石上神宮

天理の町をずっと歩いて石上神宮へ。古代からあるとっても古い神社です。

石上神宮
石上神宮

石上神宮は物部氏の神様で、物部氏の祖は饒速日命(ニギハヤヒ)であり神武天皇よりも前にヤマト入りをしていた不思議な豪族です。物部守屋と蘇我馬子・聖徳太子の戦いが有名ですが物部氏は滅んだわけではなく、一族の石上氏がその後を継ぎます。石上氏は天理周辺を本拠地していたようです。河内も物部氏の根拠地で石切神社も物部の神様です。

石上神宮といえばスサノオがヤマタノオロチを退治した布都御魂剣(十握剣)が有名です。もともとは岡山の石上布都魂神社にありましたが石上神宮に移されました。どうも物部氏は吉備出身といわれており、邪馬台国・畿内説の有力候補である纏向遺跡から吉備の土器が出ているのが意味深です。

物部氏は軍事を担当していたので石上神宮はヤマト政権の武器庫でもありました。

天理

天理駅から長い商店街を歩くと天理教本部教会の前に出ます。

天理
天理

商店街にはふつうのお店も多いのですが、天理教の教本を売っている本屋や神具を売っているお店があるのは独特ですね。若い兄ちゃんや姉ちゃんが天理教の黒い法被を着て商店街を歩いているのも天理ならではです。日本では珍しい宗教都市で海外でいえばバチカン市国みたいなもんですかねえ。高野山もよく似た雰囲気があります。

天理といえば有名なのが天理図書館。2代目真柱だった中山正善が古典籍を収集し、収集を手伝っていたのが古書肆「弘文荘」の反町茂雄。国宝の日本書紀、播磨国風土記また源氏物語、新古今和歌集などが散逸せず収集されました。本を集めるといっても、陰にはいろいろとドラマがありまして、詳しいいきさつなどは「天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出」(八木書店)に語られています。

といっても今回の目的は石上神宮ですので、天理図書館は素通りです。

家原寺

行基が生まれたのが堺の家原寺(えばらじ)。慶雲元年(704年)に行基が生家を寺にしたのが起源になっています。明治の廃仏毀釈で荒廃していましたが三重塔などが再建されました。

家原寺
家原寺

行基が出家したのは15歳で、その後、薬師寺で道昭に学んだのが大きかったようです。道昭は、遣唐使として定恵らとともに唐に入った僧で、しかも西遊記で有名な玄奘三蔵に法相教学を学びます。日本に戻ってから全国を遊行し、各地で土木事業したことが行基に影響を与えました。

行基も近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業を行います。中百舌鳥駅から泉北高速鉄道で深井駅へ向かう時にトンネルを抜けると線路の両側に菰池が見えますが、これは行基が造った薦江池(こもえいけ)ではないかと言われています。

土塔

奈良の大仏作りの先導者といえば行基です。近鉄奈良駅前の待ち合わせ場所といえば噴水ですがこの噴水の上にいるのが行基です。

土塔
土塔

当時は僧が直接、民衆への布教を禁止されていた時代です。行基は畿内を中心に階層を問わず広く人々に教えを説いていました。これが集団でしたので政権側は異様に恐れていました。つまり反体制派です。しかし灌漑事業や橋をかけるなど民衆のために行っている行動がだんだんと評価され、最後は大僧正までになります。

行基は四十九院を建立したと言われていますが、その一つが生まれ故郷である堺にある大野寺の仏塔です。仕事で堺の深井まで来ましたので昼休みに久しぶりに寄ってきました。

塔といっても薬師寺や法隆寺のような木の塔ではなく土と瓦で作られた塔です。奈良にある頭塔と同じようなものですね。一辺53.1m、高さ8.6mの十三重の塔になっています。

金剛峯寺 仁王像

吉野にあるのが金峯山寺。青い金剛蔵王大権現で有名です。

仁王像
仁王像

JR東海の「いま、ふたたびの奈良へ」では、この金剛蔵王大権現が印象的でした。

この金剛峯寺の入口を守るのが国宝の仁王門です。建立されたのは吉野が南朝の拠点となった南北朝時代。700年経ったということで10年をかけて解体修理中です。

仁王門を守るのが仁王像で、こちらも修復することになり吉野を出て、良国立博物館の仏像館で仁王門の解体修理が終わるまで展示中です。高さ5mはあり、迫力がありますねえ。

朱雀大路

平城京の大内裏南面にある朱雀門から羅城門まで3.7kmにわたって続くのが幅70メートルの朱雀大路です。朱雀大路はそのまま下ツ道につながり、遠く藤原京まで延びていました。

