高低差から理にかなっています。東寺は平安時代に官寺として西寺とセットで建てられ、羅城門を入ると朱雀大路の両側に五重塔がゲートのようにそびえていました。

やがて空海が真言密教の根本道場として東寺を活用します。この時の印象が強く、東寺といえば空海となっていて、毎月21日(弘法大師の月命日)には弘法市が境内で行われています。同時期に最澄が顕教を広めますが、修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが、これに対して密教は仏の力を借りて、呪文(真言)のような言葉で短期間で悟りに達するため、修行がいやな貴族に歓迎されます。

■どら焼きは東寺が発祥

東寺といえば「どら焼き」は東寺の僧侶が寺でも作れて腹持ちがよいお菓子を命じられ誕生しました。銅鑼で皮を焼いたことから「どら焼」と命名されます。関西では三笠山に似ているところから三笠と呼ばれています。

    西国街道をゆく(羅城門)

    羅城門

    西寺のすぐ近くにあるのが羅城門跡。黒澤明監督の映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」をモチーフにしていますが、芥川龍之介には他に「羅生門」があり、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆が登場する荒れ果てた状態でした。

    羅城門跡は小さな公園に石碑が建っているだけです。JR京都駅前に羅城門の模型があり、こちらで往時をしのべます。羅城門からは幅85mの朱雀大路を通して朱雀門まで見通せたようです。朱雀大路は軍の凱旋や外国からの賓客を迎えるイベントが行われる儀礼空間でしたので公卿を除いては朱雀大路に面して門を作ることができず、ずっと築地塀が続きました。

    ■羅城があった?
    九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在していたようです。ただし羅城が都の全周を取り巻いているわけではなく平安京に入る人へのアピールだったようです。実際に羅城が築かれるのは秀吉のお土居ですね。

    羅城門は980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなく、「光る君へ」に登場する藤原実資の「小右記」によると道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰った記録があり、源氏物語の頃は礎石しかなかったようです。道長のように礎石を持ち去ったものがいるので、現在まで羅城門の遺構が見つかっていません。

    西国街道をゆく(西寺跡)

    西寺跡

    西国街道ファンの皆様、おまたせしました。

    誰も待ってないって!まあ、そんなこと言わずに、お付き合いください。

    長岡京跡から阪急・東向日駅、JR向日町駅を超えて北東を目指します。桂川は久世橋を渡って超え川沿いの西国街道をゆくと吉祥院を過ぎて九条御前に出ます。平安京の九条通りです。九条御前の近くにあるのが西寺跡。京都駅から東寺の五重塔がみえますが対になって建てられたのが西寺です。桓武天皇は平城京の抵抗勢力である寺社がよほどいやだったのか平安京では官営の東寺、西寺以外の造営を禁じました。

    ■空海VS守敏僧都
    東寺は空海が西寺は守敏僧都(しゅびんそうず)が担当することになります。824年(弘仁15年)干ばつがあり、神泉苑で雨乞いが行われることになりました。守敏僧都は空海と法力で競いましたが敗れてしまいます。空海が雨ごいをしている時に守敏が世界中の龍を瓶の中に封じ、呪力で出さなかかったのを空海が破ったので雨が降ったといわれていますが、守敏僧都にそんな力があるなら、そもそも雨を降らせられるでしょう(笑)。空海の方が気象予報士としての才能が上だったようです。

    西寺は親方日の丸で国家財政に頼っていましたが東寺は空海のカリスマ性もあって貴族の信頼を集めます。両寺とも同じように落雷による火災がありましたが厳しい国家財政で西寺は再建がすすまず、東寺は勧進(クラウドファンファンディング)で再建され現在に続きます。