朱雀大路
朱雀大路

広い朱雀大路を活用して朱雀門前では外交使節を迎える儀式や騎兵の出征や凱旋が行われました。また美観にこだわっており十数名ほどいた公卿以外は朱雀大路に面して門を作れず、整然と築地塀が続いていました。また道の脇には排水溝と街路樹が整備されていました。

現在、朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備されており、当時を彷彿できます。名古屋の100m道路のようですなあ。

興福寺・西門

奈良博三昧を見た後、帰り道の興福寺へ。国宝館へ寄って阿修羅像などを見てきましたが係員以外、誰もいません。コロナ禍で修学旅行もなくなったので観光客よりも鹿の方が多い状態です。

西門
西門

国宝館のすぐ近くで発掘調査をしていました。復興された中金堂と東金堂との間に昔は西門があったそうで今は東金堂しかありませんが、東金堂も回廊に囲まれていたそうです。

今、中金堂との回廊と東金堂との間は広い参道になっていて、五重塔の写真を撮るベストポジションですが、往時はもっと狭かったようです。中金堂復元の後は五重塔の修理に入るそうで、さすがに西門の復興はないでしょう。

天平時代のコロナ特別休暇願い

奈良博三昧には天平宝字2(758)年に書かれた休暇届もありました。万昆嶋主が勤務先の写経所に提出したものです。

万昆嶋主解
万昆嶋主解

なんでも親戚(父親の姉妹?)が重病になり、起きることができない状態となったため、看病をしていたが病状が回復しなかったので、さらに4ケ日の休暇を願い出たものです。他に看病する人がいないとも書かれています。

天平時代は天然痘が大流行し、藤原四兄弟が次々に亡くなった時期です。新羅に派遣されていた遣新羅遣から全国に拡がったのが原因のようです。重病の原因が天然痘なら、万昆嶋主が提出したのは今でいうコロナ特別休暇願いですね。

いまと同じようにパンデミックによる社会不安が起きます。ワクチンなどの有効策がないため聖武天皇が考えたのが全国に国分寺を建てて、金光明最勝王経による疫病バリアをはりめぐらせることでした。バリアの中心となるのが奈良の大仏になります。

紫微中台

国立博物館で奈良博三昧をやっていて、展示されている古文書を見ていると紫微中台の文字が!!

紫微中台
紫微中台

紫微中台だ~あ!

紫微中台って何か分かりますか。よみは「しびのちゅうだい」です。

もともとは臣下出身から初の皇后となった光明皇后のために作られた皇后宮職があり、これを唐風の名前に改めて発足させます。横文字のデジタル庁みたいなものですね。

■紫微中台
律令制度にない新設の官職(令外官)で聖武天皇と光明子の娘である孝謙天皇を補佐するために749年に設置されました。トップになったのが藤原仲麻呂、そうです恵美押勝です。権限を握ったこともあり、橘諸兄、吉備真備、道鏡などオールスターとの政変になります。仲麻呂の後ろだてだった光明皇太后が760年に亡くなると、紫微中台も廃止されます。

■藤原仲麻呂の乱
そして起きるのが藤原仲麻呂の乱。平城京を脱して息子が国司をしている越前を目指す藤原仲麻呂ですが立ちはだかるのが吉備真備です。吉備真備は70歳と高齢でしたが唐で軍略などを学んでおり、仲麻呂の先回りして三関を閉め、琵琶湖の西側に追い込みます。現在の近江高島あたりにあった三尾城あたりで仲麻呂は最後を遂げます。

10年ちょっとの紫微中台の文字が古文書に残っているんですねえ!

平城京 南門

平城京南門が・出来上がりました。
「なんと、りっぱな平城京」で覚えた平城京遷都は710年。藤原京から移り、長岡京に遷都するまで70年ほどの都でした。

平城京南門
平城京 南門

大極殿正殿と朱雀門が出来上がっているので、南門を含めた3つが縦に並んで見られるようになります。計画によると築地回廊、東西楼(南門の東と西にあった建物)、内庭広場も随時、復原整備されるんですね。

■幕末からの保存活動
遷都後の平城京はだんだん廃れ、長い間をかけて田んぼなどになっていました。江戸時代末期に藤堂藩の飛地が古市にあり、古市奉行所に勤めていた北浦定政が自ら考案した測量車を使って奈良盆地をくまなく調査。地図の上に平城京を復元します。これが「平城宮大内裏跡坪割之図」。平城京は碁盤の目のように区画されていましたが、水田のあぜ道などや古い地名を調べて比定していきます。

ペリーの黒船来航などで騒然としたいた時に、こんなフィールドワークをやっていたんですね。明治になってから関野貞が大極殿の基壇を見つけ、棚田嘉十郎によって奈良大極殿保存会が設立され、保存運動がすすみ、現在の平城旧跡歴史公園が誕生します